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番外編 親の心子知らず(前)

 神無月の訪れとともに、東宮殿に皇太子殿下のお妃候補である3人の姫君が迎えられた。

 天気の良い穏やかな日で、殿下との最初のお茶会は中庭に用意された。殿下と姫君たちは椅子に腰掛けて丸卓を囲み、何やら会話に興じていた。

 殿下から少し離れて後ろに立つ真雪は、隣にいる朔夜の自分よりはだいぶ高い位置にある顔をチラリと窺った。殿下の護衛はいつもと変わらぬ無表情だ。

「おまえはどなたが選ばれると思う?」

「琴子さまだろう」

 朔夜は躊躇う様子も見せずに真雪の予想どおりの答えを口にした。そのことに真雪は溜息を吐きたくなった。


 東宮殿に来たばかりのころ、真雪より少しだけ背の低かった朔夜はよく喋り、笑い、怒り、叱られ、そして時々泣いていた。真雪は実年齢よりも幼く見える朔夜を不安に思ったものだった。

 やがて朔夜は殿下の護衛の役目についているときには感情を面に出さなくなった。初めのうちは綻びもあったが、いつからか無表情が当たり前になった。

 殿下はそれをつまらなそうに見ていたが、本人の好きにさせて放っておいた。殿下と真雪には朔夜の気持ちなど大抵は読めたし、朔夜もふたりの前では以前のように素直な顔を見せたからだ。


 やがて皇宮に皇女さまのご学友が迎えられた。将来その中から殿下のお妃が選ばれるので、殿下にはできるだけ姫君たちに会うよう女院から指示があった。

 殿下は殺伐とした雰囲気を予想して戦々恐々としていたが、実際に対面した姫君たちは和気藹々としており、それからの殿下は姫君たちに会いに行くことを嫌がらなかった。

 真雪が朔夜の様子に違和感を感じたのはそれから間もなくのことだった。殿下が姫君たちのもとを訪れるおり、なぜか緊張しているように見えた。殿下が姫君たちとともに過ごす間は、不自然なほど姫君たちを見ていなかった。

 真雪は嫌な予感がした。勘違いならいい。だが、やはり朔夜に関して真雪の勘が外れることはなかった。

 ある日、殿下が姫君たちと庭園を散策していたときのこと。朔夜の声がひとりの姫君の名を呼ぶのが聞こえて、真雪はそちらを見た。どうやら池に落ちそうになった姫君を、朔夜が注意したらしかった。凛として見える評判の姫君もまだ14歳。そんな微笑ましい姿もたまにはいいだろう。

 だが姫君に背を向けた朔夜の横顔を見て、真雪からそんな呑気な思いは消えた。よりによって妃殿下の最有力候補と言われている琴子が朔夜の恋した相手だった。

 それからしばらく真雪は姫君たちと会う殿下の後ろで朔夜を観察したが、確信は深まるばかりだった。

 それどころか、もうひとつ気づいてしまったことがあった。琴子も、朔夜を想っていた。琴子はほかの姫君たちと同じように殿下を見つめているが、ときおりその目が朔夜を見ていた。その視線はいつもほんの束の間だったが、殿下を見るときにはない熱が込められていた。

 だが、幸か不幸かふたりは互いの気持ちにはまったく気づいていなかった。琴子を見ない朔夜と、朔夜を一瞬盗み見るだけの琴子ではそれも当然のことだった。


 さらにこれも当然なのだろうが、殿下はやがて朔夜と琴子の想いに気がついた。

「なぜあやつはこう面倒臭いのだ。やっと何かを望んだかと思えばこれか」

 朔夜が退がった執務室の文机の上で頭を抱えた殿下の気持ちは真雪にはよくわかった。が、冷静にその言葉を訂正した。

「あれはまだ何も望んではおりません」

 殿下は机から顔を上げると真雪を睨んだ。

「わたしに見えておるものがそなたには見えておらぬはずがなかろう」

「もちろん、見えております。あれは己の立場をよく理解しております。手に入るはずのないものを望んだりはいたしません」

「手に入るではないか。向こうとて同じなのだから」

「殿下もご自身のお立場をよく理解しておられるはずです」

「そなたは冷たいな」

 殿下はむっつりと黙りこんだ。だがいくら殿下の護衛とて、ただの衛士が殿下のお妃候補である左大臣の娘を望むなど、やはり無理がある。互いの気持ちに気づかぬうちに忘れたほうがいい。殿下もそれはわかるはずだと真雪は思っていた。


