第一話
※管理人が個人サイトで連載中のものを纏めて上げています。
「君は私の全てだ。こんな事になるとは知らなかった。すまない、君は私の無知を呪ってくれ。私は君以外の全てを呪おう。この身朽ち果てようとも、この魂を以って途切れる事のない呪いを君以外の全てへ捧ぐ。…最期にもう一度言わせてくれ。君は私の全てだ。」
笹木千紘は有名人だった。
後一ヶ月で夏休み、という半端な時期に二木高校二年A組へ転入してきた彼女は、初日の一限目途中で早退し、それ以降学校へ来なくなった。
見た目は至って普通の女子高生で、鎖骨辺りまで伸びた黒髪は健康的な印象だったし、皆の前で自己紹介をした姿は、物怖じしなさそうな凜とした姿勢で自らの名を乗り、少し気が強いタイプなんだろうと感じたくらいだ。
そんな彼女が、席に着いて三十分程経った一限目の途中で気分が悪いと顔を真っ青にして席を立ち、そのまま不登校になるとは俺も含めて誰も想像のつかない事だったと思う。
担任教師の菅野もその一人で、何があったのか聞こうと継続的に自宅訪問や電話をしてみても、彼女は勿論、その親も不登校の理由を語らなかった。
元々、都会から外れた田舎町にある小さな学校へやって来た転校生、というのもあり、『不登校の転校生』という通り名と共に笹木千紘の名前は学校内へすぐに広まっていった。
笹木が不登校になって二週間。雲が茜色に染まり始めた帰路を、俺は溜息を吐いて歩いていた。
「行きたくねぇ…。」
そう呟いて手元の封筒を見下ろす。
俺はどこにでもいる普通…、寧ろ普通よりも若干根暗で目立たない人間だと自負している。友人はいないわけではないが多くはないし、人の輪の中に自ら入っていくことはしないし、「青春最高!」などと宣って夜中に仲間と意味も無く全力疾走するような勢いも持ち合わせてはいない。つまり、手の掛かる問題児でも無ければ優良生徒でもない。陰日向でもない中途半端な立場を小学生の頃からキープしてきた俺の、教師との接点なんて朝の出席確認時か面談時くらいだ。そんな俺が、いつも通りの一日を過ごし、あと少しで帰れると少しソワソワしていた終礼で「木村は帰る前に職員室に来るように。」と突然菅野から呼び出されたもんだから、知らぬところで何かしただろうかと浮つき気味だった気持ちを一気に緊張させ、ここ一週間程の記憶を散々巡らせた。
でも結局何も思い当たる事が無くて、及び腰で職員室のドアをノックして菅野の元へ行ってみれば、「笹木千紘に渡してくれ」とただの一言と共にこの封筒を押し付けられた。
何で俺が、と反論したかったが、菅野が俺を選んだ理由は明らかで、渋々黙って受け取った。
俺が選ばれた理由は簡単だ。
俺の家が笹木の家の隣だから。
もう俺も覚えていないくらい小さな頃に空き家となって以来、誰も住んでいなかった隣に笹木千紘が母親と二人で越して来た。
父親は海外赴任中らしい、というの母親伝で聞いた。
お隣さん同士なんだから手紙を持って行くのも苦じゃないだろ、という訳でめでたく俺が伝達係に任命されたのだ。
しかし、正直かなり面倒臭いし気が乗らない。
転校してきていきなり不登校になるとか良く分からない奴の家に行くのは決して楽しい事では無い。
帰る家が近づくにつれて俺の気分はどんどんと墜ちていく。歩き慣れた道は遅く歩いてもそれ程時間稼ぎなど出来ない。
あれこれ不満を並べているうちに、俺の家…の横、笹木千紘の家に到着した。
幼い頃から見慣れている家でも、人が住み始めたことで随分と印象が変わるものだ。
門から玄関までの間は色とりどりの花が植えられた鉢が並び置かれ、その周りを陶器で出来た動物のモニュメントが飾り付けられている。生活感の無かった古びた空き家がまるで外国の家のような雰囲気を出していた。
玄関の前に着いてインターホンを押すと、良く聞く電子音がスピーカーと家の中から聞こえた。
