灼熱の犬飼さんその5 03 ~誰かが困っている時に、我らはこの拳一つ蹴り一つで何とかできるかもしれない力を持っている。それを忘れてはならん~
放課後の校庭の一角。走り高跳びの練習に望む列の中に鬼越の姿があった。もちろんその集団の中には陽子の姿もある。
「次、仮入部の生徒――鬼越さん、か。じゃあ次、鬼越!」
「はい」
順番待ちをしていた鬼越は、呼ばれると静かに答えて前に出た。上下とも学校指定のジャージである。ジャージの中身は下着だけの様子。急に仮入部と言われたのでこれしかなかったらしいので、もしジャージの下がずれてしまったら園児たちからもらったプレゼントが覗いてしまうことになる。
そんな見た目だけは初々しい仮入部生っぽくなっている鬼越は、一つ深呼吸をするとそのまま走り出した。
「はっ」
小さく気合を入れて加速しながら跳び上がる。そして体を捻りながら目の前のバーを巻き込むようにして宙を翔ける。鬼越は上位者向けの結構な高さのバーのクリアに成功した。
「……今の高さをベリーロールで?」
しかしてそのジャンプ方法を目撃していた全員が目を丸くした。
「――いえ、飛び方など良く分からないので、棒を跨ぐようにして跳んだだけなのですが」
転がったマットから立ち上がりながら鬼越が、バーの横に立っている顧問にそう答える。その言葉に更に皆唖然となる。
「……えーと、犬飼」
「? はーい」
並んで順番待ちをしていた陽子は突然呼ばれて顧問の下へと走った。陽子はいつも通りのビキニウェアだ(制服を脱いだだけとも言う)。
「お前が連れてきた新人、跳び方とか全然分らないらしいから、お前が色々と教えてやってくれ」
「?」といった風に鬼越の方を見た後「あ、そういえば」と手をポンッと叩く陽子。
「ミユキなら普通に跳べるかと思って何もいわなかったけど、今のベリーロールって適当に跳んでのクリアだったんだ」
陽子も陽子で鬼越の身体能力の高さはなんとなく分るので、なんでもないことのように言うが、その言葉で他の者は更に開いた口が塞がらなくなる。
「よし、あそこの鉄棒のところで教えてあげるよ」
「すまんな」
二人はそのまま校庭の隅にある三段並びの鉄棒の所へ走った。
「……なんかすんごい新人が来ちゃいましたね」
思わず練習が止まってしまった空気に、女子陸上部の部長が顧問の下へ来てそう言う。
「彼女たちの前では絶対に言わないけどさ」
鉄棒を前にして何ごとか話し合っている二人を遠くに見ながら顧問が言う。
「見た目も力もバケモノだよ、二人とも」
一番低い鉄棒に腰の部分を当てて鬼越が背面跳びのポーズをするのを、横から支えながら陽子が教えていた。鬼越の体を両腕で支えて背面跳びのポーズのまま少し浮かせて、何ごとか伝えている。
「犬飼の方はまだ無意識に力をセーブしている部分があるけど、仮入部生の方にはそれは全くない。常に実戦仕様……そんな感じ」
普通の人間からすると、あんな指導方法で背面跳びが身につくとは思えないが、彼女らにとってはそれで十分なのだろう。やり方さえ分れば後は身体能力で補ってしまう。
「犬飼にしてもこれからあの仮入部生から色々学んでいけば、今まで失敗していたバーの高さなんて軽く飛んでいけるようになる、間違いなく」
「じゃあ我が高校の陸上部は大会で優勝しまくりということに?」
「いや、普通の競技会には出してもらえなくな……いや、自分で気付いちゃうんじゃないのかな、自分は一般的な競技会には出てはいけないってことに」
部長の言葉に顧問は少し悲しいトーンで答えた。
「そしてそのために生まれてきたんだろうしな、我々普通の人間では届かない、どこかとてつもなく高くて遠い場所へ行くために」
「……」
「普通の人間の枠組みには入りきらない彼女たちは、もうすぐいなくなってしまう、自らの意思で。普通ではない場所へ行くために」
顧問が人生の先達であるからこそ分ることを部長に語っていると、練習(?)を終えた陽子と鬼越の二人が戻ってきた。
「もういいの?」
隣にいた部長がさすがに訊いた。
「跳び方の術法に関しては理解できましたので」
「……じゃあ、さっそく跳んでみろ」
