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舞台は踊る

 若手の脚本家は実績に飢えていた。自分は演劇に人生を賭けているのだから自分の作品はもっと評価されるべきだ、もっと大勢の観客を集める力があるのだと。


 しかし現実は辛いもの。彼の大きな願望とは裏腹に小さな劇場で上演されることが年に数度だけ。一年ほど前にパトロンを見つけて細々と生活していたのだが、そのパトロンに依頼された脚本の内容に納得がいっていないようであった。


 第一に自分の原作でないこと。

 第二に自分よりも年下の貴族のご令嬢が原作を書いたということ。

 第三に出版界でも腫れもの扱いの『ケイン・ルージュ』の作品を自分が脚本化しなければならないこと。


 そして一番気に入らないこと――。


 いいところのお嬢様が暇つぶしに書いた小説が、文字通り魂を削って作り上げた渾身の自作よりも世間の支持を得ていること。


 パトロンからの直々の頼みだからと断れなかったから、嫌々脚本を書いていたのだという。演じるのも本物の役者ではなく、『ケイン・ルージュ』を押し上げようとする貴族たちなのだ。そんなあからさまな『ケイン・ルージュ』推しの舞台に自分が関わったところで何にもならない。むしろ、出版界に影響力を持つ貸本屋『ミューズ』に嫌われてしまうではないか。


 しかし、そんな時に願ってもいない吉報が届く。彼が以前、脚本を書いた舞台を見たという大きな劇場から執筆依頼が届いたのだ。期日までに仕上げ、舞台の評判がよかったら劇場の専属として継続雇用に踏み切ってくれるという。


 彼は飛びついた。それが事の真相である。


「――とはいえ。私が指定した期日に従者をやると、すでにアパルトマンはもぬけの殻でした。それから丸二日経って行方がわかりましたが、パトロンである私に何の同意も得ずに飛び出していったのですよ。さすが二十歳そこそこの若者はやることなすこと、無謀の極みですね。若さゆえの傲慢は大いに結構ですが……」


 ほほ、と夫人の手の扇子が膝上でぴしぴしと叩かれる。馬の鞭だったら大層様になったかもしれない。


「感心できるやり方ではありませんね。彼に期待をかけていた私が愚かだったようです」


 笑顔で毒をぶちまけた夫人に、セフィーヌは何と言ったらいいかわからず沈黙した。

 会ったことはないとはいえ、その若き脚本家が厭ったのは『ケイン・ルージュ』と『赤薔薇の誘惑』だ。彼はそれを欠片も尊重するつもりはなかったらしい。悲しいことであるが、強制もできない。やっぱり彼女の作品を愛している人に書いてもらいたいと思うのが作者心である。


「ただ、幸いにもそれまでに出来上がった脚本の原稿の使用権はきっちりと確保してきましたからご安心なさってね。原作のどの場面を抽出するかというメモも途中まで残っているようです。だから、あと三分の一に手を加えて、新しい脚本家と連名で発表してしまいましょう。テレディアナ妃殿下にはすでに話も通しておりましたが、セフィーヌ様」


 名前を呼ばれた彼女は反射的に「はい」とかしこまった。

 夫人は申し訳なさそうな顔をする。


「未完成の脚本の続きを書いてくださらない? 妃殿下もそれを望んでいらっしゃいます」


 セフィーヌはすぐに返事できなかった。気持ちとしては引き受けてしまいたい。でも――自分にできるのだろうか?

 どこにも自信がないのだ。少し前なら喜んだだろうけれども、今のセフィーヌは小説を一文字も書いていない。


 彼女にはまるで一夜のうちに頭の中で渦巻いていた文章がまるごと消えてなくなってしまったような感覚がずっとあるのだ。


 書け書け、と心の底から突き上げるようなときめきにも似た何かがいつもセフィーヌを動かしてきたというのに、今は空っぽで、凪いだ海に一人で放り出されたような心細い気持ちになる。


 もしかしたら『ジュリエッタ』がまるごと『ケイン・ルージュ』の大事なものを持ち出してしまっているのかもしれない。


 愛を求めた『ジュリエッタ』は、誰よりもセフィーヌの近くに寄り添ってくれた主人公だった。住む世界も境遇も近い。


 だからこそ際立つ部分もある。

 自分の心に広がる茫洋とした空虚を自覚させられたのは『ジュリエッタ』の存在だ。――彼女がセフィーヌの手を離れていってしまったから。一人きりだということから逃げられなくなった。


「たぶん、セフィーヌ様しかできる方はいないと思いますよ」


 夫人は重ねてそう言ったから、セフィーヌは折れるしかなかった。

 確かに『赤薔薇の誘惑』を世界で一番愛しているのはセフィーヌなのだから。


「わかりました。……わたくしも全力を尽くします」


 セフィーヌがにこりと笑うと夫人も安心したようにありがとうと呟く。だが、すぐに顔を引き締めて、 


「あともう一つ。お伝えしなければならないのことがあるのです。こちらはセフィーヌさまに直接関係することではないのですが……あの打ち合わせで決めた配役に変更がありました」


