残念なる妹よ
「セフィーヌ」
「うん、なあに?」
朝食の席の呼びかけに彼女は顔を上げた。兄のカンドルは眉根を寄せていた。持病の腰痛を我慢しているみたい、と思った。
「今日出かけるのかい?」
「うん、ちょっと『ミューズ』まで行くつもり」
「僕もちょうど休みだし、ついていこうか。キヤも今日は休暇を取っていただろう?」
「いいの?」
「僕もその『ミューズ』に興味があるんだよ。なかなか忙しくて行く機会がなかったからちょうどよかった」
フラゴニア家ご用達の貸本屋は『オーマー』であった。何といっても『ケイン・ルージュ』とその編集者ベトヴェン氏の影響が大きい。
セフィーヌは久しぶりの兄との外出があまりにも嬉しかったからこう言ってのけた。
「デートですね、お兄様!」
兄は食べかけのゆで卵を喉に詰まらせた。ゴホッ、ブホッ、と咳き込みながら水で流し込む。
「お兄様、大丈夫?」
「い、いや……ちょっと驚いたものだからね」
両親や使用人を含めた食卓中の視線が矢のように突き刺さる。この中にいて、張本人のセフィーヌはのんきに兄の身体の心配をしているのだから、自分の言葉の破壊力に気付いていない。
妹の言葉の選び方は時々、実の兄をもぎょっとさせる。シーレ氏に長くご執心となってはこういう部分も鳴りを潜めていると思っていたが……。
「セフィこそ……大丈夫かい?」
「ええ、もちろん」
セフィーヌは迷いなく頷くのだが、兄も含めてその場の全員が、セフィーヌが近頃寝不足になっていることを知っているのである。部屋の明かりは夜遅くになってもなかなか消えないからだ。
そんな状態で一人外出させられるわけがなかった。
要は、カンドルはいざという時の『セフィーヌ回収係』だ。
――きっと夫人に頼まれた脚本が進んでいないのだろうな。
それぐらい、兄にはお見通しなのであった。
※
兄妹は連れ立って『ミューズ』のエントランスを通った。コンシェルジュの青年店員にセフィーヌはにこりと微笑み、
「ごきげんよう」
「い、いらっしゃいませ……」
若くはきはきとした接客をしていたはずの青年が明らかに挙動不審になった。一体何をやった。
「セフィが何かしたの?」
「ん? まったく。でもこの方、いつもこんな感じなのよ。わたくし相手だと緊張してしまうみたいで」
不思議よねえ、そろそろ慣れてくれればいいのに。
まるですっとぼけているようだが、本人は本気でそう思っている。『ミューズ』の会員の時に紆余曲折あったものの、通い始めてしばらく経つと、もうそこまで嫌われていないはず! と前向き思考になっていたセフィーヌ。彼女は性善説を信じているのである。
「ねえ、店員さん。戯曲集がどちらにあるかご存知?」
「……戯曲集といえば、二階にございます。二階にいる店員に声をおかけいただければご案内いたします」
彼はそう言って、すぐさま別の客の対応に移ってしまった。
ややあって、カンドルは隣の妹を見た。
「いつもあんな感じなの?」
「うん、大体あんな感じ」
「あまり感心しない態度だね」
「そう? わたくしはあんまり気にならないけれど」
行きましょう、とセフィーヌは兄に先を促した。
木の階段を登り、二階へ。たまたま出会った店員に場所を聞き出し、本棚の隙間を縫うようにして目的へと向かう。と――。
「見て、お兄様。あそこに先生がいらっしゃるわ」
棚にもたれかかって本をめくる男がいた。かなり真剣に文字を追っており、二人に気付く様子もない。無意識に唇に人差し指を置いているのが何とも色っぽく、その視線までもが濡れているような有様であった。
「何の本を読んでいらっしゃるのかしらね」
「さあ。ここはどうやら法律関係の書籍が置いてあるようだけれどね。……声をかけてみる?」
「やめておくわ」
セフィーヌは即答して、その場を通り過ぎた。
戯曲集が並ぶ本棚に辿り着くと、冊数の多さに驚いた。大きな本棚にびっちりと戯曲集が詰め込まれている。気が遠くなるほど古い作品から現代の新しい作品まで整然と並べられているわけだから、圧巻だ。
セフィーヌは最近噂になった芝居の戯曲集などをいくつか引っ張り出した。
「そういえばどうしてまた戯曲集を見に来たの?」
「夫人からね、書きかけの脚本をいただいたのだけれど、続きを書くにしてももう少し勉強しようかと思って。小説を書くのと舞台で上演されることを前提とした脚本だと、少し勝手が違うし……せめてね、雰囲気だけでもって……」
その間にもセフィーヌはぺらぺらと本の頁をめくっては「これも借りよう、あれも借りよう」と腕に重い本を抱えていこうとする。カンドルは慌てて止めた。
「借りるつもりなら僕が持つから」
