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番外編 初雪を融かす(後)

 朝、まだ暗いうちに朔夜は目を覚ました。直後に、隣に琴子がいないことに気づき、朔夜は跳ね起きた。

「琴子」

 すぐに返事が聞こえて、戸が開いた。

「朔夜、起きましたか」

 居間から姿を見せた琴子に朔夜はホッとし、寝台を飛び出して抱きついた。

「よかった」

 それから体を離して、朔夜は琴子を見下ろした。琴子は女官の衣装を身につけていた。

「その格好、まさか仕事に行くつもりですか?」

「もちろんです」

「今日くらいは休んでください」

「もうすっかり元気なのに、休む理由がありません。逆の立場だったら、あなたは休まないのではありませんか?」

「昨日、わたしがあなたに無理をさせたことは自覚しています。だから休んでください。殿下と妃殿下にはわたしが頭を下げます」

 ふいに琴子が朔夜に頭を下げた。

「朔夜、昨日は迷惑をかけて申し訳ありませんでした」

「琴子が謝る必要などまったくないでしょう。むしろ謝らねばならないのはわたしのほうなのに」

 琴子が口を開きかけたところで裏戸が叩かれた。

「わたしが出ます」

 朔夜が開けた戸から朝食の膳を運びこむと、食堂の下女は二つ折りの紙を朔夜に差し出した。

「櫻井どのからお預かりいたしました」

「ありがとう」

 下女が去ってから朔夜はそれを開いた。そこに並んだ文字は真雪ではなく殿下の手蹟だった。

「朔夜、どうしたのですか?」

 朔夜が振り返ると、琴子が心配そうに居間から覗いていた。朔夜はにっこり笑って琴子に紙片を見せた。

「殿下からの命です。昨日被害に遭った衛士には今日休みを取らせるので、琴子も休むようにと」

「そうですか」

 琴子は小さく嘆息した。

 部屋を出る夫を久しぶりに見送る形になった琴子を、朔夜はしっかりと抱きしめた。屈託なくそうできることが嬉しかった。

「私のことは心配いりませんから、どうかあなたのお役目を果たしてくださいませ」

「はい。琴子はちゃんと休んでいてくださいね」

「はい。分かっております」

 離れてから琴子を見るとなぜか淋しそうな笑顔だった。


 朔夜が東宮殿に行くと、すでに殿下は真雪とともに執務室にいた。礼をとって挨拶をした朔夜に、殿下が尋ねた。

「琴子はどうだ?」

「大丈夫です。今日も仕事に来たがっていました」

「それなら良かった」

「妃殿下はいかがですか?」

「さすがに動揺していたが、今朝は落ち着いたようだ。琴子の無事を聞けば安心するだろう。真雪、昨日の件のあらましを聞かせてやれ」

 殿下の言葉を受けて、真雪が口を開いた。

「事が起こったのは妃殿下が神殿を出た直後。神殿のすぐ脇の建物の屋根から薬を仕込んだ紙風船のようなものが妃殿下に向かって投げられた。衛士がそれを槍で突いてしまったため上空で風船が割れて、下にいた衛士6人と琴子どのが薬を浴びた。薬は非合法の媚薬。衛士たちも今のところ問題ない」

 真雪は一息ついてから淡々と続けた。

「紙風船を投げた男はその場で捕えられた。気になるのは神殿前に想定よりずいぶん多く人が集まっていたこと。そして、興奮状態にあったらしいこと。神殿前で無料の甘酒を配っていた者が複数いたという話があるが、その者たちは見つかっていない」

「甘酒にも何か薬が入っていたということか?」

 朔夜の問いに、真雪は眉を寄せた。

「まだどちらとも言えないな。だが、入っていたとしても飲んだ者たちもすでに効果が消えたあとで、今から調べるのは難しいだろう。とはいえ、さらに酷い事態になっていた可能性もあったわけで、それは回避できたことになる」

「今、衛門府で捕えた男の取調べ中だ。そなたも加わるか?」

 殿下に訊かれたが、朔夜は首を振った。

「いえ、冷静でいる自信がありませんので」

「別によいのではないか。死なせぬ程度にやれば」

 珍しく殿下が真顔でそんなことを口にした。殿下がその内に怒りを溜めていることに朔夜はようやく気がついた。実際に被害を受けたのは琴子でも、狙われたのは妃殿下なのだから当然のことだった。