既に自分の指導力を超えた部分にいるであろう鬼越に対して、顧問はその力を惜しみなく発揮しろと指示を出した。
鬼越は「はい」と小さく答えて、スタート位置に着く。そしてバーに向かってダッシュを決め、そのままの勢いで跳び上がり体を捻る。多少荒削りだが初めてとは思えない背面跳びを見せた。
「……」
そして鬼越はバーの上を背中もお尻も10センチ以上の余裕を残して越えていった。それは陽子が日々挑戦する高さと同じくらい。
「すごーい! やっぱりやり方覚えたら直ぐに跳べちゃうね!」
バーの横で見ていた陽子が鬼越の背面跳びに感嘆の声を上げる。しかしそうやって素直にはしゃいだ声を上げたのは陽子一人だった。
――普通の人間の枠組みには入りきらない彼女たちは、もうすぐいなくなってしまう、自らの意思で、普通ではない場所へ行くために――
陽子以外の者の頭の中にはその言葉が響いていた。
「……」
見事にバーをクリアしてマットに落ちた鬼越も、周りの空気の中からその言葉を感じ取っていた。
「よーし、ボクもがんばんなきゃーっ」
しかして陽子一人だけが、普段通り。高飛び練習の順番待ちの中に、なんでもないことのように戻っていく。
そしていつの日か気付くだろう、その時の何も知らない自分が、一番しあわせな時代だったということを。
「お前はまだ自分自身に持たされた力を、十割全て発揮しようとは思っていないのではないのか?」
部活動の時間を終え、更衣室でシャワーと着替えを終えた鬼越が部室を出ながら言う。
「持たされた力?」
同じようにシャワーと着替えを済ませた陽子が後に続く。部活終わりの陽子はただ寮に帰るだけなら普通の下着に着替えるのだが、本日は早朝に鬼越にスカートをめくられてしまったのが効いているのか、洗い立てのもう一着あるビキニユニフォームを中に着ている。本能的防御が働いているらしい。鬼越に関しては昨日もらった下着のもう一種類の方である、黄色と濃いブルーの縞柄ショーツに穿き替えている。汗をかいてしまったので、とりあえず鞄の中に未開封のまま放り込んでいた贈呈品の一つに替えたらしい。
ちなみに一人は新一年生、一人は仮入部員ということで、二人がシャワーを使ったのは最後である。陽子に関しては特に抜け毛が酷いので、いつも一番最後にしてくださいとは部員全員に言ってある。
そうしてシャワー室と部室の軽い清掃を済ませて出てきた時に、陽子はそんな風に鬼越に言われた。
「まだ普通でありたいと心のどこかで思っているのだろう、狼人であるのに」
歩きながら、更に覆い被せるように鬼越が言う。
「ずいぶん厳しいこと言うね」
「アタシにフォスベリー・フロップというものを教えてくれた礼だ」
鬼越が背面跳びを原初の言葉でいう。陽子に跳び方を教えられた時に軽く歴史的背景も説明されたのだろう。
「またきっついお礼だね」
しかしそんなことを面と向かって言ってくれるのは鬼越の他にはいないに違いない。その意味では他には変えがたい礼であろう、陽子にとっては。
「アタシは教えられたフォスベリー・フロップで跳んではいたが、なるほど両足の力を最大限に使うにはかなり有効な跳び方だが、その直前に跳んでいた自分なりの跳び方の方が自由だったし、もっと高く跳べるような気はした」
「……それは」
確かに陽子も最初に跳んだ変形ベリーロールの方が、のびのびと跳んでいたようにも思う。そして鬼越はそれでクリアもしているのだ。
「型にはまった跳び方ではなく、お前自身もお前が跳びたいように跳べば更なる高さを跳べるのではないのか? わざわざ自分にフォスベリー・フロップという枷をはめて、無理やり『普通という自分』を演じていないか?」
「……」
その言葉に受け答えが思いつかない状態で、陽子は今の自分を考える。
鬼越が跳んでいくところを見た後に自分も跳んだとき、普段は使っていない筋肉が動いたような感じがしていた。いつもより伸びやかに飛べたような気がする。
鬼越が跳んだ設定の高さよりも自分は高い高さを跳ぶので、結局いつものように尻尾が当たってしまってバーは落ちたが、それでもこんなにも気持ち良く跳べたのは始めての経験のような気がする。今日はやっぱりダメだったけど、明日から練習すればクリアできるのは確実に分かったような。
