番外編 雨のあとは上天気(5)
朔夜が連れて来てくれた医師が心配はいらない、すぐに目を覚ますと言ったので唯子はホッと胸を撫で下ろした。万が一、眩暈や吐気があるようならまた呼ぶように言い置いて、医師は帰って行った。
そのあと、居間で琴子と向き合って座った朔夜が史靖との関係の噂について話してくれた。琴子は唯子に対して説明するよう朔夜に促したのだが、朔夜のそれは琴子に対して釈明しているようにしか唯子には見えなかった。
曰く、確かに正殿ではそんな噂があったらしい。たが、文を交わしていたのは琴子と史靖との文のやり取りを朔夜が仲介していたから。抱き合っていたというのは、おそらく殿下の前から逃げ出した史靖を朔夜が捕まえたときのことだろう。
冷静になって種明かしをされてしまえば、何だやはりそんなことかと唯子は思った。琴子は最初から疑ってもいなかったようだった。
だから琴子が腹を立てていたのはそのことではなく、朔夜が夫婦の寝室に史靖を入れたことだった。
「史靖どのにどうしても見たいと言われたので。すみませんでした」
普段は皇太子殿下の後ろに堂々と立っている護衛が妻の前で小さくなっている光景を、唯子は込み上げそうになる笑いを堪えながら見ていた。
「たとえどなたであろうと、二度と寝室には入れないでくださいませ。よろしいですね、朔夜さま」
琴子の口調はいつもどおり丁寧なのに、静かな怒りが伝わってきた。琴子が怒っているところなど、唯子は初めて見た。
とはいえ、唯子も先ほど少しだけ覗いてしまった寝室の様子を思い出すと、琴子の気持ちは理解できた。
決して広くない寝室には唯子たち夫婦の寝台の半分より小さいのではないかという寝台が2台並んでいたが、使われている形跡があるのは明らかに1台だけだった。艶かしい想像をしてしまいそうになり、唯子は慌ててそれを追いやった。
「はい。約束します」
朔夜は神妙な顔で頷いていた。
「それにしても、いつもふたりきりでいったい何の話をなさっていたのですか?」
「それは、男同士の秘密なので琴子にも言えません」
「そうですか」
琴子は諦めたような顔をしてから、唯子のほうを向いた。
「唯子さま、ご納得されましたか?」
琴子に訊かれ、唯子も小さくなって頭を下げた。
「はい。こんな時間に押しかけて騒いだりして、本当に申し訳ありませんでした」
「まあ、史靖にもだいぶ問題はありますので」
琴子が部屋の隅に敷かれた布団の上で寝ている史靖を見つめた。
史靖が倒れた場所から布団まで、抱き上げて運んでくれたのは朔夜だった。その動作がやけに慣れたものだったので、唯子は一瞬、正殿の女官たちに同調しそうになった。が、よく考えてみれば、朔夜が慣れているのはいつも妻をそうしているからなのだろう。
琴子がふいに嘆息すると、唯子に向き直った。
「唯子さま」
「はい」
唯子は思わず姿勢を正した。
「私は今まで、史靖がきちんと自分の口から唯子さまに伝えるべきだと思っておりましたので何も言わずにおりましたが、このように唯子さまの誤解を招くことになってしまい申し訳なく思っております」
いいえと言って両手を振ろうとした唯子に、琴子が続けた。
「唯子さまとの結婚を望んだのは、史靖自身なのです」
唯子は首を傾げた。
「つまり、葛城家と高田家の間の政略結婚を思いついたのはお義父さまでも殿下でもなく、史靖さまだったということですか」
史靖は意外と策略家なのだろうかと唯子は考えた。しかし、琴子は首を振った。
「政略結婚ではありません。父はそう思っているかもしれませんが、史靖はただ唯子さまと夫婦になりたかっただけなのです」
「は?」
唯子は琴子の顔を見つめ、部屋の隅の史靖を見てから、再び琴子に視線を戻した。
