番外編 親の心子知らず(後)
その翌日、夜の執務室には机に向かう殿下と真雪、戸の傍に立つ朔夜がいた。殿下の口数がやけに少ないせいで、室内はいつになく静かだった。その中で殿下が唐突に呟いた。
「好いた女が他の男のものになるのを黙って指を咥えて見ているのか。それで平気なのか」
思わず真雪は殿下のほうをチラと窺った。朔夜もわずかに反応したのが視界の端に映った。殿下だけが先ほどまでと変わらずに手を動かしつづけていた。
その言葉はおそらく殿下が自身を鼓舞し、皇太子という己の立場を乗り越えようとするものだった。だが、それは同時に朔夜にも届いた。生真面目な朔夜が果たして己の立場に一瞬でも背を向けられるのか、殿下の賭けだった。
朔夜の心が揺れているのが真雪には目に見えるようだった。さすがに朔夜も琴子への想いを殿下と真雪に知られていたことには気づいたはずで、となれば朔夜がふたりに対して何かを隠す必要はもはやなかったのだろう。
朔夜はなかなか動く様子を見せなかった。
「あやつは何を迷っておるのだ」
妃殿下が決まる期限が迫り、殿下のほうが焦れていた。
だが、ようやく心を決めたかに見えてから数日後の朝。朔夜が殿下に突きつけた答えは、殿下と真雪の予想を超えるものだった。
琴子を抱いたと告白した朔夜に、殿下も真雪も呆気にとられた。その極端すぎる行動は朔夜らしいと言うべきか、貴族ではない朔夜がそうする可能性に思い至らなかった殿下を責めるべきか。
しかし、直後に事はますますややこしくなった。琴子がいつもどおりを装って殿下の前に姿を見せたのだ。顔色の変わった朔夜を殿下は突き放した。
「なぜあのふたりはここに至ってまだすれ違うのだ」
ぼやく殿下に、真雪は答えた。
「気持ちを伝えておらぬからでございましょう」
「体は繋げたくせにか」
「普段、朔夜が何も言わずとも、殿下やわたしがその気持ちに気づいてしまうせいではありませんか」
「それが琴子にも通用すると思っているのか。今まで何もしてこなかったくせに」
「今度のことで朔夜も学ぶでしょう」
「それをこの先、生かす機会があればよいがな。ところで、琴子は何を考えておるのだ? 力づくで奪われて、朔夜への気持ちが失せたというわけではなさそうだが」
「もしそうであれば、さっさと実家に戻ったのではありませんか。娘の身に起こったことを知れば、左大臣さまは怒り狂って朔夜を何としても殺してくれるでしょう」
「であるな。つまり琴子は父親に知られたくはない、と」
「ついでに申せば、琴子さまが朔夜の気持ちにまったく気づいておらぬなら、黒幕の存在を疑っているのではありませんか」
「その黒幕が実行犯である朔夜を口封じのために殺す可能性もある、か」
「はい。ですが例えば琴子さまがもはや妃になれぬことを殿下が知られて、カッとなった殿下がその場で琴子さまを手打ちになされば、相手が誰かはわからぬままにできます」
「わたしはそれ程短気ではない。そもそも琴子が何も言わずに処刑されたとて、調べればわかるかもしれぬ。自ら告白する実行犯もおるわけだしな」
「あくまで確率の問題ではあります。ただ、どちらにせよ琴子さまはご自身より先に朔夜が死ぬのは見ずに済みます。あるいは朔夜だけを死なせることもないのかと」
「結局、琴子は朔夜を死なせたくないがために東宮殿に残ったわけか。ならばさっさとわたしに話してしまえば良かったに」
「そこまでの殿下に対する信頼はなかったということでございますね」
「わたしが朔夜を殺すと思っておるか。それにしても、己の命も顧みぬほどに好いておるくせに、なぜ朔夜の気持ちには少しも気づかぬのか不思議だ」
「それはまた朔夜への信頼のなさゆえということでしょうか。あのふたりは互いを一方的に想うばかりで、まだ何も積み重ねてはおりません」
突然馬車が停まり、外が騒がしくなった。どうやら襲撃者らしい。
「出遅れたか」
そう嘆く殿下も真雪も落ち着いていられるのは、朔夜への信頼があるからだった。
「こんなときに出てくるとは愚かだな。朔夜のいい八つ当たり相手ではないか」
殿下は窓の外を窺いながら言った。
「殿下、お顔を出さないでください」
「大丈夫だ。もう終わる」
殿下の言葉どおりすぐに刃のぶつかり合う音は止み、聞こえてくるのは衛士たちの声だけになった。
ともかく、馬車の中での真雪とのやり取りで状況を整理できたこともあって、その夜ようやく殿下はやる気を出した。もっとも期限は間近で、これ以上先延ばしにして自身の首を締めるのは殿下なのだが。
朔夜が退がったあとの執務室で、殿下と真雪は猛然と筆を走らせた。殿下の筆は朔夜のためだが、真雪のほうは昼間の事件のせいですでに遅れ気味の政務のためだ。こちらも重要な部分は殿下にしてもらわねばならないのだが。
「なぜわたしがこんな苦労をするのだ」
「殿下の可愛い護衛のためでございましょう」
「気持ち悪いことを申すな。筆が止まる」
室内には今夜の不寝番の衛士がふたりいるので馬車の中ほどは自由に話せないが、それでもたびたび殿下は真雪には聞きとれる声でブツブツと文句を言った。そのほうが殿下の仕事が進むことを心得ているので、真雪もそれに付き合う。
「朔夜には言葉で伝えるという考えはなかったのか。さすればもっと簡単にまとまったであろうに」