それは無意識のうちにセーブしていた身体の枷が外れたからだろう。今までは周りには普通の人間しかいないのだから、それに合わせて自分でも気づかないうちに力が加減されていた。
しかし鬼越は背面跳び(フォスベリー・フロップ)というもの自体で自分に枷をはめていると指摘する。
(……だってボクは普通の女の子として生きて普通の生活を送るのを望んでいるんだから)
普通の世界の中で普通の女の子のように生きてきた自分。鬼越の登場によって、それが少し崩れた自分。
鬼越の跳び方を目の当たりにして、体の方が勝手に学習してしまったのだろう。
他の陸上部員は普通の人間であるから、陽子が無意識のうちに学び取れる要素というものは少ない。陸上競技とは、素直に体力勝負で単純な力のせめぎ合いを、極限まで争うものだからだ。
だからこそ、普通の人間の限界を軽く超えてしまう鬼越がいたからこそ、それを見て知らずの内に学習してしまった今日の陽子は、いつもより身体能力が上がっていると感じたのだろう。
「自分に恐れているのだろう」
鬼越が唐突に発した言葉に、陽子の心臓がどきりと跳ねる。
「……」
あと少しバーの上を高く跳べるだけを望んでいたのに、このまま自分の身体能力が上がっていけば、もはや高飛びの棒など意味を成さなくなる。もうそれでは普通に陸上競技なんてやってられない。
「誰かが困っている時に、我らはこの拳一つ蹴り一つで何とかできるかもしれない力を持っている。それを忘れてはならん」
鬼越がさらに言葉を重ねる。彼女は鬼として生まれてきたから正義の為に拳を振るうのは矜持に反する。しかし鬼は悪役であって悪人ではないことも分かっている。生まれながらにして悪人であるものなど存在し得ない。だから弱きものを守るために鬼もその強き力を振るう。陽子とヒトミを守ったように。
強き者は弱き者を守れる力を持っている。それを正しく使うことは悪いことじゃない。そして狼人という亜人類である陽子はその力を持っている。
陽子もその心根にある正義感に従ってヒトミのことを全力で助けた。それは自分の狼人としての身体能力の高さを信じてのこと。無意識の内では、陽子も普通の人間を越える生まれながらに持たされた力を使うのを躊躇しない。自分を異端の者として迫害する人間から脱出するには必要な力だから。
陽子は後日、巫女の彼女には「ボクみたいな普通の女の子じゃ全然敵わないよ」と、異常から通常への修正を行っている。意識的に無意識を解除しておかなければならないと、そう無意識に思ったからだ。
普通以上の力を無意識に使うようになってしまったら、せっかく普通の中に溶け込めて生きていけている今の生活が壊れてしまうかもしれない。
陽子にとってはそれが一番怖い。
「……」
『一旦寮に戻って今夜探索に出るための再準備をする』と告げて鬼越は寮に戻っていった。
陽子は「もう少し涼んでから帰りたい」と告げ、寮への帰り道とは反対の道を歩いて行った。鬼越は「そうか」と一言だけ残し寮へと帰っていった。鬼越の性格からしてこういう場面では、特に何も詮索せず放っておいてくれるのはありがたかった。
「……」
一人となった陽子は海沿いの道を歩きながら考えていた。
鬼越と出会えたのは嬉しいけれど、鬼越と出会わなければ自分は普通でいられたかも知れない。
でも鬼越と言う存在はただのきっかけに過ぎなかったのだろう。
鬼越との出会いは崩落事故のようなものであるとは思った。誰しもが抱える普通の生活の中にある危険が、たまたま自分の目の前に飛び出してきただけだと。
だがしかし、自分はたとえいきなり頭上に何かが降ってきても、それすらも跳んで避けて、体に当たったら大惨事が起こったという事実すら無かったことに出来るのではないのか。
突発的な事故に巻き込まれるのすら回避できてしまうのであれば、それはもう普通じゃない。自分自身の身体能力は、このまま行けばその普通を超えてしまう。
そしてその力が自分自身で制御できなくなったとしたら。超常の力を無意識に振るい始めたら。
「……」
三叉路を歩いていると、道路の一箇所が光に包まれているのを見つけた。上を見上げると夕方間近の午後の光を受けたカーブミラーが、日の光を反射させ地面に落としていた。
