番外編 一花の里帰り
一花は皇宮の大宮殿を訪れていた。
母と祖母は身籠っている一花の体調を気遣い、しばらくは数カ月後に生まれてくる赤児の話題が続いた。
「ところで、今日は聞きたいことがあるゆえそなたを呼んだのだ」
表情を改めて、皇太后陛下が言った。
「私のご学友方のことにございましょう」
一花はゆるりと答えた。すでに数日前から東宮殿には3人の妃候補が入っている。
「そのとおりだ。妃選びがやり直しなどという前代未聞の事態になって、私たちも少々困っておる」
皇太后陛下は溜息をついてみせた。
「琴子か苑子であれば良い妃になっていたであろうに」
「それはどうでしょう」
やんわりと否定した一花に、皇后陛下が首を傾げた。
「あのふたりには何か問題があったのか?」
「琴子も苑子も確かに妃殿下候補としては完璧といえる姫君でした。それが今はまったく別の生き方を選び、そしてふたりとも、いえお兄さまも含めて3人ともが後悔することもありません。お兄さまとふたりの間には結局縁がなかったのですわ」
「ならば唯子と文と楓のうちにその縁とやらのある者がいるのですか?」
「それは、これからお祖母さまとお母さまが結んでさしあげるのですわ」
「ならば、いったい誰がもっとも妃に相応しいのだ?」
皇太后陛下は難しい顔をしていた。
「3人ともそれぞれ良い妃殿下になりうる方たちだと思います。ただ皇太子妃殿下は同時にお兄さまの伴侶でもあります。お兄さまとの相性をよく見極めてあげてくださいませ」
「縁の次は相性か。また曖昧だな」
「ぜひ東宮殿に行かれてお兄さまが彼女たちと一緒にいる場をご覧になってみてほしいのです。おそらく、ここでお会いするだけではわからぬものも見えてくるはずですわ」
祖母と母は困惑顔を浮かべているが、さすがにこの場で一花がふたりの欲しがっている答えを口にすることはできなかった。
東宮殿の執務室で皇太子殿下は相変わらず真雪とともに忙しそうにしていた。それでも入室した一花に文机から顔をあげて言葉をかけてきた。
「どうであった?」
「おふたりはまだ琴子と苑子に未練があるようですね。ふたりのうちどちらかとしか考えていなかったので、ほかの3人から選ばねばならなくなって困っているのでしょう。3人に対しては申し訳ないことだわ」
「実質ふたりだがな」
「そもそも、お妃を選ぶのは自分たちだと豪語していながら挨拶に来るのを待つだけなど、おかしいですわ。琴子と苑子は仲が悪いはずだと、今でも思っていらっしゃるのでしょう」
「そなたに言われたのだから、噂話だけで決めることはもうしないだろう。これからしっかり見ていただこう」
「そうしてくださいませ。ところで、朔夜はいませんの。琴子のことを聞きたかったのに」
兄は顔を顰めた。
「妃候補たちに加えておまえもか。皆、朔夜の顔を見れば琴子の様子を尋ねたがる」
一花も兄を睨んだ。
「友人なのだから知りたくて当然でしょう」
「ならば、苑子のように直接会いに行けばよい」
「もちろん伺いますわ」
「今日は遠慮してやれ」
「あら、もしかして朔夜は休暇ですの?」
「夜には戻る」
「相変わらず、お兄さまは朔夜をお離しにならないのね。もう少し休みをあげてもよろしいのでは?」
「それが朔夜の役目なのだ。仕方あるまい」
悪びれる風もない兄に、一花は嘆息した。
「では私はこれで。お約束どおり、苑子をお借りしていきます」
「ああ、ご苦労だった」
「お兄さまの後押しができていればよろしいですが」
一花は兄に一礼すると立ち上がった。
楓の部屋に入ると、楓、文、唯子が待っていた。3人の娘たちは一花の姿を見て歓声をあげた。一花に続いて茶と菓子を運びいれた女官が苑子であることに気づくと、さらにその声は大きくなった。苑子は茶を淹れて皆に配ると、腰を落ち着けた。
「今日は特別に長めの休憩をいただきました」
「ではしばらくはこちらにいられるのね」
「こうなると、琴子さまがいないのが残念ですわね」
「連れてきてしまえばよかったわね」
娘たちは一花の懐妊や、苑子の仕事などそれぞれの近況の話でひとしきり盛り上がった。そのあとで再びここに不在の琴子の話題になった。
「でも、本当に驚きました。琴子さまがまさか殿下の護衛どのと結婚されるなんて」
「いつの間にそんなことになっていたのかしら」
「苑子さまはご存知でしたの?」
「知っていらしたのは楓さまですわ。だからおふたりが祝言を挙げると聞いても落ち着いてらしたのでしょう? 巫女役までなさって」
「おかげで、すぐ近くから幸せそうな琴子さまの顔を見ることができました。」
「琴子さまはもちろんですが、朔夜どのもあのように笑うのですね」
「琴子さまのことを尋ねたときもいつもよりは柔らかい表情をされていましたわね。怖い方だとばかり思っていましたが」
「皆さまが普段見ている朔夜の顔はあくまでお兄さまの護衛としての顔ですわ。本来は怖いどころか優しい人よ」
「では、琴子さまのことは大事にしてくださっているのかしら」
「ですが、琴子さまは朔夜どののお家で暮らしているのですよね。お料理やお掃除などもすべてされているのかしら?」
「そのようですわよ。琴子さまは楽しそうに話していらしたけど」
「朔夜どののお母さまとも仲良さそうでしたね。『琴子』と呼ばれて」
「羨ましいわ。私はいまだに『姫さま』としか呼んでいただけないのよ。夫もふたりきりのときにやっと『一花さま』と呼ぶだけだし。楓のお祖母さまはどうだったのかしら?」
「最初は苦労したと言っていますが、今はそんな風にはまったく見えませんわ。少なくとも祖母が『姫』と呼ばれているのは聞いたことがありませんね。ただ、我が家は貴族とは違いますが、家事をしてくれる人はいますよ」
「この子が生まれれば少しは変わるのかしら?」
一花はそっと腹を撫でた。
帰宅する馬車の中で、一花は今日会うことのできなかった友人とその夫のことを考えていた。
琴子が士族の嫁としてしっかりやっているらしいと知って、一花は驚嘆していた。数年前、一花は兄から士族の家の生活について詳しく聞き、自分には到底無理だと思ったものだった。
(そもそもお兄さまが私にあのような話しをされたのは、諦めさせるためだったのかしら)
朔夜は一花にとって淡い初恋の相手だった。もちろん誰にも打ち明けたことはなかったが、兄には気づかれていたのかもしれない。
(もっとも、私に士族の家での生活ができるかどうかなど朔夜には関係なかったわね)
まだ朔夜と琴子が並ぶ姿は見ていないが、一花には仲睦まじいふたりの姿が想像できた。




