7 初夜
その夜、ようやく朔夜は皇宮を出ることができた。気がつけば、琴子に会えぬまま霜月を迎えていた。朔夜のすぐ後ろで鈍い音を立てて門が閉ざされ、太鼓が一度鳴らされた。青龍門から出たので、皇宮内を突っ切り白虎門から出るよりも倍の時間がかかるのだが、それでも琴子に会えることを思えば足取りは軽かった。
家で迎えてくれたのはいつもどおり母だった。
「ただいま帰りました」
「お帰り」
「琴子は?」
「もう部屋だよ」
さっさと2階へ上がろうとする朔夜の腕を母が掴まえた。
「ちょっと待ちなさい。昨日、琴子の母君が家に来られたよ」
「え、何をしに?」
驚いて向き直った朔夜に母が答えた。
「娘に会いに来たに決まってるだろ。……わたしに頭を下げられたよ、娘をよろしくって。貴族も士族も母親は同じなんだね。わたしは息子しか育ててないからあの方の気持ちを全部はわかってないのかもしれないけど」
「それでは反対はされてないのですか?」
「左大臣さまの手前、大っぴらに賛成とは言えないみたいだけどね。琴子もホッとしただろう」
「それは良かった」
朔夜も少し安堵を覚えた。
「ほかにも何かありましたか?」
「今夜はもういいよ。まったく、落ち着かないね」
母の苦笑を背に朔夜は階段を上った。
戸の外から声をかけても反応はなかった。ゆっくりと戸を開けて部屋の中を窺うと、床の敷物の上で丸まって眠っている寝巻姿の琴子が見えた。静かに近づいて覗きこめば、その寝顔は穏やかなものだった。
琴子の手には朔夜も見覚えのある表紙の本があった。殿下からの祝儀、だ。朔夜はその本を取ると、改めて題名を読んだ。確か皇女とその護衛が恋に落ちるという内容の古典小説だ。喜劇か悲劇かまでは朔夜は知らないが。
本を棚に置くと、朔夜は琴子をそっと抱き上げて寝台へと運んだ。琴子に目を覚ました様子はなかった。
朔夜も黒の着物を脱ぐと、妻の隣に潜りこんだ。狭い寝台にふたりで横たわれば、嫌でも体が触れ合った。もちろん、朔夜は嫌なわけがない。ただ体温を感じる距離で愛しい人の寝顔を見つめられる幸福にまだ慣れないだけだ。
しばらくして朔夜が灯りを消すために体を捻ろうとすると、琴子が小さく呻いた。見ればその目がぼんやりと開き、何度かの瞬きのあとで朔夜を捉えた。
「すみません、起こしましたか」
「朔夜さま」
呼んでからハッとしたように琴子が起き上がったので、朔夜も身を起こした。
「いつお帰りに?」
「ついさっきです」
「起こしてくださればよろしいのに」
「よく寝ていたので」
「次からは必ず起こしてください」
朔夜は口を開こうとして、やめた。琴子は泣き出しそうな顔をしていた。
「お会いしたかったのです」
震える声でそう告げた琴子を朔夜は抱き寄せた。
「わたしも琴子に会いたかったです」
琴子の両手が縋るように朔夜の寝巻を掴んだ。朔夜は琴子の髪や背中を優しく撫でた。やがて朔夜が腕の力を緩めて見下ろすと、琴子も顔を上げた。その濡れた目尻を朔夜は指でそっと拭った。
「ほんの数日会えなかっただけなのにごめんなさい」
琴子が言うのに朔夜は首を振った。
「わたしは色々と至らないと思うので、何でも言ってください」
だが琴子が次に何かを言うより前に、朔夜は妻の口を塞いでしまった。
琴子がまだ眠っているのを確かめてから朔夜は寝台を抜け出した。台所に下りていけば、母と義姉がすでに働いていた。
「おはようございます」
「おはよう。琴子はまだ寝てるの?」
「できたらもう少し寝かせてあげたいんですけど」
「仕方ないねえ。大事な嫁に無理させないでよ」
最初のときに無茶をしたので、昨夜は無理をさせないよう気をつけたら寝る時間が遅くなってしまったのだが、それは口には出さない。
「朝ご飯は食べて行くんだろう?」
「うん。庭にいるのでお願いします」
朔夜は裏庭に出ると木刀を手に素振りをした。やがて母に呼ばれて、ひとり朝食を摂った。朔夜のために早めに用意してくれたらしい。食べ終わるころになって鈴が姿を見せた。
「あれ、朔夜兄来てたんだ」
「うん。樹は今日もいないの?」
「あの子は衛門府に入ってからちっとも顔を見せないのよ」
義姉がぼやくと、母も顔を顰めた。
「朔夜の悪い影響が出たね」
「……今度会ったら言っておきます」
朔夜が部屋へと戻っても琴子はまだ眠っていた。しばし悩んでから朔夜は琴子を起こすことにした。このまま出ていけば次に帰ったときにまた恨みごとを言われるだろう。
「琴子」
名前を呼んで数度体を揺すれば、琴子はすぐに目を覚ました。朔夜の姿を認めると、慌てて体を起こした。
「もう行くのですか?」
「あなたはまだ休んでいて大丈夫ですよ。母もわかっているので」
「そんなわけには参りません」
寝台を下りた琴子の胸元を目にすると、朔夜は小さく「あ」と声を漏らした。手を伸ばし妻の寝巻の衿元を合わせ直す。
「すみません。きつく締めてしまわないよう気をつけたのですが、緩すぎたみたいです」
その意味を理解して琴子が頬を赤らめた。
「こちらこそ、お手を煩わせてすみませんでした」
「別に煩わされてはいませんが、やはり寝ている人に着物を着せるのは難しいですね」
「起きていれば簡単、ということですか?」
「やったことはないですが、殿下の御着替えを見ているとできそうな気がします」
「それはそのお役目の者がしているからそう見えるだけではありませんか?」
琴子がフフと笑った。
「そうかもしれませんね」
朔夜も笑った。そこでふと琴子が表情を改めた。
「そう言えば、お妃選びはどうなったのですか? どなたになったのか報せがまったくありませんでしたが」
「妃殿下はまだ決まっていません。お妃選びはやり直すそうです」
「どういうことですか?」
「殿下がそうしたいと皇太后陛下、皇后陛下に談判して認められたのです。詳しいことはまた今度にします。すみません」
「いいえ、私こそすみませんでした」
「では、そろそろ行きます」
「はい。どうか私のことは心配なさらずに、お役目にお励みくださいませ」
琴子はやはり微笑んでいるが、その瞳には真剣な色が浮かんだ。朔夜はそれをジッと見つめてから、わずかな間だけ妻を抱きしめた。