夢と秘密
訪問着に着替えたセフィーヌは馬車に乗り込んで向かったのはいつぞやの社交場。しかし今までの催しではあまり使われていないような、天井の低い広間に連れ出された。
奥には白い布が天井から床に垂れ下がり、その前にはテーブルと向かい合わせの二脚の椅子。ほか、曲木細工の椅子が四十脚ほど規則正しく並ぶ。
「夫人から連絡があってね。『赤薔薇の誘惑』はここでやることに決まったんだそうだ。簡易的だけれど観客席や舞台も作ってある。右脇には楽器の演奏者の席があって、演奏者がいる後ろの衝立で役者は出番を待つんだ。……出番が来た役者はここに立つ」
侯爵は観客席より一段高く設定された舞台の上に立つ。セフィーヌも上がってみた。役者の気分で観客席を見回してみる。
椅子に座った観客を役者は見下ろしているような高さだった。
きっとこの芝居が楽しいか、つまらないか、まるわかり。でも、観客がどんな反応をしようとも芝居が始まれば終わるまで続く。ここに立つ限りは、ずっと観客に全身を眺められる。
とても怖いとセフィーヌは思った。
「先生はここに立つ時、緊張とかされませんか?」
「しないね」
ちらっと侯爵は彼女を横目で見て、
「……訂正する。緊張はするよ。ただ単に人前でどうこうするのは得意だが、今回は特別だ」
「そうなんですね」
「そうだ、少しだけここで演じてみせようか」
「いいんですか」
「もちろん」
侯爵は舞台上にあった椅子を引いた。セフィーヌに座れということらしい。
ちょこんとセフィーヌは椅子に収まった。行儀のいいリスのようである。
ジドレルはテーブルについたセフィーヌを『ジュリエッタ』に見立てて、芝居の一幕を演じる。ガラス玉のようなエメラルドグリーンの視線が彼の全身に突き刺さり、手先が震えるほどの喜びを覚える。末期症状だった。
切りのいいところで終わり、ジドレルも反対側に座って足を組めば、いかにも絵になる光景であった。
「どうだろう、少しは創作意欲が湧いてこないか?」
うーん、とセフィーヌは考えた。侯爵は筆の進まぬ彼女を心配してここに連れてきたらしい。気持ちはとてもありがたいけれど。
進まないものは、進まない。
「駄目か」
ジドレルの眉がひそめられる。何だか申し訳ない気がしてきた。
「ごめんなさい。せっかく先生がここまで連れてきてくださったのに」
「いや……」
別にそんな顔をさせたかったわけではないのだが。口に出さないまでもジドレルは思い、別の話題を振る。
「そういえば以前から気になっていたが、君はどうして小説を書こうと思い立ったんだ。普通の令嬢ならなかなかそういう機会に恵まれないんじゃないか?」
「そんなことはありませんよ」
機敏な反応をしたセフィーヌは微笑みを浮かべて侯爵に向き合った。彼の胸がどきりと高鳴る。
「隣のファルセットにも女流作家が何人もいることは聞いていましたし、面白い小説を読んで、自分もこんな話を書きたい、自分ならこういうふうにするのに、と思うことはわたくしにとって自然なことでした。最初は何度も読み聞かせてもらうぐらい気に入っていた本が悲しい結末で終わってしまったことに我慢ならなくて」
面倒を見てくれていた使用人たち、特に読み聞かせを担当していたキヤに随分と詰め寄ったものである。
わたくしなら絶対にこんな結末にしないのに!
「今となれば作家の主張のためにあんな結末にしたものだとわかりますけれど、当時は勝手に別の結末を付け加えて、当の作家に抗議文めいたものを送ったこともあるぐらい」
後で両親にこっぴどく叱られたけれど、とセフィーヌは付け足した。その思い切りの良さと行動力は当時も今も変わらぬようである。
「わたくしはそうやって書く事を覚えて……何年か経って理解してくれる方が現れて。その方が出版社の編集者を紹介してくださって、今に至っています」
饒舌に語ってしまったセフィーヌは内心、大丈夫かなと思いつつ侯爵の様子を伺う。意外にも嬉しそうな顔をしているのが不思議で仕方がない。
「『ケイン・ルージュ』というペンネームはそのころに?」
「そうですよ」
「その理解者というのは……男?」
以前、夫人から聞いた話を思い出しながらジドレルが確認のために問えば、彼女は首を振る。
「違いますよ。……テレディアナ王太子妃殿下です」
「なるほどね」
レウレスが醜い嫉妬心を燃やしているわけだとジドレルは納得した。ただの女友達よりよほど強い絆で結ばれているではないか。
「あ。先生、ディーに迷惑がかかるかもしれないので、このことは内緒ですよ」
「わかったよ」
セフィーヌを安心させるように、ジドレルは唇に人差し指を置く。
「二人の秘密だ」
すると彼女は下向きにふふ、と笑った。
「先生がおっしゃるとなぜかとても意味深に聞こえます。退廃や淫靡、快楽の匂いがしてきますね」
二人の間には何か事情があるのではないか、と思わせるような。『ジュリエッタ』が『ヴィンセント』と言葉を交わした時も、彼女はこんな気持ちになったのだろうか。
「お望みとあればいくらでも『それなりの振る舞い』をしようか? 君ならぐずぐずに溶けてしまうぐらいの甘いやつをね」
セフィーヌの頬に手を伸ばそうとすれば、ふいっと背けられてしまった。
「駄目ですよ。それは恋人同士か夫婦でやるものです」
ジドレルは苦笑して手を引っ込めた。不意をつこうとしない限り、触らせてはくれないらしい。
「なら次の機会に期待しよう。そうだ、君が一つ秘密を明かしてくれたわけだから、私も自分の話をしてみようか。何がいいだろうな」
「先生なら面白い話の引き出しはたくさんありそうですが……。遠慮なく聞いていいなら」
「どうぞ」
彼女は小さく息を吸い込み、強い意志を秘めた瞳が近づく。
「先生が考える恋や愛って何ですか」
「……と、いうと?」
どういう思考が働いたのかわからないが、胸の痛くなる質問である。しかし、本人はどこまでも本気なのだ。
「だって先生は簡単に『愛している』と口にできるではありませんか」
「それは君も似たようなものだろう。手紙でも「あれが好き」、「これが好き」と散々使っていただろうに」
「『好き』よりも『愛している』というほうが言葉が重いですよ。だからわたくしは『好きです』とは口にしても『愛してます』は言えません。同じ言葉は使えば使うだけ価値が擦り切れていく気がしませんか?」
だから小説でも特別な理由がない限り、ここぞという場面にしか使わないのがセフィーヌのポリシーである。
一方のジドレルは思わぬ批判に面食らった。
――だからあなたの言うことは信用できません!
