夜会上
「うちの妻を誘惑してくれるな」
紳士淑女がさざめく社交場。主賓の一人が人目を憚るようにして苦情を付けてきた。
会場の端に用意された椅子に座っていたセフィーヌは斜め前で彼女の父と談笑している男の背中を見る。
男はセフィーヌに背中を向けたままで言う。
「この間、君が贈った本に彼女は夢中になっている。夫の僕が話しかけているにも関わらず、ベッドでごろごろしながら本を開いているのだ」
「はあ」
気に入ってもらえたのなら嬉しいな、としか思わなかったセフィーヌ。わざわざ父を隠れ蓑に使ってまで文句を言われる理由がわからない。
「はあ……じゃないぞ! これは家庭の危機なのだ! 一家の……ひいてはこの国の根幹をなすべき夫妻の仲に亀裂が入ったらどうしてくれる!」
男と真正面から向き合う形になったセフィーヌの父の顔がみるみるうちに青くなっていき、セフィーヌにしきりに目くばせを送ってきた。
目くばせ。……そんなに察しのいい娘だったら彼も苦労はなかっただろうに。
しかし、セフィーヌ。父親からの合図自体には気づく。なるほど、と納得。
「殿下は仲間はずれが寂しかったのですね。でも大丈夫です。今回は同じ内容のものを二冊用意してお渡ししていますから、殿下もすぐにお読みいただけますよ!」
「結構だ!」
あぁ、と父はため息。形こそ王太子殿下とお話しできる栄誉を預かっているが、その実、娘が一方的にお叱りを受けているだけなので栄誉もなにも、ただただ恥ずかしさが増すばかり。
自分の娘は世界一可愛い。けれど淑女としては落第点もいいところ。王太子にふん、と鼻息荒く迫られるのは世界中を見渡したって娘ぐらいのものだ。
「そうですか。仕方がありませんね……。ところで妃殿下は今どちらに?」
正装の王太子は今度こそ振り返り、不機嫌そうに、
「君……厚顔だとか無神経だとか言われていないか?」
「えっ、殿下、どうしてそれを」
「だろうな。……君の大好きな妃殿下はダンスの時間だ。ほら、あそこ」
王太子の示す方向に視線を滑らせれば、フロア中央で優雅にターンを決めている王太子妃の姿があった。本人の資質の問題か、大層周囲の注目を浴びており、逆に地味で評判の王太子に目を向ける者はほとんどいない。
彼女がまとうシュミーズドレスは、母国から彼女が流行を持ち込んだもの。回るたびにふわりと裾が流麗な軌跡を描いて足元に戻っていく。
自身も同じ型のドレスを着ていたセフィーヌだが、彼女がほかの女性陣に埋没してしまうのに比べ、肉感的魅力に溢れ、濃い金髪に空色の瞳を持った女神のような王太子妃の美貌はたしかに社交界の中心たるにふさわしい風格を持っている。
セフィーヌはうっとりと見とれてしまった。ディー、とってもきれい。
「……あれを見て、何か気になることはないか?」
王太子がセフィーヌに試すような視線を寄越す。今日初めてまともに目が合ったセフィーヌは「相変わらず素敵な方ねえ」なんて思いつつ、少し真面目に考えてみた。
ぐぐぐっ、と首が傾げていく。あれ、つい先日同じようなことを聞かれたような?
「……『殿下の奥様、とってもきれいですね』?」
「それは知っている。ほかにあるだろう。最近、特定の人物が寄ってくるとかいうような、そんなことが!」
「はあ、寄ってくる……? それは不審者が出没中ということですか?」
なんて物騒な、と言いながら気合を入れて息を吸うセフィーヌだが、誰も不審者と戦う身構えをせよとは言っていないのである。
「でもあそこには妃殿下がいるだけで……あら」
「ああ、さすがに君でも気づいたか、やっと」
「殿下。あそこの周りだけやたら女性が多いようです。ほかの方が踊りにくそうにしていらっしゃいます。殿下、何とかいたしませんと」
「……君は意地でも視界に入れないつもりなんだな」
「は?」
ぶつぶつと一人でつぶやいて遠い目をする王太子。その背後で父親は顔を手で押さえ、セフィーヌにそろそろ帰ろうか、と促した。
「そうですね」
彼女が素直にうなずいたところで一曲が終わり、ダンス後の王太子妃がパートナーに連れられて夫の元に戻ってくる。
「セフィーヌさま、ごきげんよう」
「ご機嫌麗しゅう。妃殿下」
セフィーヌは椅子から立ち上がり、しっかりと礼を取る。
ダンスの余韻からか、王太子妃の頬は上気していた。
「こちらの催しにいらしていたのですね。会えて嬉しいですよ」
「こちらこそ、ご挨拶できてよかったです」
女性二人が会話を交わしている隣で、男性三人が握手をして、たわいもない雑談をしている。
その雑談中、彼女の父は汗のかき通しであった。彼はこの時初めて娘に迫る魔の手を認識する。適当なところで辞去の挨拶を言い、セフィーヌの手を引きながら会場を後にした。
彼女は不思議そうな顔をしながらも上機嫌。馬車の中でもにっこにこ。
「そんなに楽しかったかい、セフィ」
「うん。ダンスが好きじゃないお父様が一緒に踊ってくれたのが嬉しくて」
これを言われてそれこそ嬉しくならない父親はいなかった。
それに彼女にとっても父親はセフィーヌの初恋。今もセフィーヌを大事にしてくれる大好きな人だったのだ。しかも、父親と催しに出るのも久しぶりとなれば、多少の違和感は放っておくぐらいに浮き足だっていた。
うふふふふふふ。
あくまで彼女にとって、今日はとてもいい日なのだった。