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19 勝利のち嫉妬

「朔夜、そなたのことが宮中で話題になっておるぞ」

 突然殿下に楽しそうに言われても、朔夜には意味がわからなかった。

「剣術大会のことですか?」

 朔夜が尋ねると殿下は頷いた。

「だが、二連覇したことではないぞ。いつも無愛想なわたしの護衛が、わたしに微笑みかけたそうだ」

「わたしには覚えがありませんが」

「わたしもない。だがそなた、琴子に向かって笑っていただろう」

「ああ」

 ようやく朔夜にも納得できた。

 年が明けてすぐに開かれた衛門府の剣術大会で朔夜は危なげなく優勝した。そのあとで、専属護衛らしく皇太子殿下に向かって礼をとった。殿下の後ろに東宮殿の女官たちに紛れて観戦していた妻の姿を見つけ思わず笑みを浮かべた、というのが真相だった。

「その笑った顔が女たちに好評らしい」

 やはり朔夜にはよくわからない。

「わざわざ宮内神殿で祝言を挙げさせたというに、朔夜が妻を娶ったことは東宮殿の外ではあまり知られておらぬようだな」

「これが琴子どののことだけであれば右大臣さまが醜聞として面白おかしく触れ回っていたでしょうが、苑子どのまでがお妃候補を下りて女官になってしまいましたからね。右大臣さまも下手なことは仰れないのでしょう」

 真雪が冷静に言った。街ではあんな絵本が売られているとはさすがの真雪でも知らぬらしい。朔夜は密かに胸をなでおろした。

「そういうことだな。そなた、どうせならあそこで琴子に抱きつくぐらいすればよかったのではないか」

「そのようなことをする意味がわかりません」

「宮中で女たちに騒がれているなどと聞いたら琴子が嫉妬するのではないかと心配をしてやっておるのではないか」

「殿下が心配をされるようなことではありません」

「つまり、そなたたちは相変わらず仲睦まじくやっておるということだな。そうかそうか」

 目を細めた殿下に言われ、朔夜は半ばやけくそで答えた。

「そのとおりです」

 以前、琴子が口にした嫉妬の相手が殿下だったことなど絶対に言いたくないと朔夜は思うのだった。


 その日の午後、正殿にて御勤めをされた殿下が東宮殿へ戻るおりのこと。少し先の角から若い官吏が姿を見せた。それが史靖であると朔夜はすぐにわかった。史靖のほうでもこちらに気づいたようだが、さすがに皇太子殿下が一緒では睨みつけるわけにも背を向け逃げるわけにもいかず、史靖は脇に避けて頭を下げた。

「あの顔、どこかで見たな」

 殿下が言うのに真雪が返した。

「左大臣さまのご嫡男葛城史靖どのです」

「琴子の弟か。なるほど、似ておる」

 殿下はチラと朔夜を見た。

「そなた、会ったことがあるのか?」

「お見かけしたことは何度か」

「何度も見かけただけとは、避けられておるか」

 殿下はフンと鼻で笑うと、史靖の前で足を止めた。史靖が殿下に礼をとり、朔夜と真雪は史靖に一礼をした。殿下はじっとりと史靖の姿を眺めてから、声をかけた。

「そなた、琴子の弟だな」

「私に姉はおりません」

 固い声で言った史靖に、殿下の声も冷たくなった。

「ほう、父と同じくわたしのしたことが気に入らぬか」

 今度は史靖は答えに詰まった。

「面を上げよ」

 殿下の言葉に史靖は素直に従った。

「わたしに言いたいことがあるなら申すがよい」

「ご、ざいませぬ」

 殿下は史靖の目を見据えた。

「ならば、義兄にも挨拶をしたらどうだ」

 史靖が顔色を変えるのに、朔夜は思わず声を出した。

「殿下、おやめください」

 と、堪えきれずというように史靖が駆け出した。殿下がすぐに朔夜を呼ぶ。朔夜としては逃がしてやりたいところだが、殿下の命ではそうもいかない。史靖の足が大して速くなかったので、朔夜はすぐに追いついた。怪我をさせたくなくて、できるだけ近づいて後ろから抱く形で捕らえた。

 ゆったりと追ってきた殿下は呆れた顔で朔夜を見、それから朔夜の腕の中でもがく史靖を見た。

「そなたは不敬罪で罰を受けたいか。まったく、姉のほうがずっと肝が据わっておるな」

「私にはもう姉はおりません」

 絞り出すように口にした史靖の体が震え出した。

「私の姉は何も言わずに私たちを捨てていくような人ではありません」

 朔夜の袖が降ってきた水滴で濡れた。殿下がギョッとしている。

「なんだ、姉が嫁いで会えないのが淋しいだけか。朔夜、何とかしろ」

 殿下に言われて朔夜は史靖を離すと、前に回り込んだ。妻によく似た顔で泣いているのに胸が痛んだ。懐紙を出そうとして別のものを思い出し、そちらを先に史靖に差し出した。琴子が書いた弟宛の文だ。

