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招待下

 廊下といくつかの部屋を通り過ぎてからやっと本来の目的地まで来た。女官が来訪者の名を告げてから、通される。


 重そうな扉が開くと、そこには白い毛足の長い猫がセフィーヌを見つめている。片眼は彼女と同じ緑で、もう片方はオニキスのような黒のオッドアイ。ひらべったい顔をしていて、どことなく愛嬌があった。『彼女』はそのまま「にゃあ」と啼く。


 セフィーヌも釣られて、「にゃあ」と答えて、カバンは脇に挟み込み、猫にしては少々でっぷりした身体を持ち上げる。わきの下で持ち上げられた猫は髭をひくひくさせるも、さして抵抗はなかった。


 その後ろで扉の閉められる音がする。セフィーヌは猫とじっと目を合わせつつ、ゆらゆらと揺すり、「……太ったわね」と渋い顔を作った。


「その子、本当に運動が大嫌いなのよね。全部なされるがままで、痛みを感じた時だけ噛みついてくるのよ」


 真っ白な腕が伸びてきて、猫がセフィーヌの手を離れた。赤ん坊のように愛猫を抱えている金髪の女性がナイトドレス姿で微笑む。


「待っていたわ。いらっしゃい」


「ディー」


 セフィーヌも満面の笑みを浮かべた。間に挟まった猫がにゃあ、と啼いて手足をばたばたし始めると、友人は応接セットの横に設置してある猫用の小さな座椅子に猫を横たえる。猫はそこで身体を丸めた。


 彼女の友人、ディー。公式の場では正式な名を使うが、二人きりの時は互いに「ディー」と「セフィ」と呼び合う仲。「セフィ」はセフィーヌの略で、ごく親しい間柄の友人や家族のみ使っている愛称だった。


 つまりは。


「ねえねえ、聞いて、ディー。また振られてしまったの! もう999回目だわ!」


「あらあらまあまあ」


 こんな会話も交わせてしまうほどの仲良しだということだった。辛いことがあったら親身に話を聞いてやり、泣いてしまったら抱きしめて慰める。公にはあまり知られていないが、あまりにも仲がよすぎるために、ディーの夫はセフィーヌに嫉妬するほど。


 とはいえ、年上の親友に頼り切りなのはほぼセフィーヌの方だった。会うたびに彼女の失恋報告を辛抱強く聞き、いつも恋の成就を応援してくれている。


 そんなセフィーヌの親友は今日も彼女に向かって大きく両手を広げ、彼女の身体をぎゅっと抱きしめた。いつものように。


「今度はなんと言われてしまった?」


「故郷に恋人ですって!」


「それは仕方がないわねえ」


「うん。でもサイクリングは楽しかった!」


「そうなの」


 セフィーヌの「でも」は何の脈絡もない「でも」であるが、親友はそこにどうこう言うことはない。彼女も慣れている。


「そういえば自転車を買ったと言っていたわね。もう乗りこなせているの?」


「うん。この間もハルドンパークをすいすいっと走っていたわ」


「さぞ気持ちよかったでしょうねえ……。いいわねぇ。きっと王室のしきたりがなかったら私もセフィと乗りに行っていたわね」


 友人と二人でハルドンパークをサイクリング。そう考えるだけでセフィーヌはうきうきした。けれど「しきたり」のことを思い出すと気持ちが萎む。


 親友はセフィーヌの想像以上に色々なものに縛られているのだ。


「……そんながっかりしたような顔はしないのよ、セフィ。ほら、笑って」


 ディーはセフィーヌの頬を両手で軽くつまむ。強制的に口角が上がった。


「いひゃい」


「ふふ」


 友人は手を放して、彼女に席を座るよう勧めた。応接セットの横では我が物顔で座椅子に昼寝する猫もいる。


 テーブルにはすでに湯の入ったポットやカップ、お菓子もおかれていた。


 部屋の主は手ずからセフィーヌのカップに紅茶を注ぐ。ふわりと茶葉のよい香りが広がるが、セフィーヌはそれよりも白くて薄い作りのカップの透徹とした美しさに見入る。縁には金でツタ模様をあしらっているだけのシンプルなデザインなのだが、かちゃりとカップとソーサーが触れ合う音までも澄むようだ。


「カップの底には王室の紋章も描かれているの……綺麗でしょう」


 カップを持ち上げたセフィーヌは素直にうんと呟く。


「こういうの……好き。とても」


「これは私が後援していた陶磁器メーカーから贈られてきたもので、今後グロットリにも流通すると思うわ。デザインと使いやすさを追求したのですって。陛下にお伺いしたら、すぐに王室でも使用されることが決まったの。……セフィには私が個人的に注文したものを一セット贈ろうと思って。もちろん、こちらには王室の紋章なんてないから安心して」


 あとで届けさせるわ、とディーは言って、カップに口を付ける。


「……本当にもらってもいいの?」


「そうよ? 日頃のお礼だもの。……いつも助けられているから。それにしてもセフィ」


 ディーはにこりと笑って、ぐっと顔を近づけた。


「そろそろもったいぶらないでそのカバンの中身を見せて? 『新刊』、なんでしょう?」


 座るときに膝の上にのせていたのをすっかり忘れていたセフィーヌは慌ててカバンを開ける。出てきたのは二冊の本。一つはとてもしっかりした作りで、赤い表紙に金文字が入っており、もう片方は粗雑な紙を使っているが持ち運びしやすそうなほどに小さい。


