〜私〜
この話は著者である私本人の話である。
私は2018年の8月に「遠智 赤子」と名乗り怪談を書いてみようとこの小説家になろうに寄稿を始めた。
もとより怖い話が好きだったこと、身内が民間伝承を専門とし研究をしている環境もあって怖い話には困らない環境があったことから私も書いてみようと思ったのだ。
慣れないながらも諸先輩方に習い文を綴った。私の稚拙な文章に感想をくれる方、特にゾッとしたと言ってもらえたことに悦に入り、なにかいい話はないかと日常的に考えるようになっていた。
自分なりにルールを決め、霊や化け物に偏り過ぎないどこか身近な話をと筆をとっていたのだが何話も寄稿を重ねるたび、やはり行き詰まりを感じ始めた。そこで私は件の身内に助言を求めた。彼は普段から地形や風土と伝承を結ぶためフィールドワークとして各地に赴いていた。
私はそこに同行を求めた。彼は始めは難色を示したが最終的に私の同行を認め、私は嬉々として日程の調整を進めた。ただの趣味であったのにいき過ぎていたのかもしれない。事実このあと私はこのことを深く痛感する羽目になった。
ここで明記するが私が身内とともに知り得た話は詳細が書けない。いや書けなかったというほうが正しいか。
私が同行したのはとある山村に伝わる〇〇の目撃譚だったがこの話を執筆し出してから妙なことが続き、私はそれを警告と受けとめ執筆を断念した。
始めに起きたのはこの取材旅行の帰りの夜行バスのことだった。私は嬉々とし知り得た話にストーリー性を加味にしながらスマホのメモに文章を打ち込んでいた。しかし半分ほど打ったなかでスマホが突然暗転した。電源が落ちたわけでもなく、画面が黒以外なにも映さない状態になり再起動をすると、打っていたメモは消えていた。
この時点で少しの薄気味悪さを感じていたが私は構わず再度メモを開いた。しかし、また暗転するか今度は画面がフリーズする。いよいよ、電源が落ちたままつかなくなりその日は家に着くまでスマホをいじれなかった。その後そのスマホは充電をしても反応せず結局動かなくなり買い替えることになった。
だが私はこのときはまだ早く寄稿をしたいと思いが勝ち、翌日からもノートパソコンで執筆をしていた。しかし、例によってスマホで起きた現象と似たことがノートパソコンにも起きる。いつもに比べ動作が遅かったりフリーズを繰り返し、この段になってようやく私はこの話は書いてはいけないのかという思いに駆られた。極めつけは夜ようやくの思いで話を書きあげ誤字の確認をしていたときだった。
家のチャイムが鳴ったのだ。
だがドアスコープを見ても誰もいなかった。心音がバクバク音を立てていたのを覚えている。私は怯えながらも机に座り直し、画面を見やると文章の後半が文字化けしていた。背筋が寒くなった。好きだった怪談とは乖離した感情が押し寄せてきたようだった。それでも私はデータを保存し一度寝ることにした。
その次の日からだった。起きると私の目は両目とも赤く腫れて目ヤニで上手く開けることが出来なかった。当時活動報告にも書かせていただいたがウイルス性の結膜炎にかかり二週間の間、目をまともにあけることさえ困難な生活が続いた。当然スマホやパソコンはいじれず、親に迎えに来てもらい実家で療養を余儀なくされる重症に至った。一時は右目は失明すんでまで視力が下りきっていたが日を追うごとに少しずつ回復をし、4ヶ月かけ今は普段と同じ生活にまで戻ることが出来たのだ。
そしてほぼ完治に近づいた最後の診察になろうかという日、眼科の受付で初めて話しかけられた内容は以下のものだった、
今日はお母さんは付き添いじゃないんだね。
私は意味がわからなかった。だが受付の女性が言うにはいつも初老の女性が隣で肩に手を置いて付き添ってくれていたと。
眼科は家から歩いて5分のところにあり初診のとき以外私は一人で通っていた。
一連の現象が私が執筆しようとしていた話と関係あるのかは定かでない。だが私は身の危険を確かに感じ、なろうのサイトはおろか新調したスマホでさえ触る気が失せ、実に半年以上この場から離れることになった。
今回この話を寄稿するのは私自身への戒めであり、同じくホラー小説を執筆する同志に向ける注意として私の経験を贈ろうという気になったからである。読む方書く方皆様において私は境界線というものが確かにあることを伝えたい。
今後も私は懲りずにホラーや怪談の沼に席を置かせてもらおうと思っている。あくまで趣味の範囲でだが。
この話を創作ととるか実話ととるかはあなた次第である。