12 夫のお願い、妻のお願い
「これは読み終わったのですか?」
部屋で寛いだ様子の朔夜が手に取ったのは殿下からもらった本だった。
「はい。実は小さいころに子ども用に書き直されたものは読んでいたのですが、改めて読んで感動しました」
「どんな話ですか?」
「せっかくのご祝儀ですから朔夜さまも読まれては?」
「少しずつしか読めないと思うので、だいぶ時間がかかりそうで……。あ、琴子が読んで聞かせてくれませんか。わたしが帰って来たときに少しずつでも」
朔夜にそう言われ、弟妹たちにしてあげていた読み聞かせを思い出して琴子は微笑んだ。
「よろしいですよ」
「では、お願いします」
そう言って琴子に本を渡すと、朔夜はゴロリと横になって頭を琴子の脚に寄せてきた。
「琴子、膝を借りてもいいですか?」
朔夜がさらりと言うのに琴子は少し戸惑うが、まっすぐ琴子に向けられている朔夜の目を見ていると断るという選択肢は浮かばなかった。
「はい、どうぞ」
琴子の返事を聞くと、朔夜は体の位置をずらして琴子の膝に頭を乗せてきた。
「辛くなったらすぐに言ってください」
言いながら、朔夜は右手を伸ばして琴子の髪を弄りだした。琴子は本を開くと、皇女さまとその護衛が出会う物語の冒頭部を読みはじめた。
物語がそれほど進まぬうちに朔夜の手が琴子の髪から離れて落ちた。見れば、朔夜は目を閉じていた。琴子は本を脇に置くと、寝息を立てる朔夜の頬に触れた。
(旦那さまのことを可愛らしいと思ってしまうのはおかしいかしら)
しかしたびたび朔夜に対して感じる気持ちを言葉にするとすれば、ほかには思い当たらなかった。
しばらくの間、琴子が朔夜の寝顔を見つめていると朔夜がふと目を覚ました。
「あれ、お話終わりましたか?」
「いえ、あなたが寝てしまったので……」
「すみません。心地よかったので、つい」
朔夜は起き上がったが、まだ眠そうな顔をしていた。
「私の力ではあなたを寝台まで運べないのでどうしようかと考えていました」
「起こして構いませんよ」
ふいに朔夜が琴子を抱き上げた。琴子は短く悲鳴をあげて、朔夜の首にしがみついた。
「これはわたしの役割ですから」
朔夜はゆっくりと琴子を寝台に下ろし、自身もその隣に腰を下ろした。
「疲れていらっしゃるのにわざわざここに帰って来てくださってありがとうございます。来なくてもいいですよとは言えなくて申し訳ありません」
琴子が頭を下げると、朔夜は困ったような顔をした。
「もし琴子に帰って来るなと言われたら悲しいです。疲れていてもそうでなくてもあなたに会いたいし、寮よりもここのほうがずっと安らぎます」
「本当ですか?」
「もちろん、本当です」
「良かった」
琴子が朔夜のほうへ身を寄せると、朔夜は琴子の体を包むように抱きしめた。
「また本の続きを読んでくださいね」
「はじめから読み直したほうがよいのでは?」
「……次は寝てしまわないようにします」
夫の言葉に琴子はクスクスと笑った。
横になり朔夜が覆いかぶさってきた段になって琴子は声をあげた。
「お待ちください」
「どうしました」
朔夜はいくぶん情けない顔になった。
「朔夜さまにお願いしたいことがありました」
「この状況でお願いとは何でしょう?」
朔夜は琴子の頬に触れながら尋ねた。
「朝、起こしていただきたいのです」
「いつもそうしていますが」
「あなたが出かける前ではなく、起きるときにです」
朔夜は首を傾いだ。
「私は今まで誰に起こされずとも時間になれば目を覚ましていました。こちらに来てからも毎日義母上さまに言われた時間に起きています。それなのに朔夜さまが帰られた翌朝だけは起きられないのです。このままでは私はあなたにいつまでも寝ている駄目な妻だと思われてしまいます」