『…はい、どちら様ですか?』
暫くしてスピーカーから聞こえた声は穏やかな女性の声。母親が出たのだろう。転校初日に聞いた笹木千紘の声の印象とは違うように感じた。
「あの、ち、千紘さんと同じクラスで隣の家の木村です。菅野先生に頼まれたプリント持ってきました。」
少し緊張してたどたどしい話し方になってしまったが、俺が言い終えると、インターホンの向こうの人は少し黙ってしまった。
「………今開けますね。」
不思議な間の後、ガチャン、と勢い良く受話器を置いた音が聞こえ、家の中からドタドタと足音が近づいてくるのが聞こえた。
そのまま玄関の扉が凄い勢いで開き、俺の額にドアの角がぶつかった。外側に開く扉だったのか。うちは引き戸だ。
と冷静に考えながらも頭はしっかりと痛覚を働かせる。
「痛ぁ!?」
「あ!ごめんね木村君!」
思わず大きな声を上げて額を抑え、痛みに耐える俺の顔を覗き込んだのは、笹木千紘の母親では無く笹木千紘本人だった。
「さ、笹木!?…でぇ!?ごふっ!」
吃驚して後退ると、今度は足元の小さな段差にバランスを崩して尻餅をついてしまった。
口から無意識に変な声が出る。
「木村君!?大丈夫!?」
笹木が慌てて側に寄ってしゃがみこみ、心配そうな目で俺を見つめてきた。
その視線が恥ずかしくてそっぽを向いて急ぎ立ち上がる。
「大丈夫。」
いきなりコントのような場面を見せてしまった事にばつが悪い思いで、素っ気ない声になった。
「…ドアぶつけちゃって、ごめんね。痛かったよね。ごめん。」
笹木が俯いたまま頭を下げる。
「あ、いや、怒ってるとかそういうんじゃなくて、変な声上げた自分が恥ずかしいというか、男としてはこれくらいの事で動じたくなかったというか…。」
笹木に悪気が無かったように、俺も悪気は無い事を伝えようと斜めに掛けた通学鞄のベルトを握り締めて視線を泳がせて言葉を繋ぐ。
「あんなの母さんにサランラップの芯で脳天叩かれた痛みに比べれば蚊に刺された程度だし…。えっと、だから、その、問題無いから。全く、問題無し。」
大丈夫だと最後にチラリと目を合わせて、頷いた。
そのまま手に持った封筒を渡すタイミングを図っていると、楽しそうな笑い声が目の前から聞こえた。
顔を上げると笹木が口元を手で隠して笑っている。
変な奴だと思われたと内心焦りながらもどうして良いのか分からずただ見ていると、落ち着きを取り戻したらしい笹木が俺の目を見て笑った。
「ありがとう木村君。」
初めて見た笹木の笑顔は、至って普通の女の子の笑顔だった。その笑顔が俺にはとても眩しく見えて胸が騒いだ。
そのせいなのか、特に何の反応も出来ず、笹木が不思議そうに俺の名前を呼ぶまでそのまま固まっていた。
「こ、これ、菅野先生から。プリントとかだって。」
我に返り慌てて本題を切り出すと、笹木は突き出された封筒を少し見て、もう一度笑ってそれを受け取った。
「届けてくれたんだね、ありがとう。」
「まぁ、隣の家だし。」
「そうなんだよね。引越しの挨拶、お母さんしか行ってないからこうして話すの初めてだね。」
笹木の言葉に黙って頷くしか出来ない。
こういう時、会話を広げるスキルを持ち合わせていないと物凄く気まずい。
しかし、笹木はさして気にする様子もなく右手を差し出した。
「改めまして、初めまして。笹木千紘です。よろしく。」
差し出された右手と笹木の顔を交互に見てから、俺も右手を差し出す。
「…木村奈月です。よろしく。」
触れた温度は少し冷たく、感触は柔らかい。
恥ずかしくて笹木の顔を直視出来なかったけれど、きっと笑顔なんだと思った。
普段からクラスの女子と話す事は滅多に無いし、人見知りの俺にとって、ほぼ初対面の女子とこんな近い距離で向き合うのは初めての経験だ。
