番外編 雨のあとは上天気(1)
予想外に長くなり、5回に分けました。
よろしくお願いします。
皐月の中旬、唯子は東宮殿の隣にある東宮妃殿を訪ねた。
すでに何度も来たことがあるし、東宮殿でひと月暮らしたこともあるので、もはや勝手知ったる場所だった。門前に立つ東宮殿守護隊の衛士も唯子に入門許可証の提示を求めたりしなかった。
「いらっしゃいませ、唯子さま。お待ちしておりました」
東宮妃殿の前にいた衛士の取次で中から出て来てくれたのは、妃殿下付の女官である琴子だ。清楚で美しいその顔を今日ばかりは複雑な気持ちで見つめながら、唯子も挨拶を返した。
琴子に導かれて居間に入ると、妃殿下がにこやかに迎えてくれた。
「唯子、いらっしゃい。こちらへどうぞ」
妃殿下に促がされるまま、唯子は礼をとってからそばに腰を下ろした。
「本日はお招きいただきありがとうございます」
すかさず、もうひとりの女官である苑子がお茶を淹れてくれた。可愛らしい形の菓子も出される。
「ふたりも一緒に飲みましょう」
「ありがとうございます、妃殿下」
「お言葉に甘えさせていただきます」
妃殿下とふたりの女官、さらに唯子が気安い間柄なのは4人が皇女さまのご学友としてともに学んだ仲だからだ。その後で4人は皇太子殿下のお妃候補になったが、最終的に選ばれたのが、少し前までは「文さま」と皆に呼ばれていた唯子の親友だった。
ただ正確に言えば、琴子と苑子は選ばれなかった訳ではなく、自ら候補を下りてしまったのだった。琴子は殿下の護衛と結婚するために。苑子は東宮殿の女官になるために。琴子も殿下に請われて女官になり、今はふたり仲良く妃殿下にお仕えしている。
しばらくは近況などを話していたが、やがて妃殿下が唯子に尋ねてきた。
「それで唯子、私たちにお話ししたいこととは何ですの?」
今日の唯子の訪問は、妃殿下たちに聞いてもらいたいことがあると言って急遽、唯子のほうから東宮妃殿に招いてもらったものだった。
「実は、私も結婚が決まりました」
少々重い気分になりながら、唯子は口を開いた。
「まあ、おめでとうございます」
3人に口々に祝いの言葉を送られて、唯子は礼を述べた。
「ありがとうございます」
「お相手の方はどなたなの?」
妃殿下に尋ねられ、唯子はチラリと琴子の顔を見てから答えた。
「葛城史靖さまです」
3人の顔に驚きが浮かんだ。唯子の口にした名は琴子の弟のものだった。
「まあ、唯子さまが私の義妹になられるのですね」
琴子が嬉しそうに笑った。唯子は頷いた。
「そういうことになります」
琴子が首を傾げた。
「唯子さま、浮かない表情ですね。史靖では結婚相手として不足でしょうか?」
「そんなことはありません。ただ、はっきり言ってしまえばこれは政略結婚でしょう」
唯子がため息混じりに言うと、3人が顔を見合わせた
琴子と史靖の父は左大臣として宮中で大きな力を持っていた。それに拮抗しているのが苑子の父である右大臣だ。
さらに言えば妃殿下の実家大野家は左大臣派で、唯子の父は右大臣派だった。
つまり、皇太子殿下の結婚で優位に立った左大臣が、右大臣派の切り崩しのために高田家の娘を息子の嫁に迎えることを思いついたのだろう。あるいは、左大臣派の中での大野家の台頭を怖れたのかもしれない。
宮中の勢力争いや父親たちの思惑をよそに、唯子たちの代の皇女さまのご学友は親しい関係を築き今に至っている。そのため、父親や家のことはあまり話題に出さないのが暗黙の了解のようにもなっていた。
だが、貴族の娘としてそのあたりの事情はそれぞれに把握していることも理解していた。
「ですが、大切なのはそこではなく、旦那さまとどのような関係を築けるかということでしょう。史靖なら心配いらないのではなくて?」
妃殿下が言うと、琴子が頷いた。
「ええ、史靖は優しい子ですし、唯子さまを大切にするはずですわ」
「確かに、史靖さまは良い方だと思いますが……」
「やはり、他家に嫁ぐのですから不安ですわよね」
苑子の言葉に、琴子が申し訳なさそうな顔になった。
「私は勘当されているのですから、唯子さまにはあまり頼りにならない義姉ですものね」
「いえ、琴子さまのことは頼りにしております。史靖さまとは仲がおよろしいのですし、色々と教えていただきたいです」
「私でできることはいたしますわ。どうか史靖のこと、よろしくお願いいたしますね」
琴子が唯子に向かって頭を下げた。
唯子も史靖には何度か会ったことがあった。唯子が東宮殿の妃殿下のもとや、東宮殿寮の琴子の部屋などを訪れたときにたまたま史靖も来ていたのだ。
とはいえ、向こうはたいてい仕事で東宮殿に来たついでか、仕事の休憩中に姉に会いに来ていて、唯子は挨拶を交わしただけだった。
史靖の顔立ちはすっきりと整い、なのに笑えば人懐こかった。美しい姉とよく似ている。
背は男性としてはあまり高い方ではないが、唯子も小柄なのでふたりが並べばちょうどいいのかもしれない。だが、夫婦としては幼い組み合わせだろう。
