1 殿下の手紙
よろしくお願いいたします。
朔夜は琴子と向き合って頭を抱えていた。
半刻ほど前のこと。祝言を終え、皇太子殿下よりだいぶ遅れてふたりが東宮殿まで戻ると、真雪に捕まった。
「ふたりにいくつかお伝えすることがあります。まず、琴子どのには明日の巳の刻に部屋を退去していただきます」
「急だな」
不満を漏らすと、真雪の目がギロリと朔夜を睨んだ。琴子もいるので丁寧だった口調が、朔夜の普段聞き慣れたものに変わる。
「そもそも、おとといの朝に追い出されようが殺されようがおまえは文句を言えなかったはずだ。それを殿下が寛大な御心で罪を赦し、正式な夫婦としてくださったのだろうが」
たとえ「寛大な御心」と口にした本人が一瞬嫌そうな顔になったとしても、真雪の言はもっともなので朔夜は口を閉ざした。
「殿下にはいくら感謝いたしても足りません。すべて仰るとおりにいたします」
琴子がそう言って頭を下げた。真雪は再び口調を改めた。
「次に、琴子どのの部屋に朔夜が入室することを認めます。今後のことなど話し合う必要があるでしょうから。3つめ、朔夜は今夜の不寝番から役目に戻るように。最後に、婚姻の届は戸籍課で問題なく受理されました。おめでとうございます」
「ありがとうございます」
朔夜と琴子は揃って頭を下げた。
そんなわけで、ふたりは琴子の部屋の居間に落ち着いた。喫緊の問題は、明日からの琴子の住まいだった。
朔夜がいる衛門府の寮は単身者用で女人禁制。夫婦で住むなら宮外にある家族用の官舎に移らなければならない。確認すると、そこへの入居はひと月は待たねば無理だと言われた。
琴子が父に勘当されたのだから、左大臣邸はもちろん論外だ。となれば、選択肢はひとつ。琴子がそれを口にした。
「朔夜さまのご実家は駄目でしょうか」
正直なところ、朔夜には琴子の預け先として実家の母のもとは一番安心できる。たが、心配なこともあった。
「受け入れてくれると思いますが、あなたの実家とはおそらくまったく違いますよ」
「だからこそ、あなたの妻として必要なことをいろいろ教えていただきたいのです」
琴子の目が輝いた。朔夜はわかりました、と立ち上がった。
「今から行って、頼んできます」
「私も一緒に行きます」
言いながら、琴子も立ち上がった。
「いえ、それには殿下の許可が要りますし、もうすぐ暗くなります。すぐに戻りますから待っていてください」
「わかりました。よろしくお願いします」
朔夜が部屋から出ようとすると、琴子がついてきたので振り向いた。
「お気をつけて、行ってらっしゃいませ」
そう言われて、朔夜は妻の見送りを受けていることに気づいた。思わず抱きしめかけるが、部屋の隅で琴子の侍女が荷造りしているのが目に入って、手をとめた。
昼に会ったばかりの朔夜の顔を見ても、母に驚いた様子はなかった。
「来たね」
それだけ言って居間に入ったので、朔夜も続いた。
「琴子さんは連れて来なかったの」
「今日はわたしだけですけど、何で知ってるんですか?」
この時間なら兄はまだ皇宮だろう。それとも、仕事の合間に伝えてくれたのか。
「殿下から聞いてないのかい」
「殿下?」
母は引き出しの中から封書を取り、朔夜に差し出した。朔夜が昼に届けた殿下からの手紙だ。読んでいいものだろうかと思いながらも受け取った。
『朝晩は寒くなってきましたが健やかにお過ごしでしょうか。
あなたの子息は相変わらず役目に忠実に励んでいるので心配しないでください。
ところで急なことですが朔夜が妻を娶ることになりました。相手は手紙にも何度か書いた左大臣の娘の琴子です。ふたりが互いに望んだことであり私が責任を持つので安心してください。
本日申の刻に祝言を挙げます。しかし事情により琴子の母を招くことができないのであなたにも遠慮していただきたいと思います。申し訳ありません。
それから朔夜はあなたに琴子を預かってほしいと頼むかもしれません。その時には私からもお願いします。
どうぞお体大切に。』
朔夜は唖然としながら主の顔を思い浮かべた。いつの間に祝言までの流れを整えていたのかとは思っていたが、そのあとのことまで考えていたとは。しかし、とりあえず話しが早くなった。
「そういうことで、琴子をしばらくここに置いてほしいのですが」
「おまえの部屋、掃除して使えるようにしといたから。いつでも連れて来なさい」
「ありがとう。明日からお願いします」
朔夜は頭を下げた。
「朔夜兄、ご飯食べてくよね」
台所から姪の鈴が顔を出した。手には菜箸が握られている。すぐに帰るつもりだったのだが、先程から感じていた匂いに抗えず頷いた。思えば、いつも来るのは昼間なので夕食を実家で摂るのは久しぶりだ。
母が台所に戻り、居間の座卓に料理を盛った大皿が並び始める頃には長兄の直哉が帰宅した。朔夜の顔を見ると飛びつく勢いで隣に座った。
「おまえは、俺の肝を冷やすようなことをするなよ。突然殿下に呼び出されて、何事かと思ったぞ」
「ごめん」
「しかも殿下の妃候補って、ありえないだろ」
「直哉は反対なの?」
台所から汁物を運びながら兄嫁の美冬が尋ねた。
「反対ではない。殿下がお膳立てしてくださったことだし、俺も届に署名したからな。だけど、あまりに急すぎるんだよ」
「それには同意するけど、あのお手紙からすると朔夜も殿下に突然言われたんじゃないの」
お櫃を抱えてきた母が言った。長男にその内容を簡単に説明する。
「俺も殿下から文で呼び出された。正午に来るようにと」
朔夜は昼間の配達のことを思い出した。衛門府に届けた書状は何通か束になっていて、そのまま入口のそばにいた事務官に渡したので、それぞれの受取人までは確認しなかった。あの中に兄宛のものがあったのか。そういえば、中宮殿、大宮殿にも行った。正殿への書状はやはり束になっていて一番上が皇陛下宛だったが、その下には左大臣宛もあったのではないか。神殿に届けたのは今日が初めてだった。そして、琴子の母宛だ。今日の配達分のうち半分ほどは祝言を挙げるための布石だったのだろう。わざわざ朔夜に配達させたのがいかにも殿下らしい。
「そんなわけで、明日から琴子さんが家で暮らすことになったからね」
夕食が始まってから、母が皆に告げた。朔夜は一度箸を置いて、よろしくと頭を下げた。兄がポツリとこぼした。
「大丈夫か、左大臣さまの姫君が家に住むなんて」
「左大臣さまの娘ではなく朔夜の嫁を預かるんだよ」
母はピシリと言った。