心臓は緊張で高鳴っているのに、何故か心は落ち着いている。離れた右手が少し寂しい。
不思議な感覚に意識を向けていたら、笹木が俺の足元を見つめているのに気付いた。
笹木の視線を追って足元の少し後方を俺も見たけれど、特に変なものは見当たらない。
「…木村君、犬飼ってる?」
笹木が小さな声で呟く。
「いや、飼ってないけど。」
視線を戻して笹木を見ると、笹木は変わらず笑っていた。
ただ、先程までの柔らかさは感じない。
「ごめんね、変な事聞いて。プリントありがとう。ちゃんと学校行けるように頑張るね。」
話を切り上げるように一度頭を下げて、笹木は家の中へと戻っていく。
玄関のドアを閉める直前、動きを止めて俺を見た。
「あ、あの…!」
その一瞬、何か言わなきゃいけない気がして俺は咄嗟に口を開いた。
「あのさ、今日満月なんだ!」
結構な大きい声で発した言葉が脈絡無さすぎて、俺も笹木も固まる。
何を言っているんだ俺は。
俺の趣味は月の観察だったり、月をモチーフにしたグッズを収集することなのだが、その超個人的趣味と今は全く関係無いだろう。
「いや!満月だとテンション上がるっていうか、元気出るんだよ!何かさ、こう、神秘パワーっていうか!」
いやいやいや、満月でテンション上がるのは俺か狼男か宇宙的戦闘民族くらいだ。
もう自分でも何を言っているのか分からない。神秘パワーって何だ。
混乱して背中に冷や汗が伝い流れる。
何とかしてこの話を無事終了させなければと頭をフル回転させていると、笹木が俺の名前を呼んだ。
「私も好きだよ、お月様。だから今夜、満月見てパワー貰うね。」
そう言って、笑った。
柔らかくて温かい笑顔だった。
手を振って家の中へと戻っていった笹木を見届けた後も、俺は暫くそこから動けなかった。
今日は昼も夜も快晴で、夜空の黒に満月が良く映えている。
二階の俺の部屋には窓が二つあり、道路側の窓から見える夜空は遮るものが何も無いためいつもそこから月を観察していた。もう一方はカーテンすら殆ど開けた事がない。
隣の家…笹木の家が隣接しているから、そこからは殆ど夜空が見えないからだ。
今夜は数日前から楽しみにしていた満月の日なのに、俺は満月ではなく閉めたカーテンを見つめていた。
笹木と触れた右手を無意識に握り締める。
実際は短い時間だったんだろうけど、初対面の人とあんなに話したのは初めてだ。
笹木は人見知りでも話しやすいタイプなんだろうか。人見知りの俺は、まず殆どの場合見た目から受けた印象でその人と話せるか話せないかを判断する。目が笑ってない奴は無理、表情を判別し辛い奴も無理、表裏ありそうな奴も無理…となってくるとまぁ殆ど無理になってくるんだけれど、極稀に「あ、こいつは大丈夫だ」と思える奴と出会えたりする。
笹木もそのタイプか…と考えてみるけれど、転校初日の印象では苦手なタイプだと思ったような気がする。
そもそも、何故笹木は不登校なんだろうか。
今日、笹木と話してみて、彼女が何故不登校なのか余計分からなくなった。
とても身体や心に病気があるようには見えない。
実際は他人には分からないような辛い思いを抱えているのかもしれないけれど、もしそうだとしたらあんな風に笑えるのだろうか。
太陽のような、綺羅星のような、花のような、あの笑顔が出来るだろうか。
何もない俺には、あんな風に笑えない。
もっと笹木と話してみたい。
そんな想いが募る。
締め切ったカーテンの前に立ち、そっと手を掛けた。
ゆっくりと開けてみると、すぐそこに笹木の家の一室がある。
向かい側にも窓が付いていて、そこから見える部屋は暗く、窓に自分の顔が映っていた。
物置か普段使わない部屋なのか…。安心したような少し残念のような気がする。
何覗きみたいな事やってるんだ、とカーテンを再び閉めようとした時、向かい側のカーテンが開かれた。
