夕_大通
一度、正面玄関へと戻る。
意味もわからぬまま掲示板を眺め、どこで何を教わるのかもわからぬまま講義室を順に覗いていき、本館を出て、大人数収容可能の講堂やら、見るも厳かな図書館やら、今日はすでに営業終了した食堂やら、居並ぶ別棟たちのせめて位置関係くらいは頭に入れて。とりあえず、なんとなくは明日の流れを想像できた。
なんだかお腹が空いてしまった頃、夕暮れに染まる学院を出る。
講義を受けるのは明日から。済んだ部分を振り返ってなどくれないから、わからないことは全部自分で調べて学ぶ必要がある。とはいえそれは碧流に限った話ではなく、学院生は皆入学時期がバラバラだから、誰もが通る道だった。
まずはわからないこと、身につけなければいけないことを把握しよう。
当面の目標を決め、とりあえず気合いだけは入れて。あとは英気を養うことだ。
学院を出ると、どうしても嵩山 (スウザン) の赤茶けた巨体が目に入る。夕染めになお赤いその独立峰は、街の北東にそびえて央都を見下ろしている。しかし実際は嵩山の麓に街が作られたというのが正確なところ。この嵩山と、街を南北に分ける雄大な泰河 (タイガ) の流れが、央香国の都である泰陽 (タイヨウ) の象徴だった。
学院は街の中心である円形広場に面している。広場には公共の施設が多く並んでおり、学院の他には議事堂や裁判所、大使館や迎賓館が続く。学院を出ても、学院内以上に開放感を味わえない緊迫感のある環境だ。
泰陽はこの広場を東西に貫く大通りを境に、その面貌を大きく変える。大通りは、街の東端である始原 (シゲン) 門から始まり、嵩山の麓、嵩泰 (スウタイ) 教の大寺院の前を横切り、中央の広場を抜けて西端の建国 (ケンコク) 門へと至る。
大きく分けて、大通りの北は高級、南は庶民的と思えばわかりやすい。広場から北へ向かえば、他国の使者が利用する高級宿やそれをもてなす高級料理店が並び、士族が住む高級住宅街を経て、皇宮に至る。南には、大通り沿いこそ小綺麗な店が並ぶけれど、少し路地に入れば庶民派の食堂や酒場、軒先で生活用品を売るような雑多な商店街へと姿を変え、次第に庶民たちが暮らす住宅街が広がって、やがて街を東西に流れる泰河で閉じる。
泰河を渡れば、街は一変する。泰陰 (タイイン) と呼ばれるその土地は、そもそも計画的に作られた町ではない。初めは泰陽で住居を得られない貧困層が住み着き、次第に央香国全体から、今では泰皇国全体から食い詰めたあぶれ者たちが押しやられるように吹き溜まっている。警備の目が届かず、治安が悪いだけでなく、上下水道などの整備も十分に行き届いていないため、衛生上の問題も多い。少しでも金を得られれば清潔な泰陽へ移住できるとは言うものの、泰陰の人口は増加の一途を辿っており、泰陽のみならず、央香国全体規模での問題となっている、らしい。
とはいえ、流族の善良な一学院生にはそれも関係のない話だ。
学生寮は大通りを西へ進んだ先にある。もちろん碧流もしばらくは大通りに従って歩いていた、のだが。
大通りは、国の大動脈らしく、馬車の通りは多いが、それでも余りある道幅がある。にもかかわらず、人通りはほとんどなかった。もちろん大通り沿いにも店はあるが、入って行く客は皆さま馬車でのご来店。つまりご立派な上流階級の方々しかいない。そんな目にする人すべてが歩きなどしない上流である中、碧流は一人、歩いている。何も悪いことはしていない。別に蔑まれる視線もない。しかし。
「これが央都の洗礼か。。。」
居心地の悪さに耐えきれず、碧流は大通りから逃げるように道を曲がった。
一本ずれるだけで、賑わいの質が変わった。
大通りには遠く及ばないものの十分な道幅のその通りは、にもかかわらず中央に人が一人ようやく通れるほどの幅のみを残して、テーブルと椅子とに埋め尽くされていた。通りの両側に並ぶのはほぼ食堂、いや酒場。でなければ屋台。
折しも夕方。一足早く仕事を終えたらしい人々が、早くも空きっ腹を抱えかねてうろつき出していた。仕事終わりのこの時間帯なら、店の中まで入るのもまどろっこしく、とにかく早く一杯空けたい様子。それを捕まえんと、立ち呑み酒場の看板娘たちも呼び込みの声を張り上げる。酒を出す店があれば、当然肴を出す店も必要で。とりどりのつまみを並べた屋台は、匂いと音とで客を引く。芳ばしい薫りを放つ串焼き、ふっかふかの饅頭、弾ける音まで美味しそうな揚げ物から、具も沢山の熱々スープの類まで。どれも間違いないものばかりが並んでいた。
ぐぐぅとひとつ、小腹が鳴った。
「――――ここで、英気は養えない気がする。」
いや、養える。むしろ養うべき場所だ。しかしそれは、金があるならば、だ。
碧流は、いや流族は、決して裕福ではない。学院への入学には旅費も含めて多額の資金が掛かっている。しかも、そのおかげで寮内での食事、学院の食堂での食事は無料だ。それが入学金に含まれているのだとしても、いや、であればこそ、食事は寮、もしくは食堂で済ますべきだ、満たすべきだ。こんな場所でふらっと小腹なんか満たしてはいけない。申し訳が立たない。わかっている、わかっているさ。
碧流はまたも逃げるように、道を代えようとした。その時――――
「だぁっ! このクソ泥棒っ!!」
叫んだのは、饅頭屋。
その目の前には、代金を支払おうという姿勢のまま固まった女性。どちらの手にも饅頭の姿はない。受け渡し時を狙われたか。
状況を把握した碧流の元へ、饅頭の包みを片手に、フード付きのマントを羽織った人影が走ってきた。
「そいつだ! 捕まえてくれっ!!」
重ねて怒鳴る饅頭屋。一杯空けた男たちの瞳に、おもしろがりの光が灯る。
追いかける者、行く手を阻む者、取り押さえようと飛びかかる者。しかしフードはどれもかわして走り抜ける。速く、すばしっこい。テーブルを倒し、椅子を蹴飛ばす。巻き込まれた男が数人すっ転んだ。腕をまくる男はなおも増えるが、連携のない手数ではいくら増えても捕まえるのは難しいだろう。
碧流はとっさに、周りの街並みを見回した。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
伸びてくる手をかわし、足を飛び越え、飛んでくる網から身を避ける。
……って、なんてもの投げてくるんだよ!