「殿下と妃殿下のご婚礼のあとくらいからやけに史靖が姿を見せるようになったので、心配になって仕事は大丈夫なのかと尋ねました。すると史靖は、いつ来れば唯子さまに会えるのかと訊いてきたのです。唯子さまには申し訳なかったのですが、それから私が唯子さまのいらっしゃる時を教えると、史靖はそれに合わせて東宮殿に参るようになりました」
唯子は東宮殿を訪ねるたびに史靖と会ったことを思い出した。史靖が毎日のように琴子に会いに行くから、いつ行っても顔を見るのだと唯子は思っていた。
「ですが、史靖は唯子さまに何度お会いしても挨拶くらいしかできずにいたので、見かねた私はついあの子に言ってしまいました。唯子さまは妃殿下候補だったのだから、グズグズしていたらすぐに結婚が決まってしまうわよ、と。それを聞いた史靖は、自分が唯子さまと結婚したいと申しました。ですが、私にはどうしてやることもできませんでしたので、畏れながら殿下にお力添えをお願いいたしました。殿下は任せろと仰って、すぐにふたりの縁談を纏めてくださいました」
「殿下は、わざわざ史靖さまのために動いてくださったのですか?」
「どちらかと言えば、唯子さまのためではないかしら。殿下は以前、仰っておられました。ご自分は東宮殿における父だから、ここにいる者たちを守り、望みを叶えてやるのだと。唯子さまもひと月とはいえ東宮殿におられたのですから、殿下は娘の幸せのために一肌脱いでくださったのですわ」
唯子は昼間会った殿下の顔を思い出した。唯子に向かい、心配するなと言ってくれた。
思えば、殿下がお妃に選んだのは文さまだったが、ほかの候補たちのことも決して蔑ろにしたりはしなかった。それどころか、皆の望みを叶えてくれた。
琴子は本当に好きな男の妻になった。苑子は実家に戻らず女官として東宮殿に残った。楓は何年も待たせていた婚約者のもとにもうすぐ嫁ぐ。
そして唯子のことも、殿下は気にかけてくれていたのだ。唯子がまったく気づかなかっただけで。
「とはいえ、史靖がこれほど情けないとは思いませんでした。殿下にも唯子さまにも本当に申し訳ないです。史靖はあなたに何も言っていないのでしょう」
琴子は睨むように史靖を見て、再び溜息を吐いた。
「唯子さまは、祝言の日取りがあまりにも早くて驚いていましたよね。しかも、普通なら避ける雨の季節でしたし」
唯子は頷いた。
「あれも、史靖がどうしても水無月中が良いと言ったからなのです。何でも唯子さまが読んでらしたご本の中に、水無月に結婚すると幸せになれると書いてあったのだとか」
確かに、唯子はそんな小説を少し前に読んでいた。その話も史靖にしたかもしれないが、あんな女性向けの恋愛小説を史靖は読んだのか。
「祝言での唯子さまのお姿は、史靖がこと細かに話してくれたので、私もその場にいたかと錯覚するほど鮮明に思い浮かべることができますわ」
そばで朔夜もコクコクと頷いていた。
「あと、唯子さまは花がお好きみたいだけど庭に植えるとしたらどんな花がいいか、なんて相談もされました。そんなことは唯子さまやお母さまにお聞きするよう言いましたが」
唯子がとにかく間をもたせるために口にしていたことを、史靖はしっかり聞いて、いちいち覚えていてくれたようだ。
それなのに、唯子は史靖と向き合うことを避けていた。どうせ史靖は姉のことしか見ていないと思い込んで。
唯子は心の震えを感じながら、史靖のほうを見た。と、史靖の瞼が動いているのに気づき、慌ててそばに寄った。
「史靖さま、大丈夫ですか?」
「唯子さま?」
名を呼んでからしばらく唯子の顔を見つめていた史靖が、ふいに起き上がると唯子の手を握った。
「唯子さま、わたしは別に義兄上とは何も……」
「はい、もう分かっております。私の勘違いでした。ごめんなさい」
唯子は史靖の手をしっかりと握り返した。史靖が安堵の表情になった。
「史靖」
