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18 今年最後に

 朔夜はあれから何度か正殿で史靖を見かけたが、毎回睨まれて逃げられた。すぐに追えば捕まえられるかもしれないが、皇太子殿下の護衛が官吏を追い回す姿など見せては誰に何を言われるかわからない。何より朔夜は殿下に命じられたお役目で正殿にいるのであって、まったくの私事である史靖との関係について悩むべき場ではなかった。


 いつもより早い時間にやって来た不寝番の衛士と交代した朔夜に、殿下が1通の封書を差し出した。宛名を確かめると朔夜の母宛だ。

「まだ、母に文をお書きになるのですか?」

 朔夜が尋ねると、殿下は眉間に皺を寄せた。

「当然であろう。頼子にそなたの顔を見せるためだけに5年もの間書いていたわけではない」

「はあ、ありがとうございます」

「それにしても、前回からもう2カ月か。早いな」

 前回の殿下から母への文は、朔夜の結婚を報せるものだった。それを届けた当の朔夜は琴子のことを諦めかけていたのだが。

「今日はそれを届けるだけでよい。たまにはさっさと帰れ。今年最後の妻との逢瀬をせいぜい楽しむんだな」

 普段は何かと用事を言いつけて朔夜をなかなか帰そうとしない殿下がそんなことを言うので、朔夜は目を瞠った。

「では、お言葉に従い本日はこれにて退がらせていただきます」

 殿下の気が変わらぬうちにと、朔夜は急いで礼をとった。


「ただいま帰りました」

 いつもよりずいぶん早くに帰宅した朔夜に、琴子も驚きの声をあげた。

「お帰りなさいませ。何かあったのですか?」

「殿下の気紛れです」

「このような気紛れでしたらいつでも大歓迎です」

 琴子がフフと笑った。

「ちょうど夕ご飯を食べていたところです。朔夜さまも召し上がりますか?」

「はい。そうします」

「すぐにご用意しますのでお待ちくださいませ」

 朔夜が居間に入ると、家族が揃って大皿の並ぶ座卓を囲んでいた。

「母上、殿下から預かって参りました」

 朔夜が封書を出すと、母は箸を置き、両手を着物に擦りつけてから受け取った。

「ありがとうございます」

「母上と殿下の文のやり取りはまだ続くんですか」

 兄が先ほどの朔夜と同じようなことを口にした。

「もちろん。でもこれからはわたしからの文も朔夜に預けられそうだね」

 琴子が白米と味噌汁を朔夜の前に置いたので、朔夜は手を合わせてから食べはじめた。すでに箸を置いている兄が訊いた。

「朔夜は年明けの剣術大会出るんだよな」

「うん、出るよ」

「なら、今回もおまえの優勝でほぼ決まりだな」

 衛門府では剣術大会と武術大会が毎年交互に行われる。朔夜は初めて出場した前々回の剣術大会は4位、前回は優勝していた。

「それは私も観に行ってよろしいですか?」

 琴子が前のめり気味に尋ねてきた。

「琴子が観たいならもちろん構いませんが」

 大会は衛門府の訓練場に客席を設けて行われ、観戦は原則自由にできる。

「とても観たいです。前回の大会をご覧になった楓さまと唯子さまにお話しを聞いて、私も観たかったと残念に思ったものでした」

「そうでしたか。では、ぜひ観に来てください」

「よかったねぇ、琴子。朔夜は琴子のために勝ってくれるって」

 義姉が言うのに、琴子は首を振った。

「いえ、それは殿下のおためにでしょう」

 家族の視線が何となく朔夜に集まった。

「琴子のために勝ちます。どちらにせよ勝てば殿下は満足なさるでしょうから」

 朔夜が言うと、琴子は嬉しそうに笑った。


 夕食のあとで、朔夜は琴子と連れ立って銭湯に向かった。一緒に行くのは初めてだった。

 2カ月たっても、琴子が街の銭湯を利用しているということが朔夜には馴染まなかった。家には風呂がないので湯船に浸かるなら銭湯に行くしかないのだが。

「あまり早くに出てはいけませんよ。寒いのですから肩まで浸かってよく温まってきてください」

 暖簾の前で分かれる前に朔夜はそう口にした。

「何度も来ているのですから義母上さまのようなことを仰らなくても大丈夫ですよ」

 琴子は呆れたような顔をした。

 再び暖簾の前で顔を合わせたとき、先に待っていた朔夜の手に琴子が触れた。

「朔夜さま、きちんと温まりましたか? 私を待たせまいとしてすぐに出てきてはいませんよね」

「心配いりません。さっき出たばかりです。湯冷めせぬうちに帰りましょう」

 朔夜はそのまま琴子の手を握って歩き出した。

「その後、史靖とはどうですか?」

 琴子が尋ねた。

「それが、まだ進展はありません。申し訳ありません」

「いいえ、お忙しいのですし仕方のないことです」

 もしかしたら史靖に避けられていることに琴子は気づいていて何も言わないのかもしれない、と朔夜は考えた。


 家に帰りつき部屋の火鉢の火を熾すと、そのそばに並んで落ち着いた。

「父にも会われることはありますか?」

「何度かお会いしましたが、こちらを見ようともなさいませんでした」

「……こちらを見ないということは、朔夜さまの存在は意識しているということでしょう。私はたった1日朔夜さまを絶対に見ないようにしただけで、すっかり疲弊したものですが」

「それはもしかして、あの時のことですか?」

「そうですよ。それ以前の私はあなたをこっそり見ることが楽しみだったのですもの。あなたを見ないように思えば思うほど、心はあなたを求めました。そのうえ、あの日はいつもよりも多く殿下にお目にかかったように思います」

「あれは殿下がわざとされたことです。わたしと琴子の反応を見て楽しんでいたのでしょう」

 それを聞いて、琴子が眉を顰めた。

「今まで何度か気になりながらお聞きしなかったのですが、朔夜さまが殿下にあの夜のことを告白されたのはいつだったのですか?」

「翌朝です」

「つまり、私が朝の挨拶に伺ったときには殿下はすでにご存知だったのですね?」

「はい」

 朔夜が答えると、琴子はがっくりと肩を落とした。

「それなのに私は気づかれぬよう普段どおりに振る舞おうと必死になっていたのですか」

 と、琴子が顔をあげると朔夜を睨んだ。

「あなたは書庫にお越しになった時、もしも知られたら、というようなことを仰っていましたよね。とっくに殿下に話していらしたのならそう教えてくださればよろしかったのに」

 琴子が唇を尖らせるのを、朔夜は可愛いと思ってしまう。

「あのときはわたしも切羽詰まっていたので……」

「切羽詰まって私に口づけを?」

 琴子にそう言われ、一瞬の間を置いてから朔夜は妻にグッと身を寄せた。短く口づける。

「あれは琴子が目を閉じたので、つい」

 琴子はわずかに頬を染めていた。

「今は目は開いていましたよ」

 朔夜は琴子を引き寄せて膝の上で横抱きにした。

「夫婦がふたりきりでいるのに、口づけに理由が要りますか?」

 今度は朔夜が拗ねたように言うと、琴子が表情を緩ませた。

「いいえ、要りませんね」

 妻の答えを聞くと、夫はもう一度唇を重ねた。


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