「変更といいますと……何の役にですか?」


「『ジュリエッタ』ですよ。王太子妃殿下が降板し、代わりに別のお方がその役を演じられます」


 以前の打ち合わせで朗読だけで見事な『ジュリエッタ』を演じていたテレディアナが降板するという信じがたい話であった。


「え……ディ……王太子妃殿下に何かあったのでしょうか? だって前は『とても楽しみです』とおっしゃってくださっていたのに……もしや体調不良でいらっしゃるとか」


 もしもそうだったら、お見舞いにいかなくてはと落ち着かない気持ちになってくるセフィーヌ。


「まあ、体調不良と言えなくもないですが、ね……」


 ほほ、と思わせぶりに夫人が笑い、セフィーヌに耳打ちした。


「――まだ非公式ですが、妃殿下は二人目のお子様を懐妊されていることがわかりまして。それで、王太子殿下のご意向で大事を取って主役は降板だそうです」


 それもまた思いもよらなかった知らせだった。


 打ち合わせの時は何も言っていなかったから、発覚したのはそのあとだろう。そのうちまた報告の手紙が届くだろうが、とにかく親友の元に新しい子どもがやってくるのは喜ばしい。


 親友の一人目の子、ブレオノルト王子を抱かせてもらった時、セフィーヌはとても嬉しかった。赤ん坊を初めて触ったわけではないのだが、セフィーヌがその子を抱えて、その横で親友が微笑む、その光景がとても得難く、神聖なもののように思えて仕方がなかった。


 難産だったとあの時、本人が言っていた。一度死にかけたと冗談めかしていたが、間近で経過を見守っていた夫からしたら二人目の妊娠に過剰反応してしまうのももっともな話だ。まして、舞台に出ずっぱりの芝居の主役をするには厳しいものがある。


「妃殿下には代わりに演技指導の面でご協力いただくことになりました。素人でも、発声法や台詞回しを知らないよりは知っていた方が有利でしょうから」


 そして肝心の『ジュリエッタ』役なのですが、と夫人はため息をつく。


「ご本人が希望されたということで……エランジェ王女殿下となりました」


「エランジェ王女殿下にですか? でも、あの方は打ち合わせの時にはいらっしゃらなかったはず……」


「あのお方も耳ざといのですよ。特に自分の『目当て』の動向になると、それはもう。しかも、『ヴィンセント』役があの方だから……セフィーヌ様。強く生きてくださいね」


「つ、強く……? わたくし、いつでも元気ですよ……?」


 むしろ元気すぎて困ると家族やキヤから苦情を言われる立場であった。


「けれど、おそらく王女殿下はセフィーヌ様を目の敵にされている節がありますからね。『ケイン・ルージュ』とセフィーヌ様の名前を耳にされた時の顔と言ったら、形容するのも憚られるという噂です」


 夫人に心配されるほどに王女殿下に嫌われているらしいが、やはりセフィーヌには身に覚えがないのである。そもそもそこまで接点もないし、嫌われるような決定的な出来事があったわけでもない。つい先日、王宮内の廊下で出会った時は珍しく上機嫌そうであったのを思い出し、彼女が『ジュリエッタ』役をする姿を想像する。


 隣に『ヴィンセント』役の彼を配置してみると、美男美女でとてもお似合いだが、彼女がどんな『ジュリエッタ』になるかわからない。


 ただ、今のままだとものすごく自信満々な『ジュリエッタ』ができあがってしまいそうだ。……大丈夫だろうか。


「わたくしは王女殿下が『ジュリエッタ』を愛してくだされば、それで構いません」


「それが何よりも難しそうなのが問題なのです。ちゃんと本番までやってくださるのか。……もしかしたら、キッソン侯爵がすぐにでも靡けば、すぐに忘れてしまう程度のものかもしれません」


「ならばわたくしもいい脚本を書きます」


 夫人の言葉に覆いかぶさるようにセフィーヌはすぐさま告げた。これもやはりどこまでも根拠のないものだ。彼女はこうして自分の逃げ道を塞いでいく。すべては『ケイン・ルージュ』と……『ジュリエッタ』のために。


「だって、芝居の主役を取り込めるぐらいの力ある物語を紡がなければ、誰もこの芝居を楽しんでくれないですから!」


「そうですね。そもそもやる気のない主役なんて、主役をやってはいけないでしょう。……『打倒、王女』

ですか?」


「王女殿下には主役をやっていただくのですから、倒れてしまっては困ります」


 セフィーヌの言葉に夫人は吹き出した。いたずらがばれた少女のような顔だった。









『キッソン先生へ。


 今日の昼間に思わせぶりなことをおっしゃったのは、こういったわけだったのですね。驚きです、びっくりです。でもおめでたい話なので、わたくしもさっそくお祝いの贈り物は何にしようかと考え始めています。今度お会いした時、どんな顔をしたらいいものでしょうか? 特に理由もないのにずっと笑顔になっていそう。不審がられたりしないか心配です。


 ところでシーレさまのことですが。最近、どうにも自制が効かなくなってきました。わたくしは今、ちょうど噴火前のマグマのように、いつ爆発してもおかしくありません。先生、わたくしは待ちましたよね? もう告白しても大丈夫ですよね? 先生が大丈夫だと背中を押してくださったら、うまくいく気がするのです。シーレさまはわたくしを一番にしてくださると誓ってくださったら、もう何も怖いものはないのに。


 それと――先生。お願いがあるのです。


 『薔薇色の誘惑』を愛してください。

 『ヴィンセント』を愛してください。

 『ジュリエッタ』を愛してください。


 大事にしてくださると約束していただきたいのです。これは先生にしかお願いできないことなのです。先生が『ヴィンセント』を演じて下さる限りは、芝居はきっと成功するように思うから。


 ではわたくしはこの辺りでペンを置きます。せっかく脚本を任されたのですから、なるべく早く仕上げないと。


セフィーヌ・フラゴニア』






「これはもう、熱烈な恋文だろう……」


 夜。ランプを机に置いて、手紙に目を通していた男は呻いて、空を仰いだ。目を瞑る。


「セフィーヌ」


 その息は闇より重い。



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