番外編 雨のあとは上天気(4)
数日後の朝、自分の部屋から出た唯子の耳に舅と姑の声が聞こえた。
「あの娘は嫁に来た自覚があるのか。まったく、妃候補だったのが信じられん」
「唯子を琴子と比べるのはやめてくださいませ」
「わたしがいつ琴子と比べた」
「比べているのでしょう。唯子は唯子、琴子は琴子です」
唯子はそっと部屋に戻った。
史靖だけではなく、義父やほかの家族、この屋敷にいるすべての者が琴子と唯子を比べている。きっと皆、唯子にがっかりしている。そんなことは当たり前だ。
しばらくたってから、唯子は改めて部屋を出た。顔を合わせた明子は普段どおりだった。
「あら唯子、もういいの?」
「はい。申し訳ありませんでした」
「構わないのよ。仕方ないことなのだから」
「あの、午後に東宮殿を伺ってきてもよろしいでしょうか?」
「そういえば、お嫁に来てから唯子は出掛けていなかったものね。いいわよ、行ってらっしゃい」
「ありがとうございます」
午後、唯子は久しぶりに葛城家の屋敷を出た。少しだけホッとした。
東宮妃殿に着くと、ちょうど中から出てきた皇太子殿下に出会した。後ろには真雪と朔夜が従っていた。
礼をとった唯子に、殿下は機嫌良く声をかけた。
「なんだ、今日は唯子も来たのか。いっそそなたも女官になって寮に住むか?」
「そのうちお願いすることもあるかもしれません」
そもそも殿下がこの結婚の元凶であることを思い出しながら、唯子は言った。
「もしや、史靖とうまくいってないのか?」
殿下は悪びれる風もなく言った。
「そなたたちはまだ結婚したばかりだ。今すぐ結論を出すのは早い。どうしても駄目なら、その時はわたしが女官の職でも新しい夫でも唯子の好きなほうを用意してやるゆえ、心配するな」
「殿下」
朔夜が咎めるように呼ぶと、殿下はそちらを向いた。
「そなたも義弟に毎日押し掛けられて、迷惑しておるのではないのか?」
「別に迷惑などでは……」
やはり、史靖は毎晩姉に会っていたのかと、唯子は暗澹たる気持ちになった。
「朔夜どの、申し訳ありません」
「いえ、お気になさらないでください」
朔夜が首を振るのを見ながら、唯子は小さく嘆息した。
唯子が妃殿下の居間に入って行くと、妃殿下と琴子、苑子がいつもと変わらぬ様子で迎えてくれた。
とりあえず屋敷から離れたくて来てしまったものの、琴子の顔を見ると胸のあたりがモヤモヤしてしまう。
唯子が無事に祝言を挙げたことを告げると、妃殿下と苑子が祝福してくれた。
琴子は真剣な顔で唯子に言った。
「唯子さま、改めて史靖と家のことよろしくお願いします」
唯子に頭を下げたあとで、琴子は今度は笑顔を見せた。
「史靖とはいかがですか? あの子は夫としてきちんとやっておりますか?」
「はい。優しくしてくださいます」
「それなら良かったです」
史靖は琴子にどこまで唯子とのことを話しているのだろうか。それとも、琴子の前では妻の話などしないのだろうか。
「あの、史靖さまは毎晩のように琴子さまにお会いしているのでしょう? 何かご迷惑をおかけしたりとかされておりませんか?」
唯子が尋ねると、琴子は少しだけ困った顔をした。
「そうですね。私も早く唯子さまのところに帰るよう言っているのですが、最近は朔夜と話したいことがあるとかで……」
唯子は目を瞬いた。
「では、いつも朔夜どのをお待ちしているのですか?」
「ええ。何を話しているのかは朔夜も教えてくれないのですが」
琴子も首を傾げた。
妃殿下のもとを辞したあとも、唯子はすぐには屋敷に戻る気分になれなかった。
唯子は東宮殿門を出てから青龍門には向かわずに、ブラブラと宮内を歩いた。