 しかし、2年が経っても事は真雪が考えていた方向へは進まなかった。

 相変わらず朔夜は琴子を見なかった。そのかわりなのか、すっかり無表情が板につき、一部の者からは怖がられている始末。そのくせ恋敵であるはずの殿下に対する忠誠心は微塵も揺らぐことがなく、殿下と真雪にとっても朔夜は朔夜のままだった。

 一方、琴子はやはり朔夜を見ていた。だが彼女が妃殿下候補の筆頭であることも変わらなかった。清楚な見た目の内に熱い心を隠していることなど、誰も想像していなかった。

 そして、あろうことか真雪の前には3つめの恋心が姿を現していた。少し前から予兆はあったのだが、どうやら本人が自覚してしまったらしい。

「人の心とはかように儘ならぬものであるのだな」

 しみじみした様子でそんなことを呟く殿下を見て、熱でもあるのかと額に触れたくなった。だが、殿下の熱も体ではなく心の内に生まれたものだった。

 おそらく殿下は自身が恋を知ったことで、己ではどうにもできぬ心に囚われながらそれを大事に抱えているしかなかった朔夜の想いにも気づいてしまったのだ。それは真雪には想像することしかできないものだったのだが。

 とはいえ、やはり殿下は己の立場をよくわかっていた。姫君たちにも朔夜にも表面上は今までどおりに対していた。ただ真雪だけが、殿下がひとりの姫君に向ける笑顔だけは嘘偽りのない心からのものであることを知っていた。


 皇女さまのご学友の期間が終わると、殿下が姫君たちに会う機会はほぼなかった。だが、半年の間に殿下と朔夜の恋心が消えるなどと甘い期待をすることはもはや真雪はしなかった。

 やがて、女院から妃選びに招く3人の姫君が告げられた。真雪の予想どおり、その中に朔夜が想う姫君はいて、殿下の想う方はいなかった。

 その結果を冷静に受け止めたかに見えた殿下だったが、苛立っていることは真雪の目には明らかだった。

 そして、神無月の訪れとともに琴子と苑子と楓が東宮殿に入ったのだった。


 姫君たちと茶を飲みながら楽しそうに会話をしていた殿下が、ふいに真雪と朔夜を近くに呼び寄せた。

「そなたたちはわたしより歳上なのだから、そろそろ妻を迎えてはどうだ?」

 いつも歳下のように扱っている朔夜が殿下より歳上であることを覚えていたのかと、真雪はどうでもよいことを思った。

「わたしは出世してから選ぶつもりなので、まだお気にしていただく必要はございません」

「そなたは内助の功という言葉を知らぬのか? だいたい、いくつ歳下の妻を娶るつもりなのだ。いくらそなたが童顔でも限度があろう」

「要らぬ心配にございます」

 殿下は姫君たちには見えぬよう、真雪を睨んだ。

「では、朔夜はどうだ?」

 殿下に尋ねられて、朔夜が無表情の下で困っていることが真雪には感じられた。

「わたしは妻を持つつもりはありません」

「なぜだ。頼子が嘆くではないか」

「すでに兄たちがそれぞれ家族を持っておりますので、別に構わぬと思いますが」

「そんなことはないだろう。そなたのような役目の者は、家で癒しを与えてくれる優しい妻がよいのではないか」

 姫君たちの前で朔夜にこんな話を振る殿下に呆れつつ、真雪もつい加わってしまった。

「朔夜の場合、生活を整えてくれるようなしっかりした妻のほうがよろしいのではありませんか」

「では歳上がよいか? だが朔夜より歳上となると今から良い相手を探すのは難しいかもしれぬな」

 殿下が真面目ぶった顔で悩む向こうで、琴子がわずかに顔を曇らせていた。

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