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『ケイン・ルージュ』

 キッソン公爵邸を訪れたマゴット伯爵夫人は当主への挨拶もそこそこに、名指しでジドレルを呼び出した。当主とすれ違うように彼がやってくる。当主はどこまでの事情を知っているものか、哲学者のような顔に何の表情も浮かべずに書斎へ引っ込んだ。おそらく興味がないのだろう。


「ごきげんよう」

「ええ、こんにちは、夫人」


 彼女は手袋をはめた手を自ら差し出し、ジドレルも礼儀を取って、その手の甲に口を付けるふりをする。気取ったように上目遣いになるジドレルだが、案の定彼女は騙されなかった。


訪問着の紫のドレスがしわにならないように器用に座り、ジドレルはその正面の席に腰かける。


「ご用件をお伺いしても?」

「そうですね、ではその前に……フランツ」

「かしこまりました、奥様」


 彼女は連れてきた男の使用人に『荷物』をテーブルに置くようにと指示する。ジドレルはちらりとその赤い革の表紙を見て、「これは?」と尋ねた。


 夫人は手元の扇子を弄びながら告げた。


「その本こそ、私がセフィーヌ・フラゴニアに肩入れしてしまう理由です」

「この本が? ちょっと失礼」


 彼は手に取って一頁ずつめくっていく。口絵は色付きで、装丁や使っている糊も丈夫そうだ。表紙に金文字で書かれた『赤薔薇の誘惑』をなぞりながら、この本と『セフィーヌ・フラゴニア』がどんな関係なのか、と不思議に思う。


「著者名は?」

「題名の下の金文字……『ケイン・ルージュ』か」


 『ケイン・ルージュ』。

 何かが頭に引っかかり、記憶を手繰り寄せていく。底冷えする夜の廊下にほのかに香る――薔薇。何かの情景が形になろうとしたところで……。


 バチン。


 夫人がふいに扇子を取り落とす。顔色一つ変えず、彼女は「ごめんなさいね」と再び持ち直す。具合を確かめるようにパラリと広げ、

 

「その様子だと、まだご存じないようですね。では、こんな話をしてみましょう」


 





――三年前。暑さで体調を崩しがちだった王太子妃は夏の離宮に滞在していた。


 ある夜、妃と交友のある五人の淑女が集った。物音ひとつ立たぬ静かな夜の離宮には人も少なく、何の楽しみもない。そこで妃は所望する。


『この暑さを忘れさせてくれるほどの面白い話を見つけてくれませんか』


 その数日後の夜。妃の無聊を慰めるべく、淑女たちはそれぞれ自分が面白いと思う話を携えてやってきた。



 一人目の淑女は最近流行しているオペラについて話す。


『見どころは何といっても、息子を亡くした女の悲嘆のアリアでしょう。発声の限界まで試される超絶技巧と高音が、狂女となってしまった女のリアリティを高めているのです。初めは感情を激しく歌い上げているのに、最後には切れ切れに……そう、すべてが空っぽになっていくのが物悲しくて。子を持つ母としては涙なくして見られませんわ』


 王太子妃は告げた。


『とても評判のいいオペラとは聞いています。でも、やはり直接観劇した方が、あなたの話もわかりやすかったことでしょう』


 二人目の淑女は怪談話。


『そ、その時、煉瓦の壁に黒々とした影が映っていたそうです。断頭台に首を押し付けられている男と、斧を振り上げた処刑人の大男の影が。斧は容赦なく振り上げられて、二度、三度と……あぁ、もうだめ。私たちまで呪われてしまいそう……』


 王太子妃は震える彼女の背筋をさすりながら、


『さあ、次の話は?』


 三人目の淑女は海の向こうへ渡った男たちの英雄譚。


『新大陸を目指した男たちは七日七夜漂流したようです。船には食料もなく、飢餓にあえぎ、何十人もの船員たちが亡くなってしまいました。嵐の夜もありましたが、たくましい男たちは狭い船室の中、たよりない燭台の明かり一つに身を寄せ合い、互いに励ましあったそうです』


 王太子妃はそこで彼女を止めた。


『申し訳ないけれど。それは面白いというよりも悲惨な話です。それに彼らの身の上を想像するだけで息苦しくて気が遠くなってしまいそう』


 四人目の淑女は旅行先での体験談。


『荒野に地平線に大きな太陽が落ちていくのです。地元の者たちは「血のような赤」、「悪魔の降臨」だと言って黄昏を眺めたがらないそうなのですが、私たち夫婦にとっては息をのむほど美しい光景だったのです。普段口下手な夫でしたが、その時ばかりは神妙な顔になり、私に二度目のプロポーズをしたほどでした』


 王太子妃は最後まで聞き、


『とても興味深い話でしたが、いま一歩、でしょうか』


 妃の言葉にすっと顔を上げたのはもっとも年若い、最後の淑女だった。


『では、わたくしの番ですね』


 彼女が大事に胸に抱くのは紙の束。

 燭台の明かりを手元に寄せて、彼女はその場にいた五人の女性たちに『ある物語』を語り掛けた。


 それは彼女が自ら書き上げた物語。悲劇的な恋人たちの過酷な運命を綴った話だった。


 初めは怪訝な顔をしていたほかの四人の淑女たちだが、段々とその物語に引き込まれ、気づけば耳を傾けていた。それは年若い淑女が、話しすぎのあまり「ゴホンッ」と咳き込むまで。


