番外編 雨のあとは上天気(3)
水無月の末、唯子と史靖の祝言の日が来た。あいにく朝からシトシトと雨が降っていたが、時期的に仕方がないと唯子は思った。
祝言を挙げる月の神の神殿の傍に設けられた控え室で唯子と史靖は顔を合わせた。
唯子の婚礼衣装は月の神にちなんで淡い黄色を選んでいたが、黄金色にも見えた。それを身につけて史靖の前に立つことは、どこか現実感がなかった。
唯子はそっと史靖を見上げた。淡青色の婚礼衣装を着た史靖に、唯子の胸が高鳴った。
史靖は黙ったまま、真顔で唯子を見ていた。
「まあ、とても美しいわ。ねえ、史靖」
明子の言葉にハッとしたような顔になって、史靖が口を開いた。
「はい。とても美しくて、まるで月の女神のようです」
唯子は史靖の言葉で眉を顰めそうになるのを堪えた。
皇女のご学友だったころ、太陽のような姫といえば苑子で、月のような姫といえば琴子だった。琴子とまったく異なる唯子が月のようなわけがない。
初めてまともに顔を合わせた舅は、唯子をジロジロと見つめた。
「葛城の嫁として相応しい振る舞いをしろ」
左大臣が唯子にかけた言葉はそれだけだった。
神殿には多くの参列者が訪れたが、そのほとんどはふたりの父の関係者で、唯子には誰なのか分からない人ばかりだった。
父から勘当されている琴子はもちろん出席できない。いくら親友でも妃殿下は招けなかったし、苑子も絶遠状態とはいえ右大臣の娘なので無理だった。降嫁した皇女の一花は産月間近、もうひとりの元お妃候補である楓は故郷に帰って自身の結婚準備中だ。
本当に参列してほしかった友人たちに来てもらえないことは残念だった。だが、そう思える人たちがいるだけ良いのだと唯子は考えた。
祝言は滞りなく終わり、その後は葛城家で祝宴が盛大に行われた。
そして、唯子は史靖との初夜を迎えた。
唯子も緊張したが、それ以上に史靖が緊張しているようだった。最後まで至ったのが不思議なくらいだ。できれば二度としたくないと唯子は思った。
翌朝、史靖が寝室を出ていってからも、唯子はなかなか寝台から出る気分になれなかった。大きな寝台は、史靖が隣にいないと無駄に広く感じられた。
何度か侍女に促され、ようやく唯子が起き出して身支度を整えてから夫婦の居間へ行くと、今日だけは仕事が休みの史靖がそこにいた。唯子の姿を認めると、史靖は読んでいたらしい本を閉じた。
「おはようございます、唯子さま」
「おはようございます。こんな時間まで、申し訳ありません」
「いえ、昨日はお疲れになったでしょう。お腹は空いていませんか? すぐに朝食を用意させますね」
しばらくすると、膳が運ばれてきた。それがふたり分だったので、唯子は驚いた。
「史靖さまもまだだったのですか?」
「はい。唯子さまと一緒にと思いまして」
史靖が寝室を出たのは唯子よりもずっと早い時間だったはずだ。それなのに、今まで食べずにいてくれたのか。
「それは、申し訳ありませんでした。史靖さまこそ空腹だったでしょうに」
史靖は首を振った。
「わたしが勝手にお待ちしていたのですから、気になさらないでください」
ふたりでの遅い朝食を終えてしまうと、手持ち無沙汰になった。昨夜のこともあり、史靖の顔を見るのも気恥ずかしい。史靖のほうも落ち着かない様子に見えた。
雨は今日も降り続いており、庭を歩くには不向きだった。史靖が読書を再開してくれれば唯子も読書なり、刺繍なりできるが、史靖が本を手に取る様子はなかった。
「東宮殿に参りますか? 姉上や皆さまにふたりで結婚のご報告をいたしましょう」
史靖が良いことを思いついたという顔で言った。だが、史靖の口から出た「姉上」に唯子の心は沈んだ。
「私は今日はあまり出掛ける気分にはなれません。どうぞ、史靖さまおひとりで行ってらっしゃいませ」
「ああ、そうですよね。今日はやめましょう」
「私のことはお気になさらず、お義姉さまにお会いしてきてはいかがですか?」
「いえ、よいのです。今日は唯子さまとおります」
史靖にはっきりとそう言われ、唯子は嬉しさを覚えた。
結局、そのあとは史靖に請われて唯子が喋りはじめた。だが今日は一方的にならぬよう、唯子から史靖に色々と尋ねてみた。好きな食べ物、好きな花、読んでいる本、友人など。
自分がまだ史靖のことをまったく知らないのだと、唯子は改めて気づいた。だが同時に、自分たちは夫婦になったのだと、唯子はほんの少しだけ感じることができた。
夕方近くなると家庭教師から解放された篤史と典子もやって来た。自分よりも歳下のふたりとの時間は唯子には新鮮なものだった。
その夜。唯子は前日よりは幾分楽な気持ちで寝台に入った。昨晩より悪いことにはならないだろうと思いながら、史靖を待った。
史靖は唯子の隣に入ってくると、短く口づけた。だが、それだけだった。
「おやすみなさい」
そう言うと、史靖は唯子に背を向けてしまった。