内心毒づきながらも、脚は止めない。くわえた饅頭の包みだって離さない。街のモンなんかに捕まるもんか。
酒場の前の樽を踏み台に、宙へ舞い上がる。狙いは二階建ての酒場。一階の庇を掴んで身体を持ち上げ、二階のバルコニーの欄干を蹴って、一気に屋根の上まで。
ここまで登れば、もう追っ手はついて来られない。わぁわぁ言ってる地上を悠然と見下ろしてやってから、屋根伝いに人気のない路地を探す。
屋根の上で見下しながら食べるのもいいけど、あんまり怪盗らしくないし、やっぱり地面の上が落ち着くし。
薄暗がりの裏路地に、音もなく着地。人目を切るのに少し手間取ったけど、饅頭が冷めるにはまだ早い。ここなら路地の口を塞がれたって、また簡単に登れるし。
万事成功。これぞ充実。しかも本日の戦利品はなんと二つ。働いた後のご褒美はうれしいぞっ、と。
「――――はい、残念でした。」
勝利の喜びとともに饅頭の包みを掲げた腕が、背後から伸びてきた手に掴まれた。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
掴んだ腕の予想外の細さに驚く。
泥棒がくるりと振り向いて、その答えが判明した。フードの下から覗いたのは、褐色の肌の女の子の顔。この肌色は泰陽では珍しいはず。歳の頃は碧流と同年代。細身だが、身長も同じか、いや、少し高いか。
ともかく、場当たりではあったが、捕まえられてよかった。泥棒の動きを見て取り押さえるのは早々に諦め、降りてきそうな場所を予想して先回りしてはみたのだが。まだ土地勘のないこの街で、地上から屋根の上のルートを想像したのはほとんど勘だった。それでもなんとかこうして泥棒は碧流の手の内にいる。あとは饅頭屋なり警備隊なりに引き渡せば一件落着だ。
「盗みは良くないですよ。ほら、戻りましょう」
しかし捕まった彼女は、捕まえている碧流の顔をまじまじと眺めた後で、
「しーーーーっ」
と、唇に人差し指を立てて見せた。
「……いや、見逃しませんよ?」
そもそも誰も聞いてないし。
大人しく従ってくれないなら仕方ない。ちょっと強めに腕を引いて歩き出す。
「待って!」
拒んだ声は想像以上に深刻で、思わず碧流は足を止めた。
「待って。今から戻ったって、この饅頭は冷めちゃうよ。もう売れないよ! なら、美味しいうちに食べてあげたい。その方が、二人のためだと、思わない?」
潤んだ瞳で、擬人化された饅頭を愛おしむように見つめる少女。
「ほら、今ならこんなに美味しそう。。。」
馥郁とした薫りが、ふわりと碧流の鼻孔をくすぐった。
……うん。一瞬、正しいことを言ってるように感じるところだった。
碧流は改めて彼女の腕を掴み直す。
「冷めたら蒸し直せばいいんです。ほら、早く」
「や〜だ〜、そんなの認めない〜。い〜ま〜食〜べ〜る〜」
駄々っ子になった泥棒を引きずる。フードが落ちて、紅色の髪が露わになった。
紅色。朱の族色。朱は南須国の国色。つまりこの娘は南須国の出身だから、、、
というところで思考を止める。余計な癖がついたが、彼女がどこの出身でも泥棒であることに変わりはない。ここは心を鬼にして――――がぶっと。
「――――がぶ?」
異様な音に振り返ると、彼女は碧流に腕を掴まれたまま、その手にした饅頭に、包みの上から食いついていた。
「……は !?」
驚きで、碧流の手が緩んだ瞬間。
振り払った彼女は素早くもう片方の手を伸ばして、包みを開封。改めて食べかけの饅頭に直接食らいつくと、もう一つの饅頭を有無を言わさず碧流の口へと。
「――――がぶ。」
思わず噛み付いてしまう碧流。じゅわりと肉汁が広がった。
美味しい。
彼女は肉餡のついた口の端をニヤリと上げて。
「アンタも食べたね! これで、同罪!!」
ビシッと、碧流の顔を指差した。
言い返したいことは山ほどあるが、碧流の口は芳醇な肉汁で溢れていて。
「ははははは〜っ! また会おう、さらばだっ !!」
再び饅頭を咥え直した彼女が、高笑いとともに屋根の向こうへと消えていくのを、ただ見送ることしかできなかった。
「――――また、会うの?」