琴子が弟を呼んだ声に、唯子は再び冷気を感じた。
「あなたは当分の間、ここに来てはいけません」
「え?」
「何度も言ったけれど、史靖が自分の気持ちを話すべき相手は唯子さまであって、私や朔夜ではありません。あなたが唯子さまに何も言わないから、唯子さまが不安になるのです。きちんと毎日唯子さまのところに帰って、唯子さまと向き合いなさい」
「はい。ご迷惑をお掛けしてすみませんでした」
史靖はシュンとなって頭を下げた。
「どうしてもここに来たくなったときは、唯子さまとふたりでいらっしゃい」
最後には琴子も普段どおりに戻って言った。
唯子は史靖とともに東宮殿の寮をあとにして、並んで歩き出した。雨は上がったもののあたりは真っ暗で、朔夜に渡された提灯の明かりだけが頼りだった。
史靖が馬車を待たせているのは朱雀門近くなので、少し距離があった。
史靖がポツリと零した。
「先ほどの姉上は怖かったですね。いつも怒るとあのような感じですが、今日は特に怒らせてしまったようです」
「仕方ありません」
唯子の言葉に、史靖がこちらを見た。
「朔夜どのに限らず衛士の方々には不寝番があるので、夫婦は毎夜ともに過ごせるわけではないそうです。特に朔夜どのは殿下のお気に入りですからそれが多くて、さらに琴子さまが朔夜どののご実家で暮らしていた頃は、朔夜どののお仕事が閉門までに終わらず、不寝番でなくても帰れないこともたびたびだったとか。だから、琴子さまは朔夜どのと過ごせる時間が増えたことを喜んでいらっしゃったのです。それなのに、史靖さまが琴子さまと朔夜どのの貴重な時間を邪魔していたのですもの」
「それは、確かに。姉上は義兄上が大好きですからね」
弟の目にもやはりそのように見えているのかと、唯子は密かに可笑しく思った。
「私と史靖さまとの問題は琴子さまたちに頼る前にふたりの間で解決しようと努力すべきことであって、もしもふたりだけでは解決できないようならば私たちのところに来るように、と妃殿下に叱られました」
それは今日の昼間、妃殿下とふたりになったおりのことだった。妃殿下もいつもどおりのおっとりとした話し方をされていたが、少しだけ怖かった。
しかし、妃殿下が琴子夫婦だけでなく、唯子夫婦のことも心配しているのは唯子にも伝わってきた。殿下が東宮殿の父ならば、妃殿下は東宮殿の母の顔をしていた。
そもそも、妃殿下は以前からその容姿も性格も唯子が思わず頼り、甘えたくなってしまうような方だった。おそらくは、殿下が惹かれたのもそういうところなのではないかと唯子は思っている。
「私たちのところにとは、殿下と妃殿下のところということでしょうか?」
「そうでしょうね」
「さすがにそれは……」
史靖は怖じ気るような顔になった。
そういえば、史靖と朔夜の噂のもとになったのは、史靖が殿下の前から逃げたのを朔夜が捕まえたことだったと聞いた。
いったいどんな捕まえ方をすれば抱き合っていたと間違われるのか気になるところだが、その前に、史靖は殿下のことを怖れているのだろうか。心の広い殿下なら、史靖のことだってもう息子だと思っているに違いないのに。
「私たちがこれからきちんとすれば、殿下や妃殿下を煩わせるようなことにはなりませんわ」
「ああ、そうですよね」
しばしの沈黙のあとで、唯子は尋ねた。
「なぜ史靖さまは私と夫婦になろうと思われたのですか?」
再びの沈黙のあと、史靖がゆっくりと口を開いた。
「最初にあなたを見かけたのは、妃殿下が正式に選ばれた日です。笑いながら泣いていたあなたの姿が頭から離れなくなって」
そんなところを見られていたのかと、唯子は恥ずかしくなって思わず口を挟んだ。
「あなたもあの場にいたのですか。あの時の殿下の妃殿下への求婚は素敵でしたね」
