9 苑子の選んだ道
朝早くに起き出して炊事をすること、冷たい水で洗濯をすること、床に屈んで拭き掃除をすること……。家事は大変なことも多いが、知らなかったことを知り、できなかったことができるようになるのは琴子にとっては喜びでもある。
朔夜の母も兄も琴子を嫁としてすんなり受け入れてくれたことで、とりあえず琴子も肩の力を抜くことができた。義姉も何かと琴子を気にかけてくれる。姪の鈴はまだ屈託のある様子だが、邪険にされているわけではない。甥の樹にはまだ会えていなかった。
この家で暮らしはじめて3日目には琴子の母が突然訪れて、娘が望んだ相手と夫婦になったことを祝福してくれた。父のことはまだ棚上げの状態だが、琴子の心はずいぶん軽くなった。
それでも琴子がときおり淋しさを感じてしまうのは、朔夜になかなか会えないからだ。
皇女さまのご学友だったころは週に4回、皇太子殿下のお妃候補として東宮殿にいたひと月はほぼ毎日朔夜に会えた。ただし、ふたりの間には常に殿下がいたから話すことはおろか、その姿を見ることさえ憚られた。
夫婦になった今では朔夜に会うことさえできれば会話を交わして声を聞くことも、意外と表情を変える顔を見つめることも、触れることもできた。それは琴子の一方的な想いではなく、朔夜からも同じ気持ちが伝わってくる。あの幸せな時間を知らなかったころには絶対に戻りたくない。だから琴子は我慢して朔夜の帰りを待つのだ。
少し気になっているのは、朔夜が帰った翌朝は皆が気を使ってくれているらしいことだ。琴子が朝の炊事に顔を出さなくても義母は何も言わない。それどころか皆が朝食を食べ始めるころになって家を出る直前の朔夜に起こされてようやく目を覚まし、部屋の中で朔夜を見送ってから慌てて身支度をして居間に下りていく琴子に誰も何も言わない。ただ、笑って迎えてくれる。それが琴子には逆に居たたまれない。いつもどおりに起きられない琴子が悪いのだが。
朔夜と夫婦になって半月ほどが経ったある日の午後。
「琴子、お客さまだよ」
庭にいたところを頼子に呼ばれて琴子が玄関に出ていくと、そこにいたのは立ち姿も華やかな友人だった。
「まあ、苑子さま」
「琴子さま、お久しぶり。お元気そうね」
「はい、苑子さまも」
そう言いながらも、琴子は苑子の様子が今までとは何か違うようで首を傾げた。おそらく着物が地味なせいだ。その姿は琴子自身がこの家に初めて来たときに重なるようだった。
「琴子さま、可愛らしいお着物ね」
琴子の心内を知ってか知らずか、苑子がそんなことを口にした。
「ありがとうございます。中へどうぞ」
苑子を居間に招き入れると、頼子がお茶を出してくれた。ごゆっくりと言って頼子が出ていくと、苑子が口を開いた。
「あちらが朔夜どののお母さまね。何と言ったらいいのかしら、大らかで逞しそうで。士族の女性って皆ああなのかしら。だけど、あの殿下の護衛どののお母さまはあんなににこやかな方ですのね。まあ、護衛どのも笑うことがあるのは先日琴子さまに教えていただきましたけど」
苑子が言う先日とは祝言のときのことだろう。
「士族も貴族と同じで色々な方がいらっしゃるだろうと思いますが……。ところで苑子さま、ここまでおひとりで来られたのですか?」
「もちろん、そうよ。だけど思っていたより近いのね。朔夜どのに描いていただいた地図もわかりやすかったし」
「今日はどちらからいらしたのですか?」
どうやら右大臣邸からではなさそうなので、尋ねた。
「東宮殿ですわ」
「まだ東宮殿にいらっしゃるの?」
「ええと、どこからお話しすればよいのかしら。お妃選びがやり直されることはもうご存知よね」
「はい。私のしたことで皆さまにもご迷惑をおかけすることになってしまい申し訳ありません」
琴子は小さく頭を下げた。
「それは違いますわよ。どちらかというと私のせいね。ですが、殿下はやり直しになって喜んでいるように見えましたから、私は楓さまにだけ謝りましたわ。あの方はもう一度同じことをなさらなければならないわけですから」
「苑子さまのせいというのはどうしてですの?」
「あら、朔夜どのはそれもあなたにお話しされていらっしゃらないのね。私、妃候補を辞退させていただきましたの」
「ええっ」
琴子が声をあげるのに、苑子は眉を寄せた。
「もっと大変なことをなさった方がなぜそんなに驚かれるの」
「ですが、私は苑子さまが妃殿下になられるものと思っておりました」
琴子がそう言うと、苑子は頷いた。
ーーーおそらく皆さまそうでしたでしょうね。殿下はどうかわかりませんが。私だってあの日までは琴子さまと正々堂々競い合って、その上で私がお妃になるのだと思っておりましたのよ。それなのにあなたが呆気なくそれを放棄なさったから私の不戦勝なんて虚しいと思ってしまったのですわ。
琴子さまも同じように思ってくださっていたけれど、結局は朔夜どのの手を取られたわけですわね。琴子さまが朔夜どのと結婚なさると最初に聞いたときには訳がわかりませんでしたわ。父が何かしたのではと疑いさえしました。
ですが神殿でおふたりが並ぶ姿を見てようやく理解しました。あなたが、いえあなた方がずっと私たちに本当のお気持ちを隠してこられたのだと。もちろん、いくら友人でもそんなこと言えるわけがないのはわかりますし、まったく気づけなかったのは私の力不足なのでしょう。ですから琴子さまが私に謝る必要はなくてよ。
私は妃候補なら当然殿下に恋をするものだと思っておりました。でもそれが思い込みだとわかって、私自身の殿下への気持ちもよくわからなくなりました。もちろん好意はありますが、たとえ妃殿下に選ばれたとしても琴子さまが朔夜どのの隣で見せていらっしゃったようなお幸せそうな顔はできないだろうと。
だから私は妃候補を辞退することにしましたが、もちろんあなたと同じ問題がありました。そんなことを父が許すはずがないのです。家に帰れば軟禁されて父が選んだ相手と結婚させられるに決まっています。
そうならない方法を考えて、私は東宮殿で働きたいと殿下にお願いしました。殿下はそれをお聞き入れくださり、私は今女官見習いとして日々励んでいるというわけですわ。
考えていたよりずっと奥の深い大変なお役目です。でも私には実は妃殿下よりも向いているのではと思っています。いずれは青山どのの地位を脅かすつもりでやりますわーーー
琴子は苑子の話を複雑な思いで聞いていたが、とにかく今の苑子が楽しそうで活き活きして見えることに安堵した。
「そうそう、今の話は殿下にもすべてお話ししたことです。そうしないと認めてくださらなかったので。つまり朔夜どのも聞いていたのですが、琴子さまには私から直接お話ししたかったので口止めさせていただきました。新婚夫婦の間に秘密を作らせてしまって申し訳ありませんでしたわ」
「いいえ」
琴子は首を左右に振った。
「ですが、琴子さまも以前と変わらぬご様子で安心いたしました。あなたのことですから、皆さまに可愛がられてうまくやっていらっしゃるのでしょうね」
「ええ、よくしていただいておりますわ」
苑子が帰るおりには頼子も一緒に見送ってくれた。
「どうも、お邪魔をいたしました」
頭を下げた苑子に、頼子がいつもの笑顔で言った。
「またいつでもどうぞ」
「はい。また参ります」
苑子も彼女らしい花のような笑みを返した。