「……」
上から見下ろしている鏡を見ると、そこには制服以外銀色をしている女の子が写っている。自分自身に呆然とする表情で。
「……ボクは、修正できる領域にいるのかな、まだ普通の女の子として生きていける……」
同時刻、保育園。
「うつせみのじゅつっ!」
一人の園児がそう言いながら、クッションに園児服を被せたもの壁に立て掛けるとその場から走り去って、ロッカーの陰に隠れた。
「うはー、にんじゅつにんじゅつ」
その場にいた園児の数人が、その昼寝用のクッションに園児服を被せたものを軽く蹴ったり殴ったりする。
当園ではこの空蝉の術ごっこが絶賛流行中だが、本日はそれに興じている者は半数に満たない。
多くの園児たちは男の子も女の子も、ガラス戸の向こうで作業する作業用重機を見ている。
「……」
そして多くの園児たちと同じように、ハルの瞳も庭に搬入されたパワーショベルへと釘付けになっていた。
それは前に怪人に襲われた時に見た建設用の大型のものではなく、庭園などの造成用にコンパクトにまとめられた小型のものなのだが、それでも目の前で動く本物の重機の迫力からは目が離せない。閉ざされた硝子の向こうで起動する重機を歓声を上げながらみんなで見ている。
もちろん子供であるから時間が経てば飽きてくるのは仕方なく、途中で空蝉の術ごっこに加わったり、疲れれば眠ってしまったりもするが、それでもしばらくすればまた園児たちが動く重機の前に集まってくるというローテーションでその日一日は過ぎていった。
他の園児たちとの良好な関係を戻したハル(この年頃の子供たちなので諍いがあっても仲直りのきっかけがあれば直ぐに関係は戻る。そして彼には狼女と鬼女との接触とお遊戯会という二つの大きなきっかけがあった訳だ)もその中に混じって造園作業中の重機を眺めていたのだが、造園作業中の庭の向こうの垣根、さらにその先の道路の向こうの電柱の影に、真っ黒い人のようなものがこちらの様子を伺っているのが見えた。重機を始めとして様々な物に遮られているはずだが、たまたま開いていた垣根の隙間からそれが見えた。
そしてハルはそれを本能的に危険だと感じた。前に怪人が現れた時に、重機の陰にスッと消えた人影と同じような気がした。
「せんせい! どうろのむこうにあやしいひとが!」
後ろにいた保育士のエプロンを咄嗟に掴むとハルはそう叫んでいた。
「なーにハル君、嘘ついちゃだめでしょ? またヨーコちゃんとミユキちゃんに来てもらうわよ?」
しかし保育士からはそんな風にあしらわれてしまった。陽子と鬼越に本当の狼少年のごとくこらしめられてから二日しか経っていないので、まだ懲りてないのか? と思われてしまっても仕方ない。
「ちがうんだよ! ほんとにあやしいひとが!」
「ハルー、そんなこといってるとヨーコちゃんとミユキちゃんがまたくるぞー」
「こんどはヨーコちゃんにたべられちゃうんじゃないのかー」
園児たちからわははっと笑いが零れる。他の園児たちもハルの言葉を信用していない。
「……」
正に狼少年の教訓をハルは肌で感じた。
誰も自分ことを信用してくれない。しかもそれは他の誰の所為でもない、自分の所為だ。
「……」
ハルはパワーショベルの動きに興じる他の園児たちの輪を抜けて、そっと室内から出た。保育士も他のことをしていたのか抜け出したハルに気付かなかった。
「……」
自分で確かめるしかない。
自分のこの目で見て、その正体を確認して保育士に言えば、それで信用してもらえるはず。
ハルはその一心で玄関に行き、外へ出るために下駄箱から靴を出して履いた。靴を履いている時、庭から聞こえていた騒音が停止したのをハルは知った。これは午前中に一回、お昼にも一回あった。パワーショベルを運転士が降りて休憩しているに違いない。
ハルは静かになった園から外へと出た。
「――!」
ハルが外に出た瞬間、電柱の後ろで様子を伺っていた真っ黒い人のようなものが小走りに走ると、そのまま楽々と垣根を飛び越え、着地した瞬間に手に持った懐中電灯のような機械を停止したパワーショベルへ向けて照射した。