「殿下、朔夜を焚きつけないでください。朔夜、衛門府には当分近寄らなくていい」

 慌ててそう言った真雪を睨んでから、殿下は再び朔夜を見た。

「今日はもういいぞ」

「え?」

「さっさと琴子のところに帰って一緒にいてやれ。我が妃の頼みだ」

「妃殿下の」

「ついでに、そろそろ琴子と仲直りをしろ」

「別に喧嘩などしておりませんが」

「だが、何やらぎくしゃくはしておるではないか。そなたのように面倒な男の妻を喜んでやってくれるのは琴子だけだぞ。そのありがたみを分かっておるのか?」

「……もう大丈夫です」

「本当か? 朔夜がそう思っているだけではないのか?」

 朔夜は出掛けに見た琴子の表情を思い出した。途端に、落ち着かない気持ちになった。

「帰って琴子と話します」

「そうしろ。そなたはいざという時、言葉が足りぬからな」

 朔夜は礼をとると、殿下の前から退がった。


 寮の部屋の前まで戻ると、琴子が居間の障子を開けたまま座り込んでぼんやりと外を眺めていた。朔夜がそちらに近寄っていくと、琴子が朔夜に気づいた。

「朔夜、どうしたのですか?」

「今日は帰っていいと言われました。妃殿下のご配慮だそうです。琴子はこんなところで何をしているのですか?」

「昨日の雪は積もるほど降ったのですね。もうほとんど融けてしまいましたが」

「ええ。ですが、昨日よりも暖かくなったとはいえ今日も充分寒いのですから、もう障子を閉めて中に入りましょう」

 琴子が素直に頷いたので、朔夜はそのまま居間に上がって障子を閉めた。琴子の肩を抱くと思った以上に着物が冷たかった。その着物は朝と同じ女官衣装だった。

「琴子、まだ着替えていなかったのですか?」

「ああ、すっかり忘れていました」

「とにかく、まずは体を温めてください。こんなに冷えているではないですか」

 朔夜は琴子を火鉢のそばに座らせると、自分も隣に腰を下ろした。少しでも早く温まるよう自分の羽織を脱いで琴子の肩に掛け、その体を摩り、手に息を吹きかけてやった。

 朔夜にされるがままになっていた琴子が、ふいにポツリと言った。

「朔夜、無理をしていませんか?」

「無理をするのはやめました」

「では、もうお終いなのでしょうか?」

「ええ、お終いです」

「嫌です」

 叫ぶように琴子がそう言ったので朔夜が驚いてその顔を見ると、両の瞳からボロボロと涙が溢れていた。

「琴子?」

 琴子は朔夜にギュッとしがみついてきた。

「嫌です。どうか私をこのまま朔夜の妻でいさせてください」

朔夜は琴子の体を抱きしめ返した。

「琴子、何を言ってるのですか。そんなの当たり前でしょう」

 琴子が朔夜の顔を見上げた。まだ泣いている。

「でも、外に女の方がいるのではないですか? その方と子を作るのでは?」

 朔夜の声は思わず強くなった。

「いるわけないでしょう。わたしは琴子以外の相手とそんなことはしたくありません」

「ならば、ただ私の存在が重くなっただけなのですか? あなたは妻を持つつもりはなかったのですものね」

「なってません。そう思っていたのは琴子を妻にできるはずがなかったからです」

「ならばひと月も私に触れなかったのはなぜですか? 寝台まで別にして」

「それは、琴子が子どもができないことで自分自身を責めるのを見ているのが辛かったからです。本当の原因なんて誰にも分からないのに。だけど、このひと月のことならはっきりしています。わたしが琴子に触れなかったせいです。だから、琴子はわたしを責めればいいのです」

 琴子は戸惑ったような顔になった。涙も止まったようだった。

「そんな理由なのですか?」

「そうですよ。どうして自分はこんなに我慢しているのかと何度思ったか知れません。琴子にまったく触れずにいることはできなくて、お役目に行く前だけは己に許していましたが、いつか理性が飛んであなたに酷いことをしてしまうのではないかと不安でした」

 涙に濡れた琴子の顔を袖でそっと拭いながら、朔夜は言った。

「つまり、それが朔夜のしていた無理なのですか」

「はい。だから、昨日は琴子が薬のせいで苦しんでいたのに自分を抑えることができなかったのです。すみませんでした」

 首を振った琴子に、朔夜は告げた。

「昨日、琴子が怪我をしたと聞いて、わたしは自分の立っている地面が消えたように感じました。もしも琴子がいなくなれば、わたしは世界を失います」

 朔夜は琴子に縋りついた。

「わたしは情けない夫です。でも、わたしには琴子しかいません。どうかずっとわたしの妻でいてください。お願いします」

 琴子が応える前に、朔夜はその口を塞いだ。その勢いのまま、琴子の体を床に押し倒した。寝台の上以外でそうするのは初めてだったが、妻は怒りも詰りもせず朔夜を受け入れてくれた。


 朔夜が腕の中にいる妻の髪を撫でていると、琴子が口を開いた。

「朔夜、疑ったりしてごめんなさい。もっと早くにきちんと確かめるべきでした」

「いえ、元はと言えば、わたしが悪いので。でも、浮気を疑われているとは思いませんでした」

「あれだけ部屋では私のそばにいたがったあなたが、突然あんなことをするからです。だいたい、いつも遅くまで何をしていたのですか?」

「言ったではありませんか。鍛錬です。疲れ果てないと眠れそうになかったので」

「鍛錬なら朝にしていたではありませんか」

「朝は早くに目が覚めてしまうので仕方なくやっていただけです」

「ならば、本当に夜も鍛錬をされていたのですか? それでは痩せて当然ではありませんか」

「痩せたのは琴子のほうでしょう。ちゃんと食べているのですか?」

「朔夜のせいで食欲がなかったのです。私は朔夜がいないと駄目なのです。朔夜が一緒にいてくれれば他には何も要りません。それがこのひと月でよく分かりました」

 琴子がそんなことを言うので、朔夜も素直な気持ちを口にした。

「わたしはずっと、子どもは要らないと思っていました。でも、琴子がわたしの子を欲しいと言ってくれることは尊いので、これからは逃げずにもう少しきちんと考えて、励みます」

「何に励むのですか?」

「子作りです」

「それなら今までだって……」

「今までは子を作るつもりでしたことがなかったので」

「……そうですか」

 目を瞬いた琴子に、朔夜は首を傾げた。

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