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終 新しい日常

 主の夫婦仲が良ければ仕える自分たちにも良い影響があるのだと、最近朔夜は知った。

 婚礼以降、殿下が政務の合間に妃殿下に会いに行くのが日課になった。しかし、それが一度で済む日はほぼない。

「妃に会いに参る」

「先ほどお会いになったではありませんか。夜まで我慢なさってください」

 真雪が渋るのも毎回のことだ。どうせ殿下が聞くはずはないのだから、もう諦めればいいのにと朔夜は思う。

「なぜ我が妃に会うのを我慢せねばならぬのだ」

「ご政務中にございます」

「息抜きも必要であろう。なあ、朔夜?」

 殿下が自分を巻き込むのもそろそろ止めてほしい。いつも殿下の言葉に頷いてしまう朔夜が、真雪に睨まれることになる。

「参るぞ」

 さっさと執務室を出ていく殿下の後を朔夜と真雪で追った。


 東宮妃殿の居間に入れる男は殿下以外はごく近しい親族のみで、朔夜と真雪は戸の外で待つことになる。大抵は殿下にお茶などを出してから、妃殿下付の女官たちも部屋から出てくる。

 天気が良ければ、殿下と妃殿下は並んで庭を散策することもある。少し距離を置いて朔夜や真雪のほか、妃殿下の女官や侍女、警護の衛士らがふたりを見守る。

 言葉を交わせる訳ではないし、顔を見られるのも一瞬だけだが、そこに琴子がいるだけで朔夜の気持ちは浮いた。とはいえお役目の最中なので、朔夜はそれを表には出さない。

 しかし、琴子のほうはわりと遠慮せずに朔夜を見つめてくるので、朔夜は嬉しいのと同時に戸惑ってしまう。以前はこっそり朔夜を見ていたのだと琴子は言った。朔夜がもう少し琴子を見ていれば、琴子の気持ちに気づけていたのかもしれない。

 琴子が女官になってからしばらくは、朔夜を見るたび殿下にそれを揶揄われていた。だが、今の殿下の目には妃殿下しか映らないので、それはなくなった。


「まったく、よく飽きないな」

 真雪がため息混じりに言った。

 殿下と妃殿下は、今は東宮殿の中庭に出てきていた。そこに植えられている桜木の蕾を眺めている。殿下は妃殿下の手を取っていて、実際には蕾より妃殿下の顔ばかり気にしているようだ。

「まだご結婚されたばかりなのに、飽きるほうがおかしいだろ」

 朔夜が返すと、真雪が睨んできた。

「殿下ではない。琴子どのだ」

 真雪の言葉で、朔夜はチラリと殿下と妃殿下の向こうに立っている妻のほうを見た。

 琴子は隣にいる苑子と顔を合わせて何か言葉を交わしてから、殿下と妃殿下のほうへと意識を戻した。が、その視線はふたりを越えて、朔夜を捉えた。朔夜と目が合うと、琴子がわずかに微笑んだ。

「わたしたちだってまだ新婚だ。別にいいだろう」

「まあ、役目に支障が出なければな」

 朔夜は護衛の役目を疎かにするつもりはないし、琴子も同じはずだ。

 殿下はと言えば、妃殿下に会ったあとは政務に集中できるようだ。仕事が早く終わるようになり、朔夜と真雪も以前よりは早い時間に解放されている。

「真雪も嫁を貰えばいいのに」

「半年前には嫁など要らぬと言っていたくせに」

 真雪は顰め面になった。


 朔夜の帰りが早いと、部屋を訪れていた苑子や史靖などと顔を合わせることもあった。琴子は苑子とは、朔夜が不寝番のときには食事をともにすることもあるらしい。琴子がひとりで淋しく過ごすことがなければいいと、朔夜は思っている。

 ちなみに、琴子も週に一度くらい不寝番があるのだが、誰かが配慮して朔夜の不寝番の日に合わせてくれている。だから朔夜が部屋でひとりになるのは、昼間に仮眠を取りに帰るときくらいだった。

「このところお帰りが早いのですから、朔夜もご友人をお呼びしてはどうですか?」

 琴子にそう言われたが、朔夜には部屋に呼ぶほど親しい相手が思い浮かばなかった。

 衛士の中には幼馴染や同期などそれなりに知り合いはいる。だが、殿下の護衛になってから朔夜は仕事ばかりで、彼らとの交流はほぼなかった。

「たまには真雪どのとお酒を飲んだりするのもよろしいでしょうし」

 琴子が続けた言葉にも、朔夜は首を傾げた。真雪が友人かと言えば、おそらく違うだろう。ならば何になるのかは、朔夜にもよくわからなかった。

「わかりました。そのうち連れて来ます」

 とりあえず、朔夜はそう答えた。本当は朔夜としては、琴子と過ごせる夜はふたりきりがいい。


 ◆◆◆◆◆


 朔夜が不寝番のとき、琴子は夕食をひとり食堂で食べるが、苑子と都合が合えばどちらかの部屋で一緒に食べることもあった。

 苑子と食堂で食べる場合には、そこに真雪が加わることもある。東宮殿寮の食堂は各々が受け取った膳を座敷の好きなところに運んで食べるのだが、そこに真雪がいれば苑子はすぐに気づくのだ。

