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口づけの距離

 セフィーヌが脚本を最後まで書き終えるまでひとまず以前の脚本家が仕上げた部分だけで練習することになったと夫人が教えに来てくれた。夫人が午後のフラゴニア家を訪問した時のことである。


「実はちょうどまた演出について意見を聞きたいことがありますので、よろしかったら稽古に来ていただけません? きっといい気分転換になりますよ」


「それはいいですね。参ります」


 セフィーヌは笑顔を作る。


「シーレさまはいらっしゃるでしょうか?」


「次の練習はお仕事が入ってお休みだそうですよ。ただ衣裳のことは色々と考えていらっしゃるようでしたね」


 シーレ氏は割り当てられた役ともう一つ、美術関連に携わるということで、衣裳の方にも関わっているらしい。

 夫人はこんな話をしてくれた。


「今回は、それぞれの方がもっていらっしゃるドレスや服などに舞台に映える飾りをつけたりなさるのだとか。なんでも舞台と観客の距離が近く、また原作もちょうど社交界のことを取り扱うからと」


 最初は疑問に思う方もいらっしゃるようでしたけれど、と夫人は楽しそうに肩を揺らした。


「試しに私のドレスをその通りにアレンジしていただきましたが、かなり悪女感が増しました。娘時代に着ていた深緑色のドレスなのですが、裾のリボンを取って、黒いフリルをつけて、襟ぐりのあたりを大胆に切り取っただけなのに。あれは大した手腕でしたよ」


「へえ」


 夫人の役は『赤薔薇の誘惑』の中では最大の敵とも言える人物だ。さぞや妖艶だっただろうと想像するだけで、笑顔が止まらなくなりそうになる。


「彼の中には役のイメージがすでに全部あるのでしょうね。ほかの方にも常に礼儀正しく接していましたし、私の見込みは間違っていなかったように思います。――だからセフィーヌ様、この芝居が終わったらシーレ卿と婚約してしまいましょう」


 夫人の決断は素早かった。もうそこまで、と驚くぐらいに縁談話を進めてしまうのも、彼女の手腕の賜物である。

 なお、セフィーヌの両親は「もう娘が片付いてくれるなら何でも……」という悟りの境地に至りつつあるのだが。


「こ、婚約ですか? もうそこまでお話が進んでいるのですか! シーレさまはそれでいいとおっしゃいましたか?」


「そこはつつがなくすみました。シーレ卿はセフィーヌ様に好感を抱いていますし、すべては順調ですよ」


 なんてこと。セフィーヌは思わず立ち上がり、夫人の手を握る。


「夫人、ありがとうございます。わたくし頑張ります。きっと旦那様を一番に愛するいい奥方になります!」


 ああ祝福の鐘が鳴り響く。セフィーヌの脳内で。

 やっと見つかった、セフィーヌを一番に愛してくれる殿方を。

 諦めないでいてよかった!


「今度シーレさまに会った時にまた色々とお話を伺いたいと思います!」


「……告白も?」


「します!」


 セフィーヌの反応にころころと笑う夫人。ふと憂いの目になった。


「ならそろそろキッソン侯爵の役割もこれで終わりですね」


「え、あ……そうですね」


 夫人の発言の意図がわからずにセフィーヌは困惑した。


「いざこうなってみると、不思議と可哀想な子のように見えてくるのはずるいこと……ああ、ごめんなさいね。これは独り言ですから」


「先生は可哀想……?」


 今なら言ってもいいかもしれないですね。夫人はそう前置きしてから、


「彼はもう少しで自分の愛に気付けるところまで来ているのですよ」


「先生が?」


 セフィーヌはかつて聞いたあの言葉を思い出す。


『君がもう少しだけ大人になって。もしもまだ私のことを好きでいてくれたのなら。……私を全力で誘惑しておいで。そうしたら私も本気で人を愛せるかもしれないから』


――なんだ。先生にも本気で愛せる誰かが出来たのね。


 納得すると同時に、セフィーヌの中で『先生』の存在がすこんと抜けていく。手紙を通じて色々頼れていたけれどこの関係も終わりを迎えるのだ。セフィーヌはシーレ氏と結婚するし、先生は先生の愛する人と一緒にいるのだろう。