「ああ、わたしが行ったときにはもう求婚の言葉は終わっていて、あとから人に聞きました」
「では、見ることができたのは抱擁だけだったのですね。それは残念」
「ええと、その次は東宮殿に仕事で参ったときにたまたまあなたが姉上と話されているのに出会して、話しながらあなたの手が一緒に動いているのに気がついてしばらく見ていたのですが、姉上がわたしに気づいてしまって」
「初めて挨拶をしたおりのことですね。あの癖は実家ではやめるよういつも注意されておりましたが、話に夢中になるとつい手も動いてしまうのです」
「そうなのですか。わたしはあなたの指の動く様はとても綺麗だと思っております」
それを綺麗だなどと言われたのは初めてで、唯子は頬が熱くなった。
「それからも、気がつくとあなたのことを考えてしまって、あなたに会いたくて東宮殿に向かっていました。そうしているうちに、姉上に唯子さまならすぐに縁談が決まるだろうと言われて、それは嫌だと思いました。唯子さまの色々な表情をもっと見たかったし、あの綺麗な指の動きをわたしだけが見つめて、わたしの手で止めてみたかった」
史靖の手がそっと唯子の手に触れた。照れ隠しに、唯子は再び訊いた。
「実際に結婚して、後悔されたのではありませんか? 私は我儘で面倒臭いでしょう」
「いえ、むしろもっと我儘を言ってほしいです。あなたの好きな花を庭に植えたいし、猫を飼ってもいいです」
「……今は、猫よりも史靖さまの子がほしいです」
史靖が唯子をマジマジと見つめたのは分かったが、唯子は史靖の顔を見られなかった。
「月のものも済んだので、今夜からは私たちの寝室に戻るつもりです」
「いいのですか?」
「何がでしょうか?」
「だって、あなたは、とても辛そうで。だからわたしは……」
「史靖さまこそ、私にがっかりしたのでは?」
史靖はブンブンと首を振った。
唯子はふと、義姉夫婦を思った。今ごろ、琴子と朔夜はようやくふたりきりになれて仲良くしているのだろうか。それとも、琴子は唯子たちの前では言えなかった叱言を朔夜にぶつけているのだろうか。どちらにせよ、最後にはあの小さな寝台で体を寄せ合うしかないのだ。
唯子も史靖と本物の夫婦になりたいと思った。
「史靖さま、さっきは助けてくださってありがとうございました」
「いえ、格好の悪いところをお見せしました」
確かに、朔夜や殿下ならあんな風にはならなかったに違いない。しかし、唯子にとって大切なのはそこではなかった。
「私は史靖さまに守っていただいたことが嬉しかったのです」
「唯子さまをを守るのはわたしの役目なので」
「はい。頼りにしております」
だけど、自分も義姉や妃殿下のようにもっとしっかりしなければと唯子は思った。
屋敷に帰ると、唯子は義父に怒鳴りつけられた。
「おまえは何を考えているんだ。こんな時間まで外をふらついて」
「申し訳ありませんでした」
唯子は素直に頭を下げた。
「父上、唯子さまはわたしのことを心配して、迎えに来てくださったのです」
「ふたりが仲睦まじいのが一番ではありませんか。唯子は反省しているのですし、今夜はもう終わりにしてやってくださいませ」
史靖と明子のおかげで、左大臣の説教はあまり長くならなかった。
ふたりで夕食を摂り、それぞれに湯浴みをしてから、唯子と史靖は久しぶりに夫婦の寝室で顔を合わせた。やはり、唯子は緊張していたし、史靖もそう見えた。
しかし、二度目は最初と全然違った。史靖と朔夜の男同士の話というのがどんな内容だったのか、唯子には分かったような気がした。
その晩、唯子は史靖にもうひとつだけ強請った。
「史靖さま、どうか唯子と呼んでください」
「ならば、唯子もわたしを同じように呼んでください」
「はい、史靖」
翌朝、目を開けた唯子が最初に見たのは、史靖が妻だけに向けた笑顔だった。




