赤薔薇の誘惑
今回から一話を長めにするかもしれません。
シルドンパークは春爛漫。
長く尾を引いた寒さもようやく抜け、暖かい陽気が一日続くようになった。
この時季、パークはもっとも華やかだ。
色とりどりのチューリップに薔薇、ビオラ。きれいに区分けされた中でみずみずしく、目に鮮やかに咲き誇る。
池の水面はきらきらと光を反射して、水鳥の鳴き声は芽吹きの季節の喜びを高らかに歌う。
今日も憩いを求めた紳士淑女がシルドンパークをそぞろ歩く中、桜並木の小道で黒の自転車を引くセフィーヌの姿もあった。
紺色に白のストライプが入った生地のドレスに、ストローハット。髪はゆるく三つ編みにして流している。 今、社交界の一部で流行り始めている田舎風ドレスというものだ。簡素でとても動きやすいのが特徴だった。
午後の昼下がりのちょうど今、彼女は目当ての『あの方』が現れると聞いてやってきた。
『あの方』とはもちろん『千人目の子豚の君』。
今日、セフィーヌは告白する――。
彼女はお守りに持ってきた手紙を胸元でくしゃりと潰しながら、うん、と一つ頷いた。
――先生、わたくし頑張ります!
※
セフィーヌの趣味は恋愛小説を書くことだ。ペンネームは『ケイン・ルージュ』。既刊はすでに七冊ほど。文化国家の隣国、ファルセットから進出してきたオーマー出版社の名で世に出ている。
彼女の小説の特徴は「ドラマチックな恋愛」に尽きる。息をするのもためらわれるほどに求めあう恋、たちはだかる障害。今の社交界を舞台にすることもあれば、数百年の昔を舞台としたもの、伝説に題材を取ったものも多い。結末はハッピーエンドとは限らない。
新作『赤薔薇の誘惑』は『ケイン・ルージュ』らしさが詰まった物語だ。
始まりの舞台は仮面舞踏会。初恋もしたこともない純粋なヒロイン、ジュリエッタが謎めいた青年と出会い、恋をする。彼を誘惑するために彼女はどんどんと少女の皮を脱ぎ捨てて、美しい女性となっていく。自然と周囲の男性に好意を寄せられるも、肝心の青年は靡いてくれない。
なぜなら、とある大貴族の庶子である彼は複雑な生い立ちであるがゆえに、惹かれつつあるのを自覚しつつも彼女の愛を信じられなかったのだ――。
ざっと読みとおしたキヤは自室の椅子でぱたんと本を閉じる。――お嬢様のお話はなんだかんだと面白い。
書き手の方は失恋ばかりしているが、恋愛小説はとても人気がある『ケイン・ルージュ』。不思議なことに実生活での経験がなくとも恋愛小説が書けるのだということを彼女は証明している。
彼女の近くで世話をしているキヤから言わせると、人の恋愛話にも首を突っ込みかねないほどに興味津々だったからおかしなことではないのだ。
女使用人たちの恋愛談義にも「ふんふん」と頷きながら耳を傾け、あけすけな話になって「まあ!」と顔を真っ赤にさせてもなお、その場を立ち去らない。使用人同士が噂になれば、「本当なのかしら」と言いつつ、本人に突撃することもしばしば。
そういう聞きかじりの話と、本人が持つたくましい想像力が『ケイン・ルージュ』を支えている。その中にはちょびっとだけでもキヤがいるのだと思うと、とても嬉しいものだ。
貸本屋で借りてきた本の表紙を感慨深く見つめていると、とんとん、と元気なノックの音がした。
はい、と本を椅子の上に置いてから出てみるとそこにはセフィーヌお嬢様の顔が視界いっぱいに広がっていた。透き通った緑の宝石の輝きは間近で見ると大した迫力だ。
「キヤ、キヤ! ちょっと来て!」
「お嬢様、どうしました?」
ちょうどお嬢様のことを考えていたキヤはそうとは本人には言えずにいると、動揺が見咎められたのか、ひょいとキヤの背後を肩越しに見て、あ、と嬉しそうな声をあげた。
「あの椅子の上の本、わたくしが書いたやつでしょ!」
「違います」
即答したキヤは背中でバタンと扉を閉め、怒ったような顔を作った。
「そのようなことよりもお嬢様。どうしてわたくしの部屋まで? 普通、ご家族はこのような階下まではいらっしゃるものではありませんと、それはもう口を酸っぱくするほどに申し上げておりましたが?」
邸の中にも主人たちが住まう表の空間と、使用人たちが住む『階下』の空間がある。主人たちは『階下』まで出入りすることはめったにないのだが、キヤのセフィーヌお嬢様の場合、これがなかなか直らない。
「それに呼び鈴を鳴らせば、すぐに参りましたのに」
使用人食堂に設置された呼び鈴は、主人たちの部屋の呼び鈴に繋がる仕組みとなっている。食堂には誰かしらいるので、呼び鈴が鳴れば待機していた使用人の誰かが行くのだ。
「だって、キヤに相談したかったのだもの。今鳴らしたところで別の人が来ちゃうでしょ。それだと意味がないの」
