23 小学校の前で
朔夜が不寝番明けの朝に帰宅して、夜に再び東宮殿に戻ることはあれからも何度かあった。2度め、3度めのときも朔夜は琴子を連れて左大臣邸を訪れては断られ、やはりふたりのあとを母が追ってきた。
4度めの今日もまた朔夜が東へ向かおうとしたので、琴子は朔夜と繋いでいた手を引いてそれを止めた。重ね着していても外は寒いが、朔夜の手だけは温かった。
「朔夜さま、母を大事にしてくださるのは嬉しいのですが、たまにはふたりだけがいいです」
琴子が唇を尖らせて朔夜を見上げると、朔夜の顔には優しい笑みが浮かんだ。
「そうですね。どこか行きたいところはありますか?」
そう問われても、朔夜と結婚するまでは屋敷と皇宮くらいしか知らなかった琴子には何も思い浮かばなかった。
「では、今日はとりあえず西へ向かいましょう」
そう言うと、朔夜はいつもどおり右に曲がろうとしていた角を左へ折れた。
士族屋敷街を抜けると目の前に2階建ての建物が現れた。それを囲む塀が琴子の肩より低いので中がよく見えた。
大きさは下位の貴族屋敷ほどだが、華美な装飾などはなく簡素な造りだ。その前には広い庭もあるが、そこにはただ土を固めた地面が広がり、木や花が植えられているのは端のほうだけ。その庭を20人ほどの子供たちが駆けていた。
「小学校ですよ」
朔夜が言った。
「朔夜さまが通っていたところですか?」
「はい」
塀の間近にふたり並んで立ち、しばらく子どもたちの様子を眺めた。どこからか合唱の声も聞こえてきた。
「いつか私たちの子も通うのですね」
琴子は何気なく口にしたのだが、朔夜の反応がなかったので隣を窺った。朔夜は琴子のほうにキョトンとした顔を向けていた。
「朔夜さま?」
琴子が呼ぶと、朔夜はハッとした顔になった。
「すみません。子どもなど考えたことがなかったので」
「子どもが欲しくはないのですか?」
「いえ、そういうことではなくて」
朔夜は少し考える風のあと、再び口を開いた。
「こうして琴子と一緒にいられることが奇跡のようなのに、子どもまで望むのは贅沢かと」
琴子は微笑んだ。
「実は私もまだ考えてはいませんでした。あなたとふたりでいるのが幸せなので。ですが、朔夜さまはきっと良い父上になると思います」
朔夜は目を瞬かせていたが、やがて彼も微笑んだ。
「琴子が母上なら、子どもは学校に通わなくてもよいのではないですか?」
「教師役はできるかもしれませんが、友人にはなってあげられません。やはり学校に行って同年代の方たちと交流することは必要だと思います」
「おそらく、琴子の思う交流よりも小学校の人間関係は荒いと思いますよ」
「そうなのですか?」
やはり皇女さまのご学友しか知らない琴子には上手く想像できない。
ふたりは校庭の子どもたちを横目に再び歩き出した。
「そういえば、あの日の殿下のご公務も小学校のご視察でしたよね」
ふと思い出して、琴子は言った。それとともについてきた苦しい記憶は、朔夜の手の温もりに紛れた。
「はい、ここではありませんが」
「殿下は子どもたちに好かれたことでしょうね」
「帰る間際など囲まれて大変でした。殿下もああいう場ではいい顔しか見せませんので。わたしまで殿下と間違って手を握られました」
「どなたにですか?」
思わず強く反応した琴子に、朔夜は戸惑ったようだった。
「ですから、小学校にいた子どもです」
「女の方ですか?」
「はい」
「お歳は?」
「おそらく10は過ぎていたかと」
「その方は間違えたのではなく、朔夜さまに触れたかったのではありませんか?」
「まさか。皆わたしのことは怖がって遠くから見ていましたよ。その子もわたしと目が合うとすぐに逃げて行きましたし」
