想いわずらう
五月三日。予定していたところまでの更新を間違えておりました。後半部分の場面を付け足しました。
自分が『先生』になるとは滑稽だ、と彼女からの手紙を受け取るたびに思う。
君は自分が何をされたのか知らないのか。馬鹿なのか。――いや違うか。馬鹿じゃないから「会わないことにした」のだ。
文章だけの手紙ならいくらでも嘘をつけるから。
心の中を全部隠せて、見せたい自分だけを見せられる。
彼女はきっとそう思い込んでいる。ある意味では真実だが、それだけでもない。
たとえ嘘だらけの手紙でも、一通一通やり取りするということはそれだけ目に見えない相手のことを考えているということ。
どんな感情であれ、意識せずにはいられない。
彼女が手紙を書くのに費やした時間だけ、ジドレルのことを思い浮かべているわけだ。彼女は気づいていないかもしれないが。
……彼は一向に諦めていなかったのだ。
正攻法では駄目だとみて、搦め手で『失恋姫』を攻略しにかかっていた。
シーレ氏との恋の応援の手助けの傍らで、じっと息をひそめて好機を伺っているのだ。
彼は書き物机に向かい、万年筆を持つ。返信を便箋に綴る。
『セフィーヌ嬢。
とても嬉しいことがあったようですね。あなたが嬉しいと先生の私も嬉しく思います。
それでは二つ目のアドバイスと行きましょう。あなたは彼に近づかないのですが、彼からは近づいてもらわなければなりません。そのために必要なことですね。それは「視線を向けること」です。あなたが相手を気にしていることをそれとなく伝えるのです。
これが実は案外難しいのです。私がかつてそれで失敗したように。わざとらしくなく、それでいてさりげなさを心掛けること。視線が合いそうになったら慌てて避けてみてください。相手は一気にセフィーヌ嬢を気にし始めます。男というものはあなたが思っているよりも単純なものです。
セフィーヌ嬢は自分で気づいていないかもしれませんが、ほかの人にはない魅力があります。それはあなたの瞳です。宝石のように透き通り、まるで南国の海のような緑は不思議な引力を持っています。だからこの二つ目のアドバイスはとても有効でしょう。ただし、やりすぎは厳禁。これもまた胸にしっかり刻むこと。
もしもこれが成功して彼に話しかけられたら、紹介者がいる場合には紹介者に会話の流れを任せましょう。セフィーヌ嬢はできるだけ聞き上手に徹すること。ほかに誰もいなかった場合は、立て板に水のごとく話すのではなく、少しだけ遠慮がちに話した方がいいでしょうね。手紙の中でのようにまくしたてるような話の仕方についていけるのは、ごく身近な人と、私ぐらいのものでしょう。
また報告を聞かせてください。先生は生徒の成長を確認するものなのですから。
あなたの先生、ジドレル・キッソン
追伸 シーレ氏よりもいい男性を私は知っているのですが、あなたはその気がないのでしょうね』
書き終えた手紙は廊下にいた執事に郵便ポストに投函するように頼み、自室に戻ってくる。
今晩は知人を夕食に招いていた。それまでの空き時間を読書に当てようと思い、本棚を物色する。
少しずつ読み進めてきた『ケイン・ルージュ』の本は、はや五冊目に突入していた。ここまで一人の作家に固執して読んだことは初めてなのだが、今のところ飽きは来ていない。
むしろ、今まで三巻本にするためにだらだらと冗長な展開が繰り返されていたこれまでの小説よりはよほどスピーディーでドラマティックだろう。分量は一巻本ほどだが、それでも読み応えは十分。
ジドレルは五冊目の本を引き抜き、ソファーのひじ掛けに半分もたれかかった。
――ああ、でもだからこそ、彼女は『異端』か。彼女や『オーマー出版社』は伝統を壊そうとしているから。
留学先で見聞を広げてきたジドレルには手に取るようにわかる。グロットリには早くから貸本屋が発達していた。老舗と呼ばれる『ミューズ』が始めた年会費の制度と蔵書カタログの販売、道徳的な本しか選ばない『セレクト・ブック』は当時では画期的だった。
『ミューズ』は何十と支店を作り、ほかの零細貸本屋を淘汰していった。現在でも国内でも並ぶ規模のものはない。
元々『ミューズ』は三巻本を取り扱う貸本屋だった。『ミューズ』の発言力が出版界でも大きくなるほどに、暗黙の了解のように小説といえば三巻本、三巻本といったら小説という風潮が広がった。