 それをディーに差し出しながら、


「今回は同じ本でも二種類で出版することになったの。赤い表紙はいつもの色付き挿絵が入っているもの。もう一つはそれよりも安価で作った廉価版ですって。この大きさにしたのは鉄道の旅の暇つぶしとして持っていけるように……だったかしら」


――いいですか、お嬢様! 今は庶民も鉄道で旅ができる時代です! これから消費が伸びてくるのは間違いなく一般階層なので、わが社でもこの『鉄道文庫』に進出することにしました! 栄えある第一弾こそ、この『ケイン・ルージュ』の新作ですよっ。


――庶民は天上人の世界に憧れます! 現役貴族令嬢が描く社交界小説は、絶対に世の女性の心をがっちり掴みます! さあ、先生、今後とも頑張りましょう……我々の収入のために!


 セフィーヌの脳裏に、『ケイン・ルージュ』の新刊を新しい商売方法の実験台にした編集者が現れる。嬉々として語る髭面。


 勝手にすればいいと思った。


 親友は膝の上で赤い表紙の本をぺらぺらとめくる。空色の瞳が柔らかく笑む。


「ベトヴェン氏の商売気の強さは相変わらずそうね。……でもやっぱりあなたの話はいつも面白いのだから、彼も気合が入ってしまうのでしょう」


 彼女の白い指は主人公と相手役の男性が仮面舞踏会で出会う場面の挿絵をなぞる。この時、二人は恋に落ちた……ように見えた。


「またじっくり読んでみるわ。ありがとう、セフィ」


 ばたん、と本が閉じられ、彼女はガラス張りの本棚の戸を開けて、二冊の本を仕舞う。


 それから二、三の世間話をしていたところで女官たちが「王太子妃殿下、お召し替えの時間です、と言いながら入ってきた。


 ディー……王太子妃テレディアナはすくっと立ち上がる。


 優しさだけを湛えていた瞳が品性と厳粛のベールに隠れた。堅苦しいのは面倒だと言って身にまとったナイトドレスもすぐに脱ぎ捨ててしまうに違いない。


「申し訳ないけれど時間のようです、セフィーヌさま。有意義な時間をありがとう」


 セフィーヌも立ち上がり、腰を落としたまま王太子妃が差し出す手の甲に形ばかりの口づけを送る。


「いいえ。滅相もございません、妃殿下」


「またいらして」


「呼んでくださるのなら」


 月に一度だけの奇跡のような時間はあっという間に終わる。他人が入ってきた時点で、二人はただの「ディー」と「セフィ」ではない。テレディアナ王太子妃とフラゴニア辺境伯令嬢としての本来の距離感に戻る。


「あ、そうでした、セフィーヌさま」


「はい?」


 隣接の衣裳部屋に入ろうとしていたテレディアナが思い出したように振り返った。


「最近、何か気になることはございましたか?」


「いいえ? 特に何も。何かございましたでしょうか」


 王太子妃は答えなかった。


 セフィーヌは王太子妃の私室を辞去した。


 帰りがけの友人の顔は何か面白いことがあったような感じだったが、セフィーヌには何のことかわからない。


 首を傾げながら歩いていれば、さきほども通ったギャラリーに差し掛かる。今度はさきほどの比でないぐらいに女官たちが一か所にひしめき合っていた。おかげで彼女は通り抜けられそうにない。


「……困りましたね。申し訳ございませんが、少々お待ちを」


 案内していた年配の女官が近くにいたほかの女官たちに小声で注意して、かきわけながら人が通れるだけのスペースを作り出していく。


 セフィーヌが立ち止まってその様子を眺めていると、ふいに群れの中心が割れ、男女が現れた。取り巻く女官たちから察するに、彼らの美男美女ぶりを賞賛していたらしい。


 なるほど。などと思いつつ、セフィーヌは中央にいた女性へ礼を取り、ギャラリーの端によって頭を下げる。


 コツコツコツ……。


 王女殿下のハイヒールの音がセフィーヌに迫る。ドレスの花柄の裾が見え、少し顔を上げれば、連れの腕に自らの腕を絡ませた王女の、己の勝利を確信したかのような会心の笑み。セフィーヌにちらっと視線を向けたかと思えば、隣にいる男へ贈り物が欲しいとねだり、彼女をまるっきり無視して歩み去っていく。


――お前なんてお呼びでないわよ。


 そんなことを言いたげな顔だった。


 しかし、セフィーヌは身に覚えがない。初めて会った時から一方的に目の敵にされているが、少々どころかほとんど話した覚えもないのである。しかし、今回は睨みつけられたわけでもなく、意味ありげな微笑みを向けられてしまった。その理由がわからない。


 やたら上機嫌だったなあ、という感想しか抱けないのであった。


 やっぱりよくわからない。




「……ん」

「ジドレル? 今度はどこの女性に目を向けていらっしゃるの?」

「まさか。今私は目の前のあなたしか見えていませんよ、殿下」

「そうですわね。……ええ、あなたはそうすべきですわ。あなたのために」

「……」


妃殿下の猫はきっとペルシャ猫。

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