その向こうに笹木千紘が立っている。
「ぶふぉ!?」
俺は吃驚して変な声を出すと、すぐさまカーテンを閉めた。
やばい、これは絶対不審な行動だ。
変態と罵られるかもしれない。
カーテンを握りしめた両手が震えている。
「木村君?おーい、木村くーん?」
しかし、窓の向こうから笹木が俺を呼んでいた。声の印象から怒ってはいないようだ。
恐る恐るカーテンと窓を開けて顔を覗かせると、笹木が笑って手を振っている。
「そこの部屋、木村君の部屋だったんだね。」
まだ少し混乱していた俺は、ただ何度も頷くだけの返事しか出来ない。
「普段はここ開けないんだけどさ、何となく開けてみたら木村君がいて吃驚したよー。」
恥ずかしそうに笑ってみせた笹木だったけれど、俺にはそれよりも弁明することで頭がいっぱいだった。
「決して!決して覗いていたわけじゃないから!覗きとか、そういうのマジで無いから!本当、たまたま、開けてただけだから!」
それはもう必死に弁明すると、笹木は楽しそうに腹を抱えて笑いだした。
「うんうん、大丈夫!分かってるから。分かってるからそんなに必死にならなくて大丈夫だよ。
笑いながら宥めてくる様子に、少し落ち着きを取り戻す。
小さくごめんと謝ると、笹木は首を横に振った。
「さっきまで満月見てたんだよ。綺麗だったね。まるで夜空にぽっかり穴が開いたみたい。」
「あぁ、俺も見てた。今夜は雲も無いから、すげぇくっきり見えたな。」
「木村君に教えてもらうまで今日が満月だって忘れてたから、見れて良かった。ありがとう。元気出たよ。」
「…でも、変な奴だって思ったよな。男が今日は満月だから、とか、絶対おかしいし。」
「そんなことないよ?お月様好きだって、本当だもん。小さな頃からお月様の絵を描いたりとか、アクセサリー集めたりとかしてたんだよ。」
そう言って、笹木は古びた三日月のネックレスを取り出して見せた。
「何か年季入ってるな。懐かしい感じがする。」
「うん。覚えてないんだけど、小さな頃からずっと持ってるんだ。お婆ちゃんのとかかもしれないね。今はこれが無いと落ち着かないっていうか…。」
「御守り?」
笹木は頷くと、笑って俺を見た。
笹木が笑顔だと、何故だか少し嬉しい。
「じゃあ、大事にしないとな。」
「うん!」
笹木が嬉しそうにネックレスを握りしめると、少し俯いてから顔を上げた。
「…木村君。私ね、明日学校行くよ。」
その声は震えていて、どこか不安げだ。
「大丈夫なのか?」
「うん。いつまでも、逃げてちゃ駄目だと思うから。」
きっと笹木は、小さな身体で何かに耐えている。
それだけは分かった。
「俺に出来る事、あれば言って。力になるよ。」
そう言うと、やっぱり笹木は笑った。
次の日。
いつもだったら一人気儘に登校するのだけれど、今日はそれをしてはいけない気がした。
いつもより早めに家を出て、玄関の前で笹木が出てくるのを待つ。
昨日少し距離が縮まったからといって、ここまでするのは迷惑だと思われるかもしれない。
それでも放っておけなかった。
「木村君?」
下を向いて携帯電話を弄っていたら、家から出てきた笹木が俺に気が付いて声を掛けた。
「おはよう。」
「う、うん。おはよう。…もしかして待っててくれた?」
俺が頷くと、笹木は照れくさそうに笑って横に立つ。
「迷惑かもしれないけど…。」
「迷惑じゃないよ!」
俺の言葉を遮るように笹木が少し大きな声を上げた。
「すっごく嬉しい!」
その笑顔に、待ってて良かったと心から思った。
「具合はどう?大丈夫?」
二人並んで同じ通学路を歩く。
「うん、今のところは大丈夫。」
笹木も穏やかな表情で、本当に大丈夫そうだ。
初夏の朝は爽やかな風が吹いて気持ちが良い。
田んぼに囲まれた通学路は何もないけれど、空の青さと稲の緑のコントラストは田舎の魅力の一つだと思う。