小説家たちは本来短い話をもむりやり引き延ばすようになっていった。内容の質が低下する。娯楽小説などはもっと低俗なものとみなされていった。
そして三巻本は立派な装丁を施された高価なものだからこそ、貸本屋に置かれるのだ。一巻本などは小説の体さえなしていないものと見られた。
それが「伝統」だった。過去形なのは、風穴を開けた者がいるから。
それこそ『ケイン・ルージュ』。
彼女は処女作から一巻本のみを一貫して出し続けている。
そして『赤薔薇の誘惑』では廉価版の「鉄道文庫」も同時出版した。こんなことは今までにないことで、普通三巻本が「鉄道文庫」にされるとしても一年以上、タイムラグがあるはずなのだ。なぜなら安価で手軽な分、『ミューズ』のような貸本屋が損をするから。
いわば『ケイン・ルージュ』……セフィーヌ・フラゴニアは『貸本屋』や『出版社』が起こしている摩擦の中で否応がなしに目立つ位置にいる。
これを『ミューズ』の古参店員に聞かされた時、ジドレルの心が浮きたったことは言うまでもない。
セフィーヌ・フラゴニアは思ったよりも大物だった。
あの時、キスするべきではなかったのだ。そうしたら彼は今頃もう少し彼女の近くにいられただろうに。彼女はいったい、何を見て生きているのだろう――。
セフィーヌ・フラゴニアの無防備な唇の感触を思い出し、彼は自分のそれを押さえた。
――私が君のことを考えているよりも、わずかでも深く、一分一秒でも長く君が私のことを考えるべきだ。
不思議と目元に熱がこもり、吐息が零れるが、本人はまるで無意識だった。
彼が次に想起したもの。彼に向けられた最後の表情が泣き顔だったこと。大嫌い。
そこへノックとともに執事が顔を出した。
「ジドレルさま。シーレさまがおいでになりました」
「……ああ、今行く」
彼は差し出されたフロックコートを颯爽と羽織る。
ヤデック・シーレ。
彼には絶対に負けるわけにはいかなかった。
※
「料理は口に合いましたか、シーレ卿」
白いナプキンで口元を拭ったシーレ卿はええ、と宗教者のような控えめな笑みを浮かべる。
「最後に出てきたカスタードプディングが一番気に入りましたね。絹のような舌触りはなかなかのものですよ」
「ありがとうございます。うちのシェフはファルセットでの修行経験がありましてね。外国からの客人を招く時にはとても重宝しているのですよ」
「ほお。我が国に。それをお聞きすると自国を誇らしく思いますね」
ジドレルとシーレ氏は二人きりで食卓を囲んでいた。
国は違えど、どちらも役人。シーレ氏は在グロットリの外交官である。キッソン公爵が外務卿を務めていることもあり、二人にはそれなりの接点がある。パーティーなどで顔を合わせたら挨拶と雑談を交わすぐらいには。
食事会を終えて、喫茶室でタバコを吹かす。
葉巻を手にしたシーレ氏はわずかに苦い顔になって。
「キッソン卿は葉巻をよく吸われると聞きますが、私はどうも気管支が弱いので、こちらを」
シーレ氏は給仕にブランデーを頼んでいる。
葉巻を手にしていたジドレルも、同じものを持ってくるように言いつけた。
「これは失礼を。不手際があったようです。……ああ、それと。私もタバコの類は得意ではないのですよ。付き合い程度には嗜みますが、個人的にあの匂いが苦手でしてね」
運ばれてきた二杯のグラスをそれぞれ掲げる。
「さて、シーレ卿。何に乾杯しましょうか」
「それでは……二人の友情に」
「友情に」
同時にブランデーに口をつける。
ああ、なんて白々しい、と自嘲する。
「……嬉しいですね。まだこちらに来てから間もないのでこちらでの友人は少ないのですよ」
本当に嬉しいなあ、と素朴な調子でシーレ氏は呟いた。
ジドレルにはシーレ氏が本心から述べているように聞こえた。
二人きりで話をする機会がなかったために知らなかったが、シーレ氏は一旦「友人」という枠を入れた相手には感情が表に出やすいらしい。これが気取らない気さくさと好意的に受け止められるのかもしれない。
……たとえば『失恋姫』のようなある意味見境なしの女性の心を掴んで離さないとか。
彼はジドレルよりもはるかに背が低く、体重だって重かった。
見てくれはよくないが、だからこそ「安心できる」というメリットもあるだろう。自分を決して裏切らないだろうからと。世の女性たちが求める「誠実さ」のようなものを見出すのだ。