 ふつと話の糸が途切れた時、彼女の目の前には妃がいる。妃は彼女に握手を求める。


『あなたが一番の話し手でした。皆さま、それでいいですね?』


 淑女たちの意見も一致していた。もっとも人生経験が短いこの令嬢が、この中での最高の語り手であると。


『褒美は……そうですね。物語の紡ぎ手としての新しい名前を。――『ケイン・ルージュ』。本を出すときはそう名乗って、セフィーヌ・フラゴニア辺境伯令嬢』


 それからしばらくして『ケイン・ルージュ』という名の作家がこの時語り聞かせた物語である、処女作『古城の恋人たち』を出版する。

 すなわち、これがセフィーヌ・フラゴニアこと、『ケイン・ルージュ』の誕生だ。








 ほほ、と思い出すように夫人が笑う。


「思い出すだけで愉快な話ですよ。わたくしも含め、誰も妃殿下に本気で『面白い話』を用意しないで適当にお茶を濁そうとしていたのに、誰よりも正面から妃殿下を楽しませようと努力していたのが、セフィーヌ様でした。しかも自前ですよ? 気合の入れ方が違うでしょう」


 ……ジドレルは目の前の本に重みを感じた。まるで新しい視界が開けたようで、かちりと何かのスイッチが押されたとでも言うような。


「彼女はずいぶんと変わり者のようですね」

「変わり者であることは悪いことではありませんよ。個性と呼ぶのです。傍目には滑稽でも、突き通せば本人にとって勝利ではありませんか。案の定、彼女は勝ちました。彼女のしていることを非難する者がいても、それと同じぐらいに彼女を認めている者を得られたのですから。――侯爵。あなたが手を出したのは、そんな令嬢なのです」


 夫人の声が一段低くなる。ジドレルは膝の本の上で両手を組む。まるでこれから写真を取ろうというぐらいに整った姿勢であった。口元の口角がきゅっと上がる。


「夫人、あなたも『ケイン・ルージュ』のファンということですか」

「それはもう。古参と言っても過言ではありませんよ」

「ということは、今回の訪問の目的は私への叱責でしょうか」

「叱責ぐらいだったらロザリナだけで間に合っているではありませんか。あの方は何でも自分の思い通りにならないのが我慢ならないのですから」


 公爵家の女主人役を担う叔母への嫌味をさらりと混ぜ、扇子をぱらりと閉じる。暖色の花柄が隠れる。


「ところで侯爵。私は人の縁を結ぶことを人生の喜びにしています」


 若い男女を招いての催しを好む夫人は、その場で何組のカップルが誕生したのかを聞いて楽しむことが好きだった。時におせっかいなほどに焚きつける。いまだ独身のジドレルなどは夫人にとっていい玩具に見えるのだろう。


「ジドレル・キッソンとセフィーヌ・フラゴニアは案外いい組み合わせだと思っていましたが、当てが外れてしまいましたよ。あなたにこらえ性がないから」

「どちらもその気がないのに無理な相談ですね」


 ジドレルに結婚の意志はなく、セフィーヌ・フラゴニアはただの暇つぶしだ。ジドレルに『その気』がなくて、セフィーヌが『その気』なのはいい。けれども彼女も『その気』がないというのが彼にとって許せないことだった。


 彼の人差し指が己の唇をすうっと撫でる。


 ジドレルのキスで篭絡されなかった『失恋姫』。

 初めてのことに戸惑い、赤くなって、目を潤ませて。我慢するように瞼を閉じても、睫毛がふるふると揺れる。

 熱くて柔らかな唇の感触。

 キスを終えて、彼の胸を叩きながら泣いてしまったセフィーヌ。その顔に美しさも可憐さも微塵もなかった。女の子が悲しくて泣いている。そんな錯覚を覚えた。


「珍しく堪えた。そんな顔をしていますよ」

「気のせいです」


 夫人にそっけなく告げたジドレルは窓辺から見える雲にちらりと視線を寄せて、前髪を気だるげにかきあげる。


「あらそう。そういえば侯爵の方はともかく、フラゴニア伯家は今回の件は相当なご立腹ですよ。あなたに加担してしまった形となった我が家とも絶縁するかもしれません。うちの主人はあそこの御当主とは学生時代からの付き合いだから、それはとっても困ります」


 ジドレルは夫人の言いたいことを先回りして言った。


「夫人は私に何をしてほしいのですか」

「察しがよろしくて結構よ」


 夫人はほほ、と笑う。


「侯爵なりの誠意の示し方。そしてセフィーヌ様にとっても役立つこと。――百戦錬磨の侯爵が、『失恋姫』に恋の成就を手助けするのです」


 失恋姫は、千回目の恋の真っ最中ですから。

 夫人の言葉はすぐに飲み込みにくかった。彼はわざと一拍おいてから、


「いいでしょう。私は構いませんよ」


 ミステリアスな笑みを浮かべた。


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