「琴子が毎日頑張っていることは母上や義姉上から聞いていますから大丈夫ですよ。それにわたしが帰った日だけ起きられないというのはすべてわたしの責任なので気にしないでください」
「ですが、朔夜さまはきちんと起きております」
「あなたとわたしでは体力が違いますよ」
「とにかく、私はきちんと朝ご飯を用意して、と言ってもまだお手伝い程度ですが、それから身支度を整えてあなたをお送りしたいのです」
「わかりました、琴子の言うとおりにします。でも無理はしないでくださいね」
朔夜が頬に口づけながら言うので、琴子はくすぐったかった。
翌朝、朔夜の声で琴子は目を覚ました。寝台の脇に立つ朔夜がすでに黒色を纏っていたので琴子は慌てたが、部屋の中はまだ薄暗いので朔夜が約束を守ってくれたのがわかった。
「わたしは先に下に行ってますから、琴子はゆっくり来てください」
「はい。ありがとうございます」
朔夜が出て行ってから、琴子は急いで身支度を済ませて台所に下りた。
「おはようございます」
「あら、おはよう。もう起きたのね」
「あの、朔夜さまは?」
「庭よ。行ってみたら」
頼子に言われて、琴子は裏庭へと向かった。戸を開けぬうちに何かが空を切るような音が聞こえてきた。静かに戸を開いて外を覗くと、朔夜が木刀を手に素振りをしていた。その顔は怖いくらいに真剣で、琴子はしばし見惚れていた。が、ふいに朔夜の動きが止まり、表情が緩んだかと思うとその目が琴子を捉えた。
「そんなところに隠れていないで、出てきてはどうですか」
「お邪魔ではありませんか?」
「大丈夫ですよ」
琴子は素直に朔夜に近寄った。
「いつもこのようにされているのですか?」
「はい。普段のわたしの役目は殿下のお側に立っていることだけですから、こうして体を動かさないと鈍ってしまいます。衛門府での訓練などに参加できればいいのですが、なかなかそうもいきません」
「見ていても構いませんか?」
「構いませんが、それほど面白いものではないと思いますよ」
「いいえ、そんなことはありません」
琴子は力を込めて言った。
朔夜は再び木刀を振りはじめた。その顔は徐々に上気し、汗が流れだした。琴子は少し離れた場所からじっと見守った。
「ご飯できたわよ」
頼子に呼ばれて、琴子は我に帰った。
「すみません。朔夜さまを見るのに夢中で、朝ご飯のことをすっかり忘れていました」
頭を下げた琴子に、頼子は笑い出した。
「いいよいいよ。琴子も一緒に食べちゃいなさい」
居間にはふたり分の食事が用意されていた。朔夜と並んで食べはじめるが、琴子は落ち込んでいた。
「せっかく起こしていただいたのに、さらに駄目なところを見せてしまいました」
朔夜は左手で琴子の頭を撫でた。
「琴子はわたしにとってはただひとりの妻です。駄目なはずがありません。それよりも、そんなに夢中になるほど面白かったですか?」
「はい。あなたがとても凛々しくて、いくら見ても飽きません」
琴子が気を取り直して答えると、朔夜は照れたような顔をした。
「楽しんでいただいたなら良かったです」
「でも、次こそは私も朝ご飯を作ります」
琴子が言うと、朔夜は優しく微笑んだ。
玄関で朔夜と向かい合った。
「ようやく、ここでお見送りできます」
「やはり部屋のほうがいいかもしれません」
「なぜですか?」
「ここでは家族の目を気にしないといけないので」
そう言ってチラと琴子の背後に視線を走らせると、朔夜は琴子を抱きしめ、一瞬ののちには離れた。
「では、行きます」
「私は朔夜さまの妻としてこちらでしっかり励みますので、あなたはあなたのお役目を果たしてくださいませ」
朔夜は頷くと、家をあとにした。