てっきり琴子に会うために帰りが遅いのだと思っていた史靖は、朔夜に会っていたらしい。もっとも、朔夜が不寝番で寮に帰らない日は琴子に会っていたのだろうし、どちらにせよ史靖が訪れているのが朔夜と琴子の部屋であることは変わらないのだが。
気がつくと、考えごとをしながら歩いていたせいで、唯子はいつの間にか正殿の近くまで来ていた。さすがにまずいと戻りかけたところに、正殿のほうから朔夜が歩いてくるのが見えた。すぐそばまで来てから朔夜が会釈するのに、唯子も返した。
「殿下のお遣いですか?」
「はい。唯子さまは史靖どのに御用でしょうか?」
「いえ、ただの散歩です」
「そうですか」
朔夜が不思議そうな顔をした。
少し前までなら、唯子はこの一見無表情の殿下の護衛に話しかけるなど思いもよらなかった。なのに今は躊躇いもなく会話を交わし、この人の表情が変化することも知っている。
ふと唯子は、朔夜といつの間にか義兄妹になっていたのだと思い至った。
「お義兄さまは、お義姉さまのどこをお好きになったのですか?」
突然の唯子からの質問に、朔夜は目を白黒させた。
「いえ、何でもありません」
すぐに唯子は言った。ただこの護衛を義兄と呼び、表情を変えさせてみたかっだけなので満足していた。それなのに、朔夜は真面目な顔で口を開いた。
「あの、どこをと言われても自分でもよくわかりませんが、気がついたときには琴子が好きでした」
思わず朔夜をジッと見つめた唯子に、朔夜が質問を返してきた。
「唯子さまは史靖どののどこがお好きなのですか?」
「え、別に私は……」
唯子が言い淀むと、朔夜が慌てて言った。
「すみませんでした。こういうことは、史靖どの本人に仰るべきことですよね」
「朔夜どのは、琴子さまに仰っているのですか?」
「はい」
「琴子さまも?」
「はい」
当然のような顔をして朔夜は頷いた。
朔夜が東宮殿へと戻って行くのを見送ってから、唯子もそろそろ屋敷へ帰ろうと踵を返した。が、後ろから声をかけられた。
唯子が振り返ると、見覚えのない女官がふたり立っていた。抑えた声で、ひとりが唯子に言った。
「申し訳ありません。あなたは皇太子殿下の護衛どのとずいぶん親しそうでございますね」
「はあ、まあ」
「でしたら、あの方との関係については何かご存知でございますか?」
唯子は首を傾げた。
「あの方とは、どの方でしょうか?」
女官たちはがっかりしたようだった。
「そのご様子ではご存知ないのですね。左大臣さまのご嫡男さまとのことですわ」
「左大臣さまのご嫡男との関係ですか?」
唯子は思わず聞き返した。ふたりの関係ならもちろん知っている。義兄弟だ。
しかし女官はさらに声を顰めると、違うことを口にした。
「あのおふたりは、恋人同士なのですわ」
「はあ?」
この女官は何を言っているのかと、唯子は呆れた。
「ですが、おふたりとも結婚されていらっしゃるではありませんか」
唯子の言葉に、今度は女官たちが驚いたような顔をした。
「史靖さまが最近ご結婚されたとはお聞きしましたが、朔夜さまもご結婚していらしたのでございますか?」
「はい。昨年結婚されて、ご夫婦仲はとてもよろしいですわよ」
「史靖さまと朔夜さまがお噂になったのは、今年になってからですわ」
「抱き合っていたとか、艶文を交わされていたとか」
「まさか」
「見た者がいるのです」
「見間違いに決まってますわ。朔夜どのが奥さまと一緒にいるところを見れば、きっとお分かりになります。私はもう失礼いたします」
唯子は今度こそ、青龍門に向かって歩き出した。が、女官たちとの会話を反芻するうちに唯子は不安になってしまった。
朔夜が琴子だけを見ていることは間違いない。だが、史靖はどうだろうか。