唯子は自分が外見も中身も子どもっぽいことを自覚していた。家では末っ子、ご学友の中でも最年少だったので、皆が可愛いがってくれた。
3歳上の皇太子殿下はとても大人びて見えたものだった。あのような方が自分の夫になったらと想い描いた時期もあったが、それは夢に終わった。
殿下と妃殿下の仲睦まじい様子を見れば羨ましさはある。だが長いこと無表情で冷たそうな人だと思っていた殿下の護衛が、妻である琴子の前では優しく笑うのだと知って、やはり同じ気持ちになった。
結局のところ、唯子も自分だけを見てくれるような相手が欲しいのだ。できれば歳上で頼りになる大人の男性がいいと唯子は思っていた。
だが、現実に唯子の父が娘に用意した夫は唯子と同じ歳で、大人っぽいとは言い難い。
しかし、政略結婚であることを考えれば、史靖以上の相手はいないに違いない。今を時めく左大臣の嫡男なのだから。
数日後、唯子は史靖との見合いの席に臨んだ。もちろん見合いとは名ばかりで、実際にはただの顔合わせだ。すでにふたりが結婚することは決定事項だった。
見合いは高田家の屋敷に左大臣の奥方と史靖が訪れる形で行われた。
どちらも父は不参加で、唯子は少しホッとした。それは母たちも同じだったのか、唯子の母名緒子と史靖の母明子はあっと言う間に話に花を咲かせはじめた。
唯子も時々それに参加したが、史靖は押し黙ったままだった。
「史靖、何か唯子さまにお聞きしたいことはないの?」
明子に言われて史靖はチラと唯子の顔を見たが、すぐに目を逸らした。
「いえ」
「唯子、史靖さまにお庭を案内したら」
「史靖、お天気も良いし、そうしていただいたら」
ふたりの母に促され、唯子は史靖とともに庭に出た。
庭ではちょうど躑躅や藤が見頃だった。
「皇宮の庭園も季節ごとに様々な花が咲いて美しいですが、我が家の庭もなかなかのものだと思いませんか? この藤棚は祖父が結婚してすぐに祖母のために造らせたものですのよ」
唯子は史靖と初めてふたりきりになり、緊張を感じていた。それを誤魔化そうと幼い頃に庭で遊んだ思い出や庭に植えられた木それぞれにまつわる話、さらには最近読んでいる翻訳小説や食べた菓子まで思いついた話題をとにかく口に出した。
史靖は相変わらず固い表情のままだったが、相づちは打つので聞いてはいるようだった。
唯子が話に夢中になると両手も動いた。どんな形だったか、どれほど大きかったか、どのように動いたかなどを次々に再現していくのだ。家族には落ち着きがなく見えるとよく叱られたので唯子も普段は気をつけていたが、今日は止まらなかった。
結局、最後まで唯子が一方的に喋るだけで終わった。
史靖は母のあとから馬車に乗り込む前に、唯子を振り返った。チラと唯子の顔を見た史靖の目は、やはりすぐに逸らされた。
「次にお会いしたときにも、またあなたのお話を聞かせてくださいますか?」
唯子は目を瞬いた。
いったい何のことだ。まさか、さっきまでの取り留めもないお喋りのことだろうか。ああ、社交辞令だ。母たちの手前、もうすぐ妻になる女に対し気を使っているのだ。
「ええ、もちろんです」
唯子がにっこり笑って頷くと、史靖はペコリと頭を下げた。史靖が笑うことはとうとうなかった。あの人懐こい笑顔は姉の前だけのものだったようだ。
やはり、史靖もこの結婚には乗り気でないのだ。それがわかり、唯子は自分のことは棚に上げて、少し残念に思った。
唯子と史靖の気持ちなど考慮されることはなく、祝言は1カ月半後に決まった。その早さに唯子は驚いた。
もっとも、殿下のお妃候補だった唯子の嫁入り準備はほぼ整っているのだから、無駄に婚約期間を設けることもないのかもしれない。政略結婚なのだ。鉄は熱いうちに打ってしまったほうがいいに違いなかった。
とりあえず、報告のために妃殿下のもとを訪ねることにした。
いつものように東宮殿門を入ってすぐ、東宮妃殿の前で史靖が琴子と向き合って何やら話しているのに気がついた。唯子は咄嗟に門の柱の陰に隠れて、ふたりの様子を窺った。
史靖の顔には蕩けるような笑みが浮かんでいた。ふたりの顔が似ているから姉弟に見えるが、もしも似ていなかったとしたら、恋人同士に見えていたのではないだろうか。そう思うと、唯子の胸はずきりと痛んだ。
やがて史靖は琴子と分かれて門のほうへと歩いてきた。しかし唯子には気づかずに、そのまま出て行く。琴子も東宮妃殿の中へと入っていった。
しばらく時間を置いてから、唯子は東宮妃殿へと向かった。警護の衛士がすぐに取次いでくれ、唯子は中に通された。
「いらっしゃい。ちょうどあなたの噂をしていたのよ」
妃殿下が柔らかく微笑んで迎えてくれた。
「祝言の日取りが決まったそうですね。先ほど史靖から聞きました」
お茶を淹れながら、琴子が言った。
「そうでしたか。私もそのご報告をしようと思って参りましたが、必要ありませんでしたわね」
「唯子なら、来るのに理由などなくても構わないわよ。でも、さすがに結婚したらそうそう来てもらえないわね」
「史靖さま次第でしょうか」
唯子は首を傾げてみせた。




