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5 嫁の覚悟

 皿を下げる美冬を手伝おうとしてまだいいからと断られ、頼子とふたりで向き合う形になった。

「琴子さん、少し話したいんだけどいいかい」

「はい」

 琴子は反射的に背筋を伸ばした。頼子はどう始めるか考えているようだった。

「琴子さんはお父さまをお仕事に送り出すとき、何て言うの?」

「え、行ってらっしゃいませ、ですが」

 質問の意図がわからず戸惑いながら答えた琴子に、頼子は頷いた。

「まあ、そうよね。でも、わたしたちはそれは使わないの。ちょっとそこまでとか、子どもが学校に行くときなら行ってらっしゃいだけど、家族が仕事に向かうときには言わないわね」

「それでは何と言うのでしょうか?」

「しっかり励めとか、役目を果たせとかね。行ってらっしゃいという言葉は相手が戻ってくることが前提でしょう。衛士のお役目は命を懸けてこの国や人を守ること。だから残してきたもののために仕事を疎かにすることのないように、わたしたちのことは何も心配するなとも伝えるのよ」

 琴子は青龍門の前での美冬と朔夜のやり取りを思い出した。確かに美冬はそのような言葉を口にしていた。

「もちろん、それは建前よ。本当はわたしたちも家族が無事で帰ることを願ってる。もうずっと戦がなくて、今は衛士でも天寿を全うする人がほとんどだけどね。朔夜の父親も病だったわ。だけど、いつ何があるかわからないのも事実だから、わたしたちは大切な人がある日突然帰らなくなることを覚悟して暮らしてる。あなたも朔夜の嫁になるならその覚悟をしてください」

 頼子は穏やかな表情でゆっくりと話したが、琴子は自分の顔が強張っているのがわかった。しっかりした声を出す自信がなくて、代わりに深く頷いた。

「きちんと覚悟して、朔夜がちゃんと帰ってきたときには、あなたはしっかりあの子に甘えて言いたいことを言って」

「甘えていいのですか?」

 琴子がやはり震えてしまった声で尋ねると、頼子は優しく笑った。

「ええ、もちろん。そうして、最期の最期にあの子がこちら側に留まるための重しになって欲しいの。そういう役目は母より妻のものでしょう」

「はい」

「来てくれたばかりのお嫁さんにこんな話でごめんなさいね。でも大事なことだから」

 言いながら、頼子は立ちあがった。

「さてと、それじゃあ琴子にも一緒に家事をしてもらおうかね」

 呼び方が変わったことに気づいて、琴子も立ちあがりながら先ほどよりは明るい声で返事をした。


 母に言われたとおりに渡された白い前掛をつけ、髪を後ろでまとめた。まずは掃除だったが、道具の使い方を教えてもらうところから始めた。次に布団を取りこんだ。屋敷には琴子の胸下ほどの高さの垣根に囲まれた裏庭があって、そこに井戸や物干し竿があった。

 さらに洗濯物を取りこんでいると、途中で美冬が隣家の女性に捕まった。女性が琴子のことを物珍しそうに見ているのがわかった。

「琴子、来て」

 美冬に呼ばれて琴子もふたりのほうへ近づいた。美冬が女性に紹介してくれた。

「隣の大下さん家の葉子さんよ。これは朔夜の嫁の琴子」

「はじめまして。よろしくお願いします」

 琴子は頭を下げた。葉子はまじまじと琴子を見つめた。

「へえ、朔夜が結婚したの。可愛らしい娘さんねえ」

 家の中に入ってから、美冬が言った。

「琴子はやっぱり目立つしジロジロ見る人もいると思うけど、多分最初だけだからしばらくは我慢してね」

「私、目立ちますか?」

 美冬だけでなく頼子も頷いた。

「士族には見えないからね」

「でも貴族や平民からお嫁に来る人もいるから、大丈夫よ」

 美冬が安心させるように言うが、おそらく貴族でも下位と言われる家からなのだろうということは琴子にもわかった。

 それから夕食の準備にかかった。ここでも道具や鍋の種類などから聞いていく。包丁の使い方を手取り足取り習うが、見ているふたりのほうが固い顔をしていた。

 やがて表で声がして、ひとりの娘が姿を見せた。

「おかえり。鈴、琴子よ。これはわたしの娘の鈴。13歳よ」

 美冬がまたそれぞれを紹介した。琴子と鈴も挨拶を交わすが、鈴はどこかぎこちない。琴子のほうも想像していたより姪が大きかったので、密かに驚いていた。しかしよく考えると第一印象で美冬は母と同年代と見たのだから、その子が琴子と大して歳が変わらないのも不思議ではなかった。

 さらに夕食の支度が整い居間の座卓にいくつかの大皿が並んだころに、もうひとりが帰宅した。今度は美冬が玄関まで出迎えた。朔夜の兄はやはり琴子にとっては父に近い年齢の人だった。

「ええと、我が家へようこそ。兄の直哉です」

「はじめまして、琴子です。お世話になります」

 琴子はしっかり一礼した。

「さ、食べましょう」

 夕食は昼食以上に賑やかなものだった。各自の前には白米と味噌汁、空の小皿。お菜は大皿に盛られて何種類も並び、好きなだけ手元の小皿によそって食べる。

 食事中に、家に不在の朔夜の甥は(たつき)という名で16歳、今は衛門府の見習い衛士として寮で暮らしていると知った。

 一方鈴は女学校に通っていた。どんなことを習うのか尋ねると、どうやら琴子が皇女さまのご学友だったときに学んだことに近いようだ。琴子がそう言うと、

「皇宮で教えていることとは内容や水準にだいぶ開きがあると思うけど」

 と美冬は苦笑した。


 夜、部屋でひとりになってから琴子は頼子の話を反芻した。同時に思い出すのは、琴子と朔夜が東宮殿で密やかに起こした騒動のことだ。

 琴子は朔夜から「妻に」と言われて喜びを感じ、直後には失うことを怖れた。そうして思い込みだけで足掻いた結果、朔夜を傷つけた。書庫で彼が見せた苦しそうな表情が忘れられない。

 琴子には朔夜のために死ぬ覚悟はあった。でも義母が息子の嫁に求めたのは逆のことだった。そして殿下が昨日琴子に言わせたのもおそらくは同じことだったのだろう。

 長い間、自分自身にも隠してきた望みを叶えて琴子は朔夜を手に入れた。だけど実際のところ、朔夜は殿下の護衛であり殿下のために命を捧げる人だ。それを理解していて妻になったのだから、琴子は覚悟を決めるしかなかった。

 燭台の灯りを消して、寝台に横たわった。布団や敷布の感触も今までとは違う。

(子どものころの朔夜さまはここで寝ていたのね。この布団も同じものかしら)

 小さな朔夜を想像するうちに琴子は眠りに落ちた。

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