特に何か会話をしながらという訳ではなく、ポツポツと話しながらのんびり歩く。
「あ、ごめんなさい!」
突然、横を歩いていた笹木が立ち止まって何かに謝った。何かにぶつかったような様子だった。
「空が青くて綺麗だなーって思ってたら、全然前見てなかったよ。」
下げていた頭を上げ、少し前で立ち止まった俺の横に駆け寄ると苦笑いを浮かべる。
しかし、俺にはその行動の原因が分からない。
「…笹木、今誰に謝ったんだ?」
田んぼに囲まれた通学路。
近くには俺と笹木以外、誰も居なかった。
「…え?あ…。」
笹木は俯いて少し黙った後、「見間違いだった。」と小さく謝った。
それから笹木は俯いて黙り込んでしまい、その表情は見えなかったけれど、先程の元気さは無いように感じた。
学校に着いてからは、本人の知らぬところで有名となってしまった笹木への好奇の視線が多く集まった。
笹木自身もそれに気付いたのか自然と俺から距離を取るようになり、席が離れているのもあったけれど、教室に入ってからは黙って自分の席に着いていた。
「笹木さん、具合大丈夫?」
クラスの中心グループに属する女子三人が、心配してます風な表情で好奇心を隠しながら笹木に声を掛ける。
「うん、大丈夫。心配してくれてありがとう。」
俺の席からは笹木の表情は見えない。
でも、声の感じからして笑顔なんだろう。
「何かあったら言ってね!」
そんな会話をする笹木達を見ていて、もしかしたら側から見れば俺もあんな風に見えていたのかもしれないと思う。
笹木を心配する振りをして、自分の好奇心を満たすための偽善。
「木村、今日笹木さんと一緒に来たらしいじゃん。不登校の理由聞いた?」
数少ない友人の一人、石塚が声を潜めて俺に聞いてくるけれど、俺は無視をして机に突っ伏した。
暫くして朝礼のチャイムが鳴り、教室が少し静かになった。
一限目、二限目と特に問題は起こらなかったが、十分休みには、他の学年から笹木を見に来る者もいた。
しかし、笹木は特に体調に変化は無いようで、クラスメイトからの質問攻めにきちんと答えていた。
三限目、担任菅野の数学の時間。
授業開始二十分後の事だった。
突然笹木が立ち上がった。
背中を丸め、両腕で身体を包むようにして震えている。
「ど、どうした笹木?」
黒板に数式を書いていた菅野が振り返ると笹木に近寄る。
「来ないで!」
笹木が悲鳴にも近い声で叫んだ。
その声に菅野は驚き、立ち止まる。
「…ご、ごめんなさい。少し、具合…が…。」
笹木は、今にも泣き出しそうな声で息も途切れ途切れに謝る。
反射的に身体が動いていた。
プツリと糸が切れたかのように崩れ倒れる笹木の身体を、何とか抱きかかえる。
その際に石塚の鞄やら何やらを蹴飛ばしてしまったけれど、謝罪は後で良い。
「木村ファインプレーじゃん。」
近くのチャラい女子が、俺に親指を立てて見せた。
人見知りだけど、そういうノリは嫌いじゃない。
気を失ってしまった笹木を保健室に運び、一先ずその後の授業は再開された。
笹木の親とは中々連絡が付かず、放課後まで保健室のベッドで寝かせておこうということになり、放課後、俺は笹木の眠るベッドの横に座って様子を見ていた。
笹木の首に、昨日見せてもらった三日月のネックレスが光る。
懐かしい、そう思うのは何故なんだろう。
小さな子供の声が聞こえる。
「細いお月様は始まり。
まん丸お月様は終わり。
だから願い事は細いお月様にするんだよ。」
「じゃあ、これに毎日お願いする!ぜったい、また会いたいもん!」
「うん。つぎはさよならしないように、お願いする。」
誰だろう。
この会話を、俺は何処かで聞いたことがあるような気がする。
いつだろう。
「ーーー木村君。」
あ、誰かが俺を呼んでいる。
誰だろう、何処だろう。
「木村君、起きて。」
起きる?