「本当に? ありがとう、お兄様!」
お兄様は腰痛が悪化しそうな重さの本を何冊も抱えた。
二人はそれから貸し出しカウンターに向かう。
ここでも複数の店員の目がセフィーヌに集まった。
「これをお借りしたいのだけれど」
「か、かしこまりました……」
どこか及び腰の女性店員にもセフィーヌは笑顔であった。
本の貸出手続きを待っている間、手持ち無沙汰の彼女は辺りを見渡した。店員たちと目が合うとにっこり微笑み――カウンターでほかの店員たちに何やら指示を送っていた『ミューズ』本店の店長にも同様である。
「ごきげんよう」
「これはどうも、フラゴニア辺境伯令嬢。それと……」
店長の視線は隣のカンドルにも向けられる。
「兄です」
「左様でしたか。失礼いたしました」
相手の男は頭を下げるが、明らかに兄と名乗る前と後で態度が違った。あの変人令嬢の兄か――。そんな空気をひしひしと感じるのである。
「お嬢様。いつも当店をご利用いただきありがとうございます。ところで今回は何の御用でこちらまでお越しでしょうか?」
「今日は戯曲集を借りに。探すならやっぱりここが一番の規模でしょう?」
「それでしたら私どもに直接ご連絡いただければめぼしいものをお持ちしましたのに。以前お話ししたように、当店のカタログでご指定いただき、それをお持ちするサービスも行っておりますので、お嬢様のような方にはぜひともそちらのご利用を検討していただきたく」
面倒なはずの店員による本の宅配サービスを進めてくるあたり、店長の本音が透けて見える。
――できるだけ店に来てほしくないのだろうね。
カンドルは店長からそっと視線を外した。
「目当ての本があるわけではなかったものだから。それに……本は誰かに選んでもらうのではなくて、直接自分で選ぶものでしょう?」
なるほど。
店長は無表情で同意するのだが、言葉と中身が伴っていないのは誰の目にも明らかだった。何せ、セフィーヌの発言が発言だ。
店側で『害悪』な本を取り除き、厳選した本のみを客に貸し出す『ミューズ・セレクト・ブック』の精神をよりにもよって全否定。それも店長の前で。
カンドルは内心でため息をつく。この調子ではどっちもどっちではなかろうか。いや、セフィーヌの方が無自覚な分、性質が悪い。
「セフィ。そろそろ行こうか」
「え? ええ」
セフィーヌはそれ以上こだわる様子も見せなかった。凍り付いた空気ぐらいは察しているのかもしれないが、発言前に気づいてほしかった。
「ではまた来るわ」
「……今後とも当店を御贔屓に。『ミューズ』は戯曲集でも国内一の蔵書数を誇っております。そして脚本家『ケイン・ルージュ』の成功も心から願っております」
踵を返しかけたセフィーヌが驚いた顔になる。
「もうそのこともご存知なの」
店長は慇懃に礼をした。どことなくうさん臭さが漂う。
「上の方々の情報はすぐに耳に入りますので。残念なことでございました。まさか用意していた者が使えなくなってしまうとは……」
「人にもそれぞれの事情があるものだから仕方がないわ」
「それはもう」
店長は慇懃に頷き、
「実は私もある方からお話をいただいたので末席で今回の舞台を観覧するのですよ」
「そうなの」
セフィーヌはとっさにベトヴェン氏を思い浮かべた。何を考えているのかわからないが、いかにもやりそうなことだ。
挨拶を済ませたセフィーヌとカンドルは店を出た。
箱型馬車に乗り込んだカンドルは、
「セフィ。……夫人が用意した脚本家を駄目にしたのは、彼らかもしれないね」
まさか! とセフィーヌは朗らかに笑った。
「そこまでする理由なんてどこにもないでしょう? あの方たちだって暇ではないわ」
「うーん……。普通ならそうなんだけれどもさ」
――この子、自分の影響力をわかっていないんだろうなぁ。
妹は『ケイン・ルージュ』と名乗って社交界に出ているわけではないから、実感したことがないのだろう。
現状、『ケイン・ルージュ』がセフィーヌ・フラゴニアであることは大勢の人が知っている事実ではない。噂として流れたことぐらいはあるが、本人は否定はしないものの、肯定もしないので全部うやむやになってしまった。そして妹の社交界における存在感はほぼゼロである。変なところで引っ込み思案というか、なんというか。
しかし一方で『ケイン・ルージュ』は売れているのである。『ミューズ』が危機感を覚える程度には。
『ケイン・ルージュ』のような一巻本の、しかも廉価版を発売するような形態が普通となってしまったら、それこそ貸本屋『ミューズ』の存亡に関わるということを、妹はどこまで理解しているのか。
妹は、今日も残念仕様であった。




