夜会下
――きらきらしく、夢のような夜会が今晩も終わってしまう。
夜会そのものは頻繁に行われるものの、今晩の夜会を惜しむ者は非常に多かった。
その理由は一人の男。
ジドレル・キッソン。
三年にも及ぶ留学を終えて帰国してきたばかりの若き侯爵にして公爵位の後継者が、久々に夜会に姿を現したからであった。
夜の闇を思わせる黒の短髪。黒い瞳は謎めいた黒真珠のよう。
唇から紡がれる低めの美声。身体の線に沿わせた燕尾服をぱりっと着こなし、歩く姿は一本芯が通りながらも軽やか。精悍という言葉も似あうが、まるで優雅な獣のようでもある。それは彼の全身から香り立つ男性としての魅力から由来するものであった。
彼を前にすると、時にその気のない男性でさえもぞくぞくと背筋を震わせるという。彼はまるで極上の美酒のように人々を酔わせる。
ひざまずいて一夜の愛を乞われたら、どんな難攻不落の美女でも陥落してしまうのだろう。
もちろんその物腰はやわらかで紳士的。話し上手で相手の女性を飽きさせない。彼にエスコートされた令嬢は「まるでお姫様になったみたいだった」と口をそろえる。
頭脳は極めて明晰で、留学前は優秀な軍人でもあった。
そんな彼は二十八となった今も独身のまま。なんとしても射止めたいと考える令嬢は多い。
どこに行こうと華のある美男。社交界では、彼を自分たちの催しに招待できるだけでもステータスになる。
彼の不在の三年間にも、彼以上の貴公子は現れず、どこか物足りなさを感じていた淑女たちは彼の帰国を待ちわびていたのだが、とうとう帰ってきた――!
三年後の彼も皆の期待にたがわない、いやそれ以上の姿で現れた。若者らしい軽薄さが鳴りを潜め、落ち着きと品性がとって代わった。それは彼の三年に及ぶ留学期間で身に着けたものだった。
今はもう、誰も彼を軽薄な若者として見ることはない。一人前の紳士がそこに立つ。皆が彼の順調な社交界復帰を確信した。やはり今の社交界にはキッソン侯爵が必要だ。
おそらく彼はこの後、外務卿を務める父と同じく公職を得ていくのだろう。
未来は一点の曇りもなく、将来の栄光が約束されているジドレル・キッソン。
彼の人生にうまくいかないことなど一つもない――。本人さえもそう思っている節があった。
が。今は少し揺らぎつつある。
……おかしい。こんなはずじゃない。
「……え?」
ジドレルは片手を少しあげた姿勢で石のように固まっていた。ややあってから苛立たしげに前髪をかきあげるも――それだけで彼を窺っていた数人の令嬢がよろめいた――動揺は止まらない。
ジドレルは確かに『フラゴニアの失恋姫』を見つめていたはず。けれどこちらと目が合っても素知らぬ顔。いや、合ったという認識さえも間違っていて、ほとんどただ景色を眺めているのと変わらないような目つきだった。
念のために微笑めば、彼女のほっそりとした首は傾げられこそしたものの、特に頬を赤らめるとか、エメラルドグリーンの瞳を潤ませて話しかけようと唇を動かす気配もない。
父親に促されて、とても素直に帰っていった。
もう一度言おう。おかしい。ありえない。
「あら、驚いていらっしゃるのね、侯爵?」
開いた扇子で口元を隠した王太子妃が皮肉めいた口調でジドレルに語りかけてくる。その視線の先にいたのは今にも人垣に紛れていくフラゴニア辺境伯親子だ。
「どうしてかしら。――どこかの女性に冷たくあしらわれたから、かしらね?」
差し出された夫の腕を取る王太子妃。さきほどから顔色は一切変わらなかった。
「妃殿下は私を嫌っておいでだからそのような意地悪をおっしゃる」
「単なる事実ではなくて?」
「私はジドレル・キッソンなのに?」
「ジドレル・キッソンだからだめなのかも」
そんな妻と腕を組んでいる友人は、気にするな、と肩を叩いてくるが、そう言う自分の肩は震えていた。
王太子妃夫妻がいなくなろうと、彼はすぐに別の人々に囲まれた。ジドレルさま、と彼を持ち上げる令嬢たち。その中の一人に流し目を送れば、彼女はぽうっとなって、彼の言いなりの人形となった。
彼女と踊りながら、たわむれに睦言の一つや二つ囁けばあっという間に堕ちた。
「キッソン侯爵さま……」
夜会がお開きになっても惜しむように彼にしがみつき、離れたくないとさめざめと泣く。
本来のジドレル・キッソンならばこのぐらいたやすい。彼が本気を出せば、どんな女性も思いのままだ。
だからきっと、セフィーヌ・フラゴニアという女性はジドレルの魅力がわからない『頭のおかしな女』なのだ。
――わからないのなら、わからせてやろうか。
若い令嬢をあと腐れのないようになだめてから保護者に返し、ジドレルは一人で帰りの馬車に乗り込んだ。
馬車では天井からぶら下げられた照明が頼りない光を放っていた。深夜の空には月も見えず、星もない。
――何百人といる彼女の『失恋相手』に劣っていると?
――まさか。
無性に腹が立つ。ジドレルはセフィーヌ・フラゴニアに虚仮にされたのだ。彼の山より高い自尊心がそれを許さない。
そもそもジドレルが『失恋姫』に会ったのは今晩だけではない。
ハルドンパーク。
マゴット伯爵家。
王宮。
そして今夜の社交場。
四度も彼女の前に現れたのだ。それに気づいていなかったとは言わせない。今日などはわざわざ彼女のためだけに微笑みかけさえしたというのに!
まさか。彼だけが躍起になっていたと?
存在を認識すらされていなかった?
ジドレルは揺れる馬車の席で両腕を組み、夜より深い黒の眼をゆっくり開き、左手で自分の唇を撫でる。
――待っていろ、『失恋姫』。
――そのうち、いやがおうでも忘れられない男になってやる。
【気まぐれ人物紹介】
ジドレル・キッソン
ヒーロー枠のはずだが、たまに作者が全力で投げたくなる。
全身色気モンスター。自覚有りだからたちが悪い。
なお、キッソン家は複数爵位持ちで、「侯爵」といえばジドレル、「公爵」だと父親を指します。
実は「キッソン侯爵」と名乗っても、それは便宜上で、侯爵位自体は別のお名前です。