「おやすみなさいませ」
どうにか返したものの、唯子は呆然としていた。
史靖も、やはり唯子とはもうしたくないということか。唯子が相手ではそれも仕方がないのかもしれない。
やはり自分たちが夫婦になれたと思ったのは、唯子の幻想だったようだ。唯子は目から溢れそうになるものを必死で堪えた。
翌日も唯子が寝台を出たのは早いとは言えない時間だった。史靖と顔を合わせたくなかった。
身支度を整えてから廊下へ出ると、下の玄関のほうから義父の声が聞こえた。
「唯子はまだ寝ているのか。まったく、だらしない嫁だな」
「まだ嫁いできたばかりで不慣れなのです。しばらくは大目に見てやってくださいませ」
義母がやんわりと窘めてくれるのが有難くもあり、申し訳なくもあった。
唯子は急いで階段を降りていき、頭を下げた。
「おはようございます。遅くなり申し訳ございません」
「もっと静かに降りて来られないのか」
「申し訳ありません。今後は気をつけます」
左大臣が不機嫌そうに出て行くと、明子は唯子に向かって微笑んだ。
「旦那さまはいつもあんな感じだから、あまり気にしなくていいわよ。だけど、できたらもう少し早く起きて史靖を見送ってやってちょうだい。あの子が喜ぶでしょうから」
「はい。明日からはそういたします」
昼間、唯子は明子について屋敷の中を回った。将来、この屋敷の女主人となるために少しずつその仕事を学ぶのだ。
午後にはやはり篤史や典子と過ごした。
夜になったが、左大臣も史靖も帰宅しなかった。左大臣はいつものことらしい。
「史靖は何をしているのかしらね。可愛い新妻が待っているのに」
明子の言葉に、唯子は曖昧に頷いた。
おそらく史靖は昨日唯子のせいで会いに行けなかった琴子のところを訪れているに違いない。
唯子が夕食を済ませ夫婦の居間に退がってからしばらくして、史靖はようやく帰ってきた。
「お帰りなさいませ」
「ただいま帰りました」
「琴子さまにお会いになっていらしたのですか?」
「はい。祝言のことを話していたらすっかり遅くなってしまいました。すみませんでした」
「別によろしいのですよ。大事なお義姉さまなのですもの」
史靖の笑顔を見ていると、まるで浮気相手に会ってきたのだと言われている気分になってきた。
ふたりで寝台に入ったが、唯子は今夜は史靖より先に背を向けて横になった。
「おやすみなさいませ」
できるだけ平静な声で告げて、目を閉じた。少しだけ、史靖が何かしてこないかと期待した。
「おやすみなさい」
唯子の後ろで史靖も横になったのが分かった。
翌朝から、唯子は明子に言われたとおり、必ずきちんと起きて史靖とともに朝食を摂り、皇宮へ向かう夫を見送った。
史靖の帰宅はいつも遅かった。何をしているかなど、もはや唯子は聞く気にもならなかった。
毎晩同じ寝台を使っても、史靖は唯子に触れようともしなかった。
それから数日後、気分の優れない唯子は夫婦の寝室ではなく、唯子の部屋にある寝台で休むことにした。
軽い食事だけ摂って横になり、うつらうつらしていたところに、戸を叩く音がした。唯子が返事を返すと、史靖が顔を見せた。
「体調が悪いと聞きました。お加減はどうですか?」
「大丈夫です。慣れていますから」
「慣れてって、よくあるのですか? それは本当に大丈夫なのですか?」
心配そうな顔をする史靖に、唯子はイライラした。今まで家で待つ妻の存在など忘れて、姉に会っていたくせに。
「毎月のものですから、大丈夫です」
唯子が思わず大声でそう言うと、意味を理解したのか史靖が顔を赤らめた。
「たとえ大丈夫ではなくても、あなたが私の心配などする必要はないでしょう。どうせ妻よりも姉上のほうが大切なのですから」
「そ、そんなことはありません」
「でしたら、なぜ初夜以来、私に触れようとなさらないのですか? 私たちは政略結婚とはいえ夫婦になったのですから、子を作らねばならないのですよ」
「もちろん、分かっています。ですから……」
史靖が伸ばしてきた手を、唯子は払いのけた。
「どちらにせよ、私は数日はこちらで休ませていただきますので、あなたは今までどおり琴子さまにお好きなだけお会いになってきたらよろしいですわ」
「唯子さま」
「もう、今夜は放っておいてくださいませ」
唯子は頭から布団を被った。しばらく沈黙が続いた。
「ゆっくり休んでください。何かほしいものがあれば遠慮なく言ってくださいね」
そう言うと、史靖は部屋から出て行った。
翌日、唯子は体調を理由に部屋に籠っていた。前夜のことを思い出すと、恥ずかしさでいっぱいだった。月のもので調子が悪いとはいえ、なぜあんなことを史靖に言ってしまったのだろう。
史靖はその夜はいつもより早く帰宅して唯子の部屋を訪れた。
「お体はいかがですか?」
「いつもと同じなので大丈夫です」
史靖の顔を見れず唯子が背を向けたままでいると、史靖はすぐに出て行った。