「姉上からです。半月ほど預かったままでしたので皺ができてしまったことはお赦しください」

 史靖は黙ってそれを受けとると、表書きをジッと見つめた。涙は止まったらしい。朔夜は改めて懐紙を出すと、濡れた頬をそっと拭ってやった。

「姉上からよくあなたがたの話は聞いております。姉上は今でもご弟妹を大切に思っています」

「だが、残念ながら琴子はこの男に心底惚れておる。そなたには不本意であろうが、この先も姉と仲良くしたいなら朔夜を義兄と認めるのだな」

 殿下は気の毒そうに言うが、殿下もその後ろの真雪も今の状況を面白がっていることは朔夜には明白だった。

「ですが父が、姉には絶対に会うな、もういないものと思えと」

 顔を歪めて言う史靖に、殿下は目を眇めた。

「言われたことをただ聞いていては、いつになっても父を超えられぬぞ。それに、そなたの母は何度も琴子に会っておる」

「母上が?」

 驚いて朔夜を見た史靖に、朔夜は頷いた。

「ときおり、会いに来てくださっております」

「そなたはこのことを父に告げるか、それとも母の共犯者になるか、よく考えるのだな」

 殿下にそう言われて、史靖は神妙な顔になった。

「はい。大変なご無礼をいたしまして申し訳ございませんでした」

 史靖は殿下を、それからわずかに朔夜を見てから深く礼をした。

「今日のところは見逃してやる」

 鷹揚に言うと、殿下は歩き出した。朔夜と真雪も史靖に一礼をしてからそれに続いた。

「殿下、どうもありがとうございます」

 少し離れてから、朔夜は口を開いた。殿下は振り返らぬまま溜息交じりに言った。

「そなたはあの顔にとことん弱いのだな」

 真雪が口元を拳で押さえて笑い出すのを堪えた。


 翌日の夜、家に帰った朔夜はようやく史靖と話せたことを琴子に報告した。今までは避けられていたことも正直に告げたが、史靖をどのように捕まえたかと、彼が泣いたことは何となく黙っておいた。

「まあ、そうだったのですね。弟が失礼をいたしました。どうか殿下にもお詫びとお礼をお伝えください」

「はい」

「史靖も本来は良い子なのです。すぐに朔夜さまがどんなに素敵な方かわかってくれると思います。ああ、先日の剣術大会を観てくれていたらよかったのに」

 そう言うと、琴子は胸の前で手を組んでうっとりとした表情になった。おそらく剣術大会のことを思い出しているのだろう。

 前回、朔夜が剣術大会の当夜に帰宅したおりにも琴子は同じような顔をして、朔夜がどれほど強く、格好良かったかを母たちに語っていた。おかげで朔夜は少々居心地の悪い思いをした。

 そんなわけで、朔夜は今日は早々に妻を現実に引き戻すことにした。だが何か別の話題をと探すも見つからず、しばし妻の顔を窺った。

「琴子」

 朔夜は唐突にその名を呼ぶと、琴子が反応するより先に抱き寄せて口づけた。普段よりやや強引に。琴子は始めこそ驚いた様子だったが抗うことはなく、すぐに朔夜に縋りついてきた。朔夜はさらに腕の力を強めると、そのまま執拗に妻の口中を味わった。ようやく朔夜が琴子を解放すると、顔を赤く染めた妻が潤んだ瞳で朔夜を見上げてきた。

「3日前のわたしではなく、今のわたしを見てください」

「はい」

 それだけ答えるのがやっとの様子の琴子を抱き上げて寝台に移動すると、もう一度彼女を腕の中に捕らえた。やはり顔が似ていても姉と弟はまったく違うと朔夜は強く思った。


 数日後、ひとりで正殿を訪れた朔夜は再び史靖と出会した。史靖は真っ直ぐに朔夜に近づいてくると、礼をした朔夜に向かい同じように返してきた。

「先日は失礼しました。これを姉上に渡してもらえますか」

「はい。必ずお渡しします」

 史靖が差し出した文を朔夜は受け取った。史靖は口の中でモゴモゴと何か言うと、朔夜に背を向け駆け去った。まだ史靖は屈託のある顔をしていたが、それでも朔夜の顔は自然と綻んだ。史靖は「ではまた、義兄上」と言ったように朔夜には聞こえた。


 さらに数日後。

「朔夜、史靖から艶文をもらって喜んでいたというのは本当か?」

 突然殿下に楽しそうに言われても、朔夜には意味がわからなかった。


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