 それは寂しいことだけれども仕方がないことであった。なぜならセフィーヌを振ったあの時から、ジドレル・キッソンという人はセフィーヌ以外の誰かのものになることが決まっていたのだ。


 いつだってそうだ。

 好きになった人は皆――セフィーヌ以外の誰かを一番に据えるのだ。


 でもセフィーヌはそれでも平気。今はシーレ氏がいる。彼がセフィーヌを愛してくれるのなら、ほかの人からの愛がなくたって平気なのだ。


「わたくし、先生にはお世話になりましたし……先生の幸せを願っています、本当に」


「ええ、願いましょう」


 夫人も同意する。

 セフィーヌ・フラゴニアとジドレル・キッソン。

 互いが互いに別々の方向を見ているのだからきっと二人の間には何も生まれないのだろう。キッソン侯爵の方はともかく、セフィーヌは侯爵を恋愛対象として見ようともしていない。


 そしてジドレル・キッソンが愛に目覚めた時こそ、彼の苦しみの始まりだろうか。


 心が痛まないわけではなかったが、これもまたありふれた現実というものだ。


 さて、と夫人は頭を切り替え、別の話題に移った。こうして何事もなく午後の訪問を終えた。




「やっぱり口づけをするなら、本物であるべきでしょう? キッソン侯爵となら舞台上の口づけなんていくらだってしてもいいわね。別にいいでしょ、だって脚本にそう書いてあるのだもの。とびっきり濃厚なやつってね!」


 周囲の人間たちの総意は「困った」、この一言に尽きるだろう。王太子妃ばかりはにこにこしているが、どことなく表情が仮面めいていて不気味だ。


 はちきれるようなみずみずしい身体を露出の高いドレスで覆ったエランジェ王女は、赤い髪と兄と同じ茶色の目を持った背の高い美女である。グロットリのルビーといえば彼女のこと。夜会の女王、自由すぎる王室の蝶というあだ名もあるのだが、ここからもわかる通り、多くの男と噂のある女性だった。セフィーヌよりほんの二つ三つばかり上なのだが、その色気はセフィーヌと比べるまでもない。さしずめ、女版のキッソン侯爵というべきか。


 そんな彼女は練習に参加しはじめた途端、キスシーンばかりやりたがる。魂胆が非常にわかりやすい。


「さすがに王女殿下にそんなことはさせられませんし、披露するのは私たちの知り合いばかりなのです。濃厚な口づけをしてしまえば、その場がしらけるか、卒倒するご婦人方が続出します。芝居の内容に目がいかなくなってしまいますのは本末転倒というものでしょう」