そう、横っ面を叩かれたと解釈していいのだろうか。
「その説には全面的には賛成できないな。人によっては言えば言うだけ喜ぶ人だっている」
「だったら先生はたった一人の相手に気持ちを伝える時、躊躇することはありませんか? 特にずっと心に秘めていて、初めてそれを相手に示す時、何の緊張もないと思いますか? ――わたくしなら、とうてい軽い口調では言えません。他の人に対するのと同じ言葉で伝えられないと思います。……先生、わたくしの言うことは間違っていますか?」
「いや、間違っているとは思わない」
けれども彼女がそう言うのだから、ジドレルがどれだけ愛を囁いたところでやはり信用はしないのだろうと直感する。
伝えたい気持ちがまっすぐ届かないのなら、どれだけ言葉を尽くしたところで何も為せない。
「わたくしは一応、恋愛小説を主に書いていましたが、恥ずかしい話、今まで人から聞いた話や想像、あとわくわくする気持ちだけで話を作っていました。だからこそ頭のどこかで『恋』って何だろう、『愛』ってなんだろうと考えてしまいます。確かに『恋』そのものはわたくしも積み重ねてきましたが、思いはいつも一方通行ばかりです。本当のところでどういうものか、わかっていないのかもしれません。……先生ならきっと別の答えをお持ちではありませんか」
経験豊富さを買われて、疑問をぶつけられたようである。とはいえ、彼にも難題を突き付けられた形だ。彼自身も本当の意味で恋や愛を意識した相手はセフィーヌが初めてなので、胸を張れるような金言は持ち合わせていない。
無論、言葉で答えるだけなら幾通りも方法はあるが、セフィーヌはそれで納得しない。納得しなければ意味がない。まして、何人もの相手に「愛している」と囁き続けてきたジドレルの言葉に説得力は皆無だ。
だったら行動すればいいかと思うが、それはすでに失敗するのが目に見えている。泣かせてしまったらますます心は遠ざかり、「先生」として築き上げてきた信用が一瞬で崩れる。
だが悠長にしているうちに彼女は千一番目の恋をどこかで見つけてくるかもしれず、それが再び破れる保障はないし、破れてひっそりと傷つくのだろうと考えるのも嫌な話だ。
それにしても酷なことをする。まがりなりにも愛を告げている本人に対して愛を尋ねてくるとは。
彼女が何をしたいのかわからないが、きっと彼女にとっては重要な問いなのだろう。
だったら彼も真剣に答えを出さねばなるまい。そうすることでやっとセフィーヌと向き合える気がする。
「それはしばらく宿題にさせてもらおうか。考えてから、君に返答してみせる」
ジドレルが捧げる「恋」や「愛」について――。
一方のセフィーヌはちゃんと話を真正面から受け止めてもらえたことがとても嬉しかった。我ながら馬鹿な質問をしたものだと思うけれど、それにちゃんと付き合ってくれた人は少ないのだ。
華やかな貴公子でもあるけれど、根までいい人だなんてもはや無敵だ。
彼女は何気なく、誉め言葉のつもりで、
「先生は本当に『ヴィンセント』が似合っていますね!」
と、口にしかけ、ふいに本当にそうだったのかもしれないと思いなおした。だったらセフィーヌにとっての『赤薔薇の誘惑』というのは。
眩暈がしてくる。以前、「『ヴィンセント』と先生が似ている」と発言した時、何かが引っかかった気がした。
でももしも「そう」だとしたら……。
セフィーヌの中で残りの脚本の流れが組みあがっていくのだが、そのことが何を示しているのかわからない。
――どうして、あの時のわたくしは「ジドレル・キッソン」を『ヴィンセント』のモデルにしようと思ったのかしら。
波間の花のようにそんな悩みが頭で漂う。
……でもやっぱりわからなかった。