キヤがのんびり本を読めていたのも、月に何度か与えられた休みの日だからなのだが……お嬢様はキヤに休日出勤をさせたいらしい。しかし、お嬢様はその罪悪感など欠片もない様子で「お願い!」と手を合わせている。キヤは仏頂面で答えた。
「お嬢様、私は休日中です」
「大丈夫、時間は取らせないわ。それにこれは『お友達』としての相談だもの。そうね……お茶とお菓子で手を打って!」
『お友達』、そして『お茶とお菓子』でキヤを釣ろうとしているお嬢様。しかし、今この場だけではよくとも、分別は付けなくてはいけないだろう。お嬢様がほかの家に嫁がれても、恥ずかしくないように。
「使用人の私が一人だけそのようなものをもらってはいけないでしょう。ほかの者からすればえこひいきしているように見られます」
だが、お嬢様にも考えがあった。彼女はもう一度、「大丈夫!」と力強く断言する。
「使用人皆にもおすそ分けするの。ラムズにはもう許可を取ったわ。材料費と手間賃があれば大丈夫ですって。だから気にしないで、キヤ! わたくし、多少自由になるお金は持っているから!」
それはもう清々しい顔で胸を叩くお嬢様。似たようなことがあるたびに山のように積まれてきた経験からそれなりに学ぶことはあったらしい。
料理長のラムズなら快く引き受けただろうし、セフィーヌお嬢様には『ケイン・ルージュ』としての原稿料が入っている。使用人のおやつぐらいでは懐は痛くも痒くもないのだ。
「それで」
キヤは眉間の皺を寄せたまま、尋ねてみる。
「私に相談事とは何でしょうか?」
「これよ、これ!」
待っていましたとばかりに喜色を浮かべたお嬢様は、キヤの目と鼻の先に何かを突きつけた。彼女が背筋をそらせば、後ろの扉にごん、と派手に頭がぶつかった。
「……っ、何をしているのですか、お嬢様っ!」
「ごめんなさい! 大丈夫、頭おかしくなっていない!?」
「別の意味で頭がおかしくなりそうですっ!」
そんなひと悶着があった後、キヤは改めてお嬢様からある物を手渡される。とても手触りのいい白い封筒。裏に押された赤い封蝋の紋章は、キヤも知るものだ。
「……なんでまた」
醒めた気持ちで手紙を見下ろしたキヤに対し、お嬢様は「ねえ、どうすればいいのかしら!」といささか興奮気味にまくし立ててくる。
キヤはそんなお嬢様をそっと横目で見た。
「お嬢様……私に相談するより前に、手紙を開けませんと」
「……あ」
彼女は手紙を受け取ってしまったという衝撃のまま、自分の部屋に戻るよりも先に使用人たちのいる階下まで来てしまっていたのだった。
料理長と交渉するところまでは頭が回っていたのに、肝心なところが抜けている。それがキヤの知るセフィーヌ・フラゴニアと思えば、「らしい」のだけれども。――もっと頑張ってほしいものだと息を吐くキヤである。
※
私室までキヤを連れてきたお嬢様は、ソファーに座って銀のペーパーナイフで手紙の封を切る。
中の便箋を一目見た彼女は「あぁ」とうっとりとした声を出す。
「なんて美しい書体なの……。小川が流れるようにさらさらっと書いていらっしゃるのに力強くて……うん、百点満点ね!」
そのまま便箋を天に掲げて直筆の文字を眺める彼女だが、間違っても誤解してはいけないのが、彼女は今のところ文字を『眺める』だけで、内容は一行も理解していなかったことだ。
「お嬢様、よくもまあ、ご自分にひどいことをなさった方のことを賞賛できるものですね」
「何を言っているの、キヤ」
セフィーヌお嬢様は真面目な顔を作った。
「美しいものは、美しいの。綺麗なものは、綺麗なのよ。それはそれ。これはこれ。……それに」
「それに?」
会わなければ何も起こらないでしょ、と彼女は言い切った。
しかし、キヤからすれば、疑問に思うところである。
キヤは窓辺の白い花瓶に目を移す。活けられた一本の赤薔薇。日を浴びて、短い影を落としている。手紙とともに届けられたのだそうだ。
キヤは先ほどまで読んでいた『赤薔薇の誘惑』を思い出す。あの物語のキーワードは、タイトルにもなった赤薔薇でなかったか。
物語に出てくる謎の青年は言うのだ。
『赤い薔薇はあなたの唇の色。そしてあなたの情熱的な心を表すように思うから』
――物語の赤薔薇が『情熱の心』の寓意として用いられていることを知っていながら贈っているのだとすれば。
そこまで思いかけてから、キヤはお嬢様に目を戻す。……お嬢様はまだ手紙に感心している様子だった。どういうふうに返事すればいいのかしら、と泡を食って言いに来たのはお嬢様の方だというのに、のんきなものである。
「早く読んでしまわないと――私は帰らせていただきますよ」
「えっ、それはだめ。待って待って。今読むから!」
慌てて目を通し始めるお嬢様。よく動く緑の瞳が左右に揺れている。
――『魅入られてしまった』というのならいいのだけれど。
セフィーヌお嬢様を大事にしてきたキヤたちのように。