史靖は唯子を見ずに、姉ばかり見ていると思っていた。しかし、本当に見ていた相手は朔夜だったのか。
同性を好きになってしまうこともあるのだと、唯子も本で読んだことはあった。史靖もそうなのだろうか。史靖は朔夜と姉にも言えない話をしていると、琴子が言っていたではないか。初夜にしか唯子に触れてこなかったのもそういう理由なのだろうか。
唯子は決意した。このままでは屋敷に帰れない。きちんと史靖に確かめなければ。
唯子は青龍門の近くに待たせていた馬車まで行き、御者と侍女に史靖を待つからと言って先に帰した。
それから唯子は夜までどうやって時間を潰すかを考えて、日の女神の神殿に行ってみた。思ったとおり、人影はなかった。久しぶりに参拝してから、唯子は軒先を借りて座り込んだ。
膝を抱えながらじっとしているうちに、自然と浮かんできたのは史靖の笑顔だった。
あの笑顔をもっと見たい、自分だけに笑ってほしいと、いつから思っていたのだろう。史靖が唯子だけを見てくれることはないのだとはっきりしてしまったら、どうしたらいいのだろう。もう唯子は史靖のことをこんなにも好きになってしまったのに。
暗くなり、唯子はそろそろかと立ち上がった。いつの間にか細かい雨が降りはじめていたが、傘を持っていないので、構わず歩き出した。
東宮殿の寮まで来るとにわかに緊張を覚えたが、まっすぐに琴子夫婦の部屋に向かった。部屋のすぐ近くまで来たとき、琴子が中から出て来て傘を開くのが見えた。
「琴子さま」
唯子が呼ぶと、琴子は驚いた顔をした。
「唯子さま、こんな時間にどうなさったの?」
琴子は近寄った唯子に傘をさしかけてくれた。
「史靖さまにお訊きしたいことがあるのです。中にいらっしゃいますか?」
「ええ、来ておりますよ。私はお邪魔みたいなので、苑子のところにでも行こうと思っていたのですが」
「では、朔夜どのもご一緒なのですね。失礼いたします」
唯子はそう言うと、傘の下から出て勢いよく部屋の戸を開けた。しかし、そこに史靖と朔夜の姿はなかった。
「史靖さま、どこですか」
「居間におりませんの?」
唯子のあとから部屋に入った琴子が声をあげると、奥にふたつ並んだ戸のうち左のほうの中から物音がした。唯子はそこに突進すると、再び勢いよく戸を開けた。
「史靖さま」
中では史靖と朔夜がギョッとした顔でこちらを見て立っていた。そこが寝室であることは、一目で明らかだった。
「こんなところで、朔夜どのと何をなさるおつもりでしたの? やはり、おふたりは噂どおりのご関係なのですか?」
「え、唯子さま、何のことですか?」
「惚けないでください。あなたが誰をお好きだろうとご自由ですが、私ばかりでなく琴子さままで裏切るなんて……」
涙が落ちそうになり、唯子は史靖に背を向けた。
「あの、唯子さま」
史靖に後ろから手首を掴まれた。
ふたりの脇では琴子が寝室の入り口まで進み、朔夜にどういうことかと詰め寄っていた。
「いくらあなたを好きでも、形だけの妻などまっぴらです」
唯子はそう叫ぶと史靖の手を振り払い、その場を駆け去ろうとした。が、足袋が雨に濡れていたせいで足が滑り、あっと思ったときには唯子の体は後ろに大きく傾いていた。
床に何かがぶつかる鈍い音はした。だが、唯子の覚悟した衝撃は訪れなかった。よく見れば、唯子は史靖の体を下敷きにしていた。
「史靖さま?」
慌てて唯子は史靖から降りてその顔を覗き込んだが、反応はなかった。
「史靖さま、しっかりなさってください」
唯子が史靖の体を揺すろうとするのを、朔夜が止めた。
「待って、動かさないでください。すぐに医師を呼んできますので、そのままにしておいてください」
朔夜は外へと飛び出していった。