 夫人が王女を止めている。しかし王女はノリノリで侯爵に迫っているし、侯爵はのらりくらりと口づけの誘いを退けている。


 夫人がセフィーヌに相談したいと言った問題は口づけの演出だった。


 素人芝居とはいえ、参加するのは貴族たち。それも口づけをするのは侯爵と王女だ。極力ゴシップの種にならないように配慮するのも仕方のないことだった。


「それに以前役者のものに話を聞きましたが、口づけのシーンを全部抜くこともあったそうですよ」


「あら、恋愛ものの舞台なのに口づけのシーンを無くすわけにはいかないでしょ。わたくしがやると言っているのに。夫人、あなたみたいな古臭い考え方は好きじゃないわ」


 古臭い古臭い。王女はからかうように繰り返す。さしもの夫人も扱いかねたように不穏な視線を向けていた。


「これは私たちの品性と解釈の問題ですね。この芝居に果たして本物の口づけが必要なのかどうか。ただ達者な演者というものは呼吸一つで恋を表現できるとも聞きますね」


「あらお義姉さま、いらっしゃったの」


 穏やかに口を挟む王太子妃にもこの調子であった。しかし王太子妃はここでむやみに感情をあらわにすることはなかった。代わりに親友に水を向けたのである。


「セフィーヌさまはどう思われます?」


 一斉に視線を向けられた彼女は少し考えて、このようなことを言った。


「しているか、していないか。想像力をかきたてる方が大事なのではないでしょうか。そうですね、例えば……夫人、これお借りしますね」


 セフィーヌは夫人から青い扇子を借り、たまたま隣にいた人物に協力を求めた。


「キッソン侯爵さま、失礼いたしますね」


 手袋に包まれたセフィーヌの手が侯爵の肩に伸びる。触れた途端にびくりと震えたが、構わず引き寄せ、セフィーヌと侯爵の顔が近づいた。


 侯爵にとって自分の肩に触れる手は何よりも強い束縛となった。知らず息を呑む。エメラルドグリーンの海に深く潜り込むように。やがて頭は真っ白になった。



 二人はいよいよ口づけしているような距離感になったが、その口元は見えなかった。広げられた扇が観客へのへだてとなっているのだ。


「ジュリエッタは慎みのある女性です。初めての口づけでも誰かに見られるのを恐れてこうしていてもおかしくありません」


 実演を終え、ありがとうございました、とあっけなく侯爵を解放する。侯爵はなぜか口元を押さえていた。


 セフィーヌは皆の顔を見たが、話に納得する一方で彼女に気遣わしげな視線を送る者もいる。


 そして気づいた。王女がこちらを射殺しそうなぐらいに睨んでいた。どうやら今までにないぐらい恨みを買ってしまったらしい。


 別段本当に口づけをしたわけでもないのに、とセフィーヌは思う。


 だって、本当の口づけは……とっくに。



 結局口づけの演出はセフィーヌの意見が通った。練習の見学を終えた彼女が帰ろうとすると、隣に侯爵が並ぶ。


「これを」


 セフィーヌの手に握らせたのは手紙。数日前に出したものの返信だった。


「わざわざありがとうございます、先生」


「いや」


 それから彼は物言いたげな顔になった。やがてセフィーヌの耳元に顔を寄せ、


「君は相当ひどい女だ。期待させておいて、簡単に手のひら返しをする。心臓がいくつあっても足りないな」


 何かの冗談だと感じたセフィーヌはくすくす笑った。


「先生に何かを期待させることができたのならわたくしにとっては大きな成果ですよ。今後の自信に繋がります」


 男の雰囲気が硬質化する。


「シーレ氏に告白するつもり?」


「もちろん。できればすぐに」


 実はもう顔合わせの名目で明後日、二人だけで会う約束も付けてあった。それを侯爵はまだ知らない。


「先生。わたくし、幸せになります。旦那さまに世界で一番愛される花嫁となります。応援してくださいね、先生」


 ジドレルは目が眩む思いがした。


 ひどい女。

 残酷な女。

 鈍感な女。


 花嫁姿のセフィーヌの隣にシーレ氏が並ぶ光景が脳裏をよぎる。結婚の誓い、そして口づけ。それを祝福する自分。


 ありえない。

 ジドレルがいるべき位置はそこじゃないのだ。彼が、本当に望んでいることは。


「わたくし、先生の幸せも祈っていますよ」


 はっと我に返れば、セフィーヌが健気に微笑んでいる。


「以前は色々ありましたけれど……。償いはきちんといただきましたし、今さら恨んだりするつもりもありません。怒ったり、恨んだりし続けるのは疲れてしまいますしね」


 だから先生も幸せになってください、と彼女は告げた。


「わたくしが言うのも説得力がないかもしれませんが……そうですね、これは『ケイン・ルージュ』の余計なお節介として言いますけれど……先生は、これぞという方を見つけたら絶対にその手を離しちゃだめですよ。心が動いたと思ったら自分から捕まえにいかないと、もう二度と手に入らないかもしれませんからね」


「……君が恋に全力なのはそういうわけか」


エメラルドグリーンが大きく見開いた。


「そう言われればそうかもしれません!」


呑気に頷く「教え子」はかなりの鈍感仕様ときている。セフィーヌの緩みきった顔を見ていると、ふつふつと苛だたしい気持ちが募ってきた。無性に困らせてやりたくなる。


「セフィーヌ」


「はい?」


彼はセフィーヌの手を掴む。


「握手ですか?」


 彼女も握り返した。だが握手はいつまで経っても終わらないのである。セフィーヌがもぞもぞとし出してもジドレルは握手をやめない。


「どうかしましたか?」


 社交場のエントランス脇でひたすら握手し続ける二人を見咎める者はまだ大勢いたのだが、ジドレルは気にしなかった。


「君が手を離すなと言ったから」


 からかうつもりで口に出した言葉はまるで他人事のように思えるほど切実に響いたのだった。



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