 苑子が真雪と親しくなっていたことに琴子は驚いた。殿下や妃殿下の前では、ふたりともそんな素振りは見せたことがない。とはいえ、苑子が何も言わないので、琴子も黙っていることにした。


 不寝番でないときには、朔夜の帰りが早くなった。妃殿下に会いたい殿下が仕事を早く片付けるようになったためだ。おかげで琴子はきちんと起きたまま朔夜を待つことができている。2台目の寝台は今のところ出番がまったくなかった。

 朔夜は部屋に戻ると、出迎えた琴子を抱きしめて口づけるようになった。琴子としても、それはいい。

 困るのは、部屋に客が訪れていてもそれをしようとすることだ。殿下の護衛であれば、部屋に妻以外の人がいることくらい気配でわかるだろうに。

 とりあえず、部屋に誰かがいるときには普段より一歩下がって出迎え、朔夜が手を伸ばすより先に客がいると伝えることで防いでいる。

 ところが、先日は部屋にひとりだった琴子をしっかりと腕に抱きしめてから、朔夜は言ったのだった。

「あ、真雪を連れて来ましたよ」

 琴子が恐る恐る朔夜の後ろを覗けば、真雪は親切にもこちらを見ないよう視線を逸らして立っていた。琴子は急いで朔夜から離れた。

「いらっしゃいませ、真雪どの」

「邪魔なら、帰りますよ」

「いえ、どうぞ上がってくださいませ」

 もちろん真雪が帰ったあとで、琴子は朔夜に抗議した。実家では家族の目を気にしていたのだから、ここでも周りを気にしてほしい。


 もしかしたら主の悪影響もあるのではないかと、最近琴子は思う。

 殿下はしょっちゅう政務を中断して妃殿下に会いに来る。それだけならば妃殿下にとっても嬉しいことだろう。

「殿下がお見えでございます。ご一緒にお散歩をなさりたいそうにございます」

 苑子が言うと、妃殿下は困ったような顔をした。

「お断りするわけにはいきませんよね」

 妃殿下の言葉に苑子も琴子も驚いた。

「お体の具合がお悪いのでございますか?」

「そうではありません」

「では、殿下と何かございましたか?」

「違います」

 妃殿下は嘆息した。

「殿下はなぜ皆の見ている前でもあのように私に触れられるのでしょうか。私は恥ずかしくて堪りませんのに、やめてくださらない」

 琴子は苑子と目を合わせて、小さく笑った。

「殿下と仲睦まじいお姿をお見せすることも、妃殿下の重要なお役目にございます」

 琴子が言うと、苑子が続けた。

「それに、妃殿下とお会いになった後は殿下がご機嫌でお仕事も捗るそうにございます。ということは、ここで妃殿下がお会いにならなければ、このあと執務室が荒れることになります。殿下だけではありません。殿下の護衛どのも妻に会えずに帰るわけですから、さらに雰囲気は悪くなることでしょう」

「ということは、琴子までもがっかりさせることになるわけですね」

「そのとおりにございます」

「わかりました。参りましょう」

 妃殿下が決意を固めて立ち上がり、苑子が安堵して頷くのを、琴子は複雑な気持ちで見ていた。

 そしてやはり、妃殿下が東宮妃殿の前に出ると、さっそく殿下はその手を握り、頬に触れるのだった。

 その殿下の後ろに立っているときの朔夜は、琴子のことをなかなか見てくれない。もちろん、朔夜の役目は琴子も理解しているので、腹を立てたりはしない。

 だが、隣にいる真雪と顔は合わさぬまま言葉を交わしている朔夜の姿を見ていると、琴子は思い出してしまう。朔夜を時々盗み見ては、自分も見つめられたいと願っていた頃のことを。

 とはいえ、以前の朔夜が琴子を見てはいなくても、意識はしていたのだと今の琴子は知っている。そして、今の朔夜が妻のことを完全には無視できないことも。

 琴子がチラチラと朔夜を見続けていれば、根負けしたように朔夜も琴子に視線を向けてくれる。その一瞬だけは、朔夜は無表情の護衛ではなく優しい夫の顔になる。

ここまでお読みいただきありがとうございます。本編はこれで終了しますが、あといくつか番外編があります。よろしければ、そちらもお願いいたします。

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