「そもそも殿下のお言葉が朔夜には遠回しすぎたのではありませんか。攫って逃げるとか、心中するを朔夜が選んでいれば殿下はもっと困った事態になっておりました」
「ならば、夫婦にしてやるから口説いて来いと言えば良かったのか? そこまで言わねば動かぬなら何もしてなどやらぬわ。だいたいわたしに言われてようやく動くなど遅いのだ」
「それでは朔夜の殿下に対する忠誠心を無視しております。朔夜がなぜ今まで気持ちを押し隠そうとしてきたのか、おわかりでしょうに」
「わかっておるから今こうしておるのではないか。まったく、なんやかんや言っておるが結局そなたこそ朔夜に甘いのではないか」
「すべて殿下の御為にございます」
「見え透いた嘘はいらぬわ。……真雪、これを届けて来い。中宮殿と大宮殿にはできれば返事もその場でもらえ。神殿と、皇陛下も明朝でよいか。戸籍課はもう人がおらぬかもしれぬが一応覗いて参れ」
「はい、行って参ります。手が空いたらこちらも目を通しておいてくださいね」
真雪は立ち上がると執務室を出た。
徹夜にはならなかったものの、殿下と真雪は普段より短い睡眠をとったのち再びせっせと手を動かした。早朝から執務室で机に向かっているふたりの姿に、やって来た朔夜は首を傾げた。
皇陛下への根回し、神殿への確認と祝言の依頼、戸籍課にも確認と婚姻の届の取寄せ、中宮殿と大宮殿には姫君たちの挨拶のあとで直接殿下が赴く予定になっていた。
その前には朔夜を一度東宮殿から出さねばならない。殿下は短い礼状を何通も書いた。さらに、左大臣と朔夜の兄には呼び出しを、朔夜と琴子それぞれの母にはふたりの結婚を報せた。
真雪はいつもどおり朔夜のために配達先を一覧にした。今だにわざわざこんなものを書いてやるのはやはり甘いのかもしれない。
朔夜が去ってからしばらくして、殿下は大宮殿に向かった。皇太后陛下と皇后陛下が揃って待っていたので、殿下は一度で済むと喜んだ。
とはいえ、もちろんおふたりは殿下のお願いを聞いて驚き呆れ、叱りとばした。
「琴子を朔夜に娶せるなど、そなたは何を考えておるのだ。琴子はそなたの妃候補なのだぞ」
「確かに琴子は良い妃になるかもしれません。ですが、朔夜はすでに私にとって替えの効かぬ存在なのです。朔夜の気持ちを知ってしまった以上、私は琴子だけは妃にできません」
最終的には、おふたりは仕方なくという様子ながら認めた。
「あのようなお言葉は直接朔夜に言ってやったらよいのではございませんか」
大宮殿を出てから真雪が言うと、殿下は目を眇めた。
「何のことだ?」
そうして首尾はすべて順調に進み、朔夜と琴子は地下牢から手を取り合って出て来た。まるでずっと前からそうしていたかのように自然に並んで立っている。
祝言の間、朔夜と琴子はすっかりふたりだけの世界だった。
「琴子はあのような顔だったか。わたしの前とはまったく違うな」
「それよりも、朔夜のほうはよろしいのですか? 殿下の護衛があのように締まりのない顔を晒しておりますが」
「別によいのではないか。あれが朔夜の本来の顔であろう」
「まあ、そうですね」
殿下は目を細め、口元には笑みが浮かんでいた。真雪も自分の顔がいつもより緩んでいることはわかっていた。
祝言のあとで、真雪は予定どおり朔夜と琴子が署名した婚姻の届を戸籍課へ提出に向かった。
さらにもうひとつ、殿下から振られた役割があった。その相手が前方から歩いてくるのが見えて真雪は足を止め、脇に避けて頭を下げた。左大臣も真雪の前で足を止めた。
「そなた、皇太子殿下の秘書官だったな。殿下はいったい何の用があってわたしを神殿などに呼び出されたのだ?」
「おめでとうございます」
真雪はさらに頭を下げて祝意を伝えた。チラリと左大臣を窺えば、当然訳がわからぬという顔だった。
「先ほど、琴子さまが殿下の護衛朔夜と祝言を挙げられました」
「祝言? そなた何を申しておるのだ。そのようなことできるわけがなかろう」
「いいえ、殿下と神殿、それに戸籍課も認めましたのでふたりはすでに夫婦になられました」
「なっ、ばっ」
左大臣は目を白黒させながらも、自分がどうすべきか考えているようだった。
「ふざけるな」
最後に真雪にそう吐きすてると、左大臣は神殿のほうへと駆けていった。
真雪はその背中に一礼すると、戸籍課に認めさせるために正殿へとのんびり歩きだした。
「殿下は苑子さまがこうされることまで予想されていたのですか?」
翌日、執務室で真雪は尋ねた。殿下は楽しそうに笑っている。
「いや。苑子の性格なら、琴子がいなくなってから選ばれても喜ばぬであろうとは思っていたが、ここで働くなどと言い出すとまでは」
苑子が先ほど出て行った戸の傍では、朔夜がやや呆気にとられた様子で立っていた。
「とりあえず、女院に明日の面会を申し入れよ」
「承知いたしました」
やれやれと真雪は立ち上がった。
思惑どおりにお妃選びは延期が決まり、殿下はすっかり上機嫌だった。琴子と無事に夫婦になったことで朔夜も一時より無表情が崩れ、少しだけ以前に戻ったようだ。それを見れば真雪も、多少の無理は通してもよい気がしていた。
もっともすでに舞台は整ったのだから、あとは殿下が自身で何とかするはずだ。殿下が望むただひとりの姫君の手を取るために。