「……セフィーヌ・フラゴニアという女性はどんな方なのでしょうか」
「は?」
「ああいえ。唐突に申し訳ない。先日、マゴット伯爵夫人にお会いした時に、私が独り者だからと気を回してくださったようで。キッソン卿とも顔見知りだから、あなたにも尋ねてみるといいと……」
「なるほど」
ジドレルは顔に笑みを張り付けた。
夫人も意地悪なことをしてくれる。
「セフィーヌ嬢はとてもはつらつとした女性ですよ。家柄だって悪くなく、顔立ちも愛らしい。ただ、本人がその魅力をよくわかっていないところもあるようです」
「自分には無頓着であると」
「無頓着ですよ」
いつぞやの「自転車に引かれかけた事故未遂」から始まり、お茶会、夜会、狩猟会に至るまで、セフィーヌ・フラゴニアは自分が「そういう目」で見られていたことに気付かなかった。
ああ見えて、彼女は拒絶され続けたために他人の自分への特別な好意はないものだと思い込んでいる節があるのだろうか。
だとすれば彼女は叶わないと心のどこかで知りながら次々に告白し続けているということになる。
気の毒なほどに滑稽で愚かしい娘。
本人に直接指摘してやればなんというのだろうか。怒るのか、泣き出すのか。
シーレ氏は言った。
「私はこんな『なり』で、しかももう若くないですから。だからこそ妻となる女性には優しくしてやりたいですよ。彼女が私の『運命』ならいいのですが」
彼は自分の気障ったらしい言い方を恥じるように微笑する。
「運命かどうかは会ってみなければわからないでしょうに」
「そうですね。すべては会ってから。実は今度マゴット伯爵夫人を介して紹介する手はずでして。相手は十九のお嬢さんですから、せめて身だしなみぐらいは整えていきますよ。……と、キッソン卿。どうされましたか。顔が真っ青になっておられるようですが」
「は? いや、まさか」
ジドレルは反射的に返すが、シーレ氏は珍しいものを見たように目を丸くして彼の様子を伺ってくる。
「いえ。ご自分では気づいておられないかもしれませんね。あとで鏡をご覧になってみてください。とても大丈夫そうな顔色ではありませんよ。近頃気温差が激しいので風邪を引かれたのでは?」
風邪。思い当たる節はなく、彼はいぶかしむように胸を抑える。
確かに今、目の前が真っ暗になった気がしたが一瞬のことだ。心臓の鼓動も跳ね返った気がしたが、これもすぐに静まっている。
「そう見えるようなら申し訳ない。何もありませんよ」
「ならよかった」
シーレ氏はほっとしたような息を吐く。
「風邪でないなら、恋煩いの類かもしれませんね。あれは自覚がないのが一番厄介だと言います。……キッソン卿のような方には無縁でしょうか。申し訳ない。忘れてください」
「無縁ということもありませんよ。美しい『花』には賛辞を惜しみませんし、愛でようという気にもなります」
「余計なお節介と知りつつも年上として忠告するなら、それを恋煩いとは言いませんよ、キッソン卿」
彼は手元のグラスに目を落としながらやんわりと否定した。
「手厳しいことをおっしゃいますね」
「いや……華やかなキッソン卿と私とでは比べ物にならないほどの人生ですよ。でも一つだけ私にも誇れるものがあるとするならば……」
真剣に誰かを愛したことですよ。そう言った彼はぐいとその中身を飲み干した。
「『これが最後の恋で構わない』。それほどの女性に出会えるのは幸福です。……キッソン卿にはそれだけの相手に巡り合ったことは?」
「残念ながら。私を夢中にさせるだけの極上の女性がいるというのなら、ぜひともお目にかかってみたいものですよ」
ジドレルは空になったグラスをふり、給仕に別の銘柄の酒を一杯注がせた。鼻を近づけ、匂いを嗅ぐ。
かぐわしい美酒だった。この酒がそのまま女性となったのならば、ジドレルでさえも酔わせてしまえるのだろう。
「これまでの人生を根本からひっくり返されますよ?」
「運命の女ですか。時として男を破滅させるほどの魔性の女……」
ジドレルは軽く鼻で笑うのだ。
「男とは得てして女への被支配欲というものを持ち合わせているのでしょうか。命がいくらあっても足りませんよ」
シーレ氏もジドレルに合わせて笑みをこぼした。脂肪に埋もれたような小さな目が夜明けの星のようにきらめいた。
「運命の女が何人もいたら、それは『運命』ではありませんよ」