「あなたが怖くなどないと気づく方はいくらでもいらっしゃるでしょう。実際はとてもお優しいのですから。逃げたのはただ恥ずかしかったのです」
「どちらにせよ、子どものしたことです」
「私を妻にすると仰りながら、先にほかの方の手を握っていらしたのですね」
「握ったのではなく握られたのです。わたしが自ら手を繋ぐのは琴子だけです」
朔夜の左手に力が入った。
外を歩くとき朔夜は必ず左手で琴子の手を取る。その理由は琴子にもわかっている。朔夜の右手は刀を抜くための手なのだ。
だから朔夜が琴子に迷わず左手を差し出してくれることを琴子は嬉しく思っていた。朔夜が琴子だけだと言うのも疑っているわけではない。だが、面白くないものは面白くない。
琴子が唇を尖らせるのを、朔夜は困ったような顔で見つめた。
「またその顔ですか」
10歳ほどの会ったこともない娘に嫉妬するなど、それこそ子どものようでみっともない。朔夜が呆れるのも当然だ。琴子は俯きかけたが、そこに朔夜の右手が伸びてきて琴子の口を隠すように覆った。
「外ではやめてください」
「醜いものを何度もお見せして申し訳ありません」
琴子は朔夜の手の下で謝った。
「可愛らしいからほかの人には見せたくないのです」
朔夜にまったく逆のことを言われ、少しの間ののち琴子の頬が熱くなった。
「な、何を仰るのですか」
「ああ、その顔も駄目です。わたししかいないところでしてください」
「無理です」
「琴子ならできます」
「無茶です」
「それなら今日はもう帰りますか? このあと団子でも食べようかと思っていたのですが」
「……食べたいです」
「それならば、もう機嫌を直してください」
「はい」
琴子が素直に頷くと、朔夜はようやく右手を下げた。
初めて頼子に会った日に、朔夜が帰ったときには甘えろと言われた。だが、どうも甘えるというより拗ねるになってばかりいるように琴子は思う。朔夜はそれを可愛いなどと言ってくれる。甘やかしてくれているようで、ただ転がされているだけの気もする。
それに比べて朔夜は甘えるのが上手い。琴子にまっすぐぶつけてくる。一応、琴子に対してお伺いを立てるのだが、そんなときの朔夜は相手を信頼しきった子どものように無垢な瞳で琴子を見つめるのだ。琴子にはほぼ断わることができない。
朔夜は松浦家において最強の末っ子だ。甥である樹までそれを認めている。皇太子殿下が結局のところ朔夜には甘いのも、殿下が生粋の長兄ゆえなのではないかと琴子は思っている。そのおかげで今、琴子は朔夜と一緒にいられるのだが。
ならば、生粋の長姉である琴子だって朔夜に敵うわけがなかった。そのうえ、朔夜は無自覚なのだからたちが悪い。
何はともあれ、琴子は朔夜と並んでみたらし団子を食べているうちに完全に機嫌を直した。火鉢のそばで温かい茶も出され、冷えていた体も少しずつ解れてきた。
「琴子、ついてますよ」
朔夜が自分の口の端を指で示した。琴子は指で拭うが、場所が違ったようだ。
「逆です」
そう言った朔夜の顔がグッと近づいてきたので、琴子は咄嗟にその口を手で覆った。
「そういうことは外ではやめてください」
次の瞬間、琴子は短く悲鳴をあげて手を引いた。朔夜に手のひらをペロリと舐められたからだ。
「すみませんでした」
改めて朔夜は琴子の口の端を指で拭うと、今度はその指を舐めながら琴子の顔を窺ってきた。
「琴子、ですからそういう顔はここではしないでください」
「朔夜のせいではありませんか」
琴子の抗議に朔夜は申し訳なさそうな顔を見せるが、おそらく反省はしていない。