「ふぇ?」
「木村君、起きた?」
顔を上げたすぐ先で、笹木が笑っている。
ぼんやりとした頭が段々覚醒してきた。
「…俺、寝てた?」
笹木が頷き、途端に恥ずかしさで顔が熱くなる。
「倒れた私の傍にいてくれたんでしょう?ありがとう。」
「い、いや…。結局寝たし…。って、具合大丈夫か?」
「うん、お陰様で。」
笹木はそう言うとベッドから降りて、内履きを履いた。
窓の外は茜空が黒へと染まり掛けている。
「歩ける?」
「うん。」
俺は持ってきておいた自分と笹木の鞄を肩に掛け、笹木と並んで玄関へと向かった。
もう他に生徒はいないのか、やけに静かな校舎だ。
「あー、ドア閉められてんな。」
外履きに履き替えて、玄関のドアを開こうと力を入れるも、ドアは開かない。
鍵を掛けられたのだろうと見たけれど、鍵は降りたままだった。
「あれ?何で開かないんだ?」
おかしいと思い、両手で渾身の力を込めてみるもドアが動く気配は無い。
ドアの調子が悪いのかと思い、仕方なく近くの窓から出ようとしてみたけれど、窓も開かなかった。
「何で…?おかしいだろこれ。」
慌てて他の窓を試してみるも、やはり外へ繋がる窓やドアはどれもビクともしない。
「笹木、なんかおかしいから二階の職員室に行って先生呼んで…。笹木?」
玄関に来てから黙ったままの笹木を見ると、廊下の先を凝視せて肩を震わせていた。
「どうした?大丈夫…、え?」
笹木の肩に手を置いた瞬間、それまで何も居なかった廊下にソレは突然現れた。
『熱い…熱い……』
黒い着物を着た髪の長い女。
その身体には炎が燃え上がり、表情は苦悶で歪んでいた。
地を這うような呻き声に、何人もの悲鳴が交じって聞こえる。
ゆっくりと、揺ら揺ら揺れながら近づいてくるソレは、明らかに人では無かった。
近付く距離に、俺は笹木の手を掴むとその場から離れるために走り出した。
無我夢中で走り、行き止まりになったところで近くの部屋へと逃げ込む。
「ちょ、調理室か…。」
ドアから離れて、調理台の間に身を隠すために
二人並んで座り込み、荒れた呼吸を整える。
「さ、笹木。大丈夫か?」
逃げるのに必死で笹木の足の速さとかを考えていなかった。
隣の笹木を見ると、笹木も肩で息をしながら頷いた。
「あ、あれは一体何だったんだ…。」
俺の呟きに、膝を抱えて泣き出す。
「ごめん、ごめんね…!私のせいで…!」
「何で笹木のせいなんだよ。」
「木村君がアレを見れたのは、私に触ったから…。私の力が、木村君に干渉してしまった…。」
言っている意味が分からない。
力?干渉?
「どういうこと?」
笹木は零した涙を拭うと、ポツリポツリと話し出す。
「私、幽霊が見えるの。小さい頃からずっと。すごくはっきり見えるから、最初は幽霊だって分からなかった。でも、周りの人がおかしいって言い始めて、それで自分はおかしいんだって知った…。」
段々と呼吸が落ち着いてきた。
笹木の横顔は、すごく辛そうに見える。
「お父さんがね、除霊師とかやってて、多分その影響だろうって。大きくなれば落ち着くって言われたんだけど、全然そんな事無くて。生きてる人と死んでる人の区別が出来ないくらい、今でもはっきり見える。」
都会は人も幽霊も多すぎて、私の心が壊れそうになったからここに越して来たの、と笹木は少し笑った。
「ここなら、少しくらいの幽霊がいても大丈夫かなって思ったけど…駄目だった…。すごく沢山いるの。それも、とてつもなく悪意を持った幽霊が、沢山。私の周りに、どんどん寄ってくる。」
笹木が両膝に顔を埋めて、声を震わせる。
「ごめんね、私が木村君を巻き込んじゃった…。ごめんね…。」
俺は少し迷って、笹木の髪に触れた。
「…大丈夫…って言ったら嘘になるけど…。幽霊とか初めて見たし、滅茶苦茶ビビったけど、でも笹木の様子がおかしかった理由は分かって良かった。」
「…気持ち悪いとか、変だとか、思わないの…?」
ゆっくりと顔を上げた笹木の頬に伝う涙を拭う。
「あの幽霊は気持ち悪いと思うけど、笹木をそうは思わないよ。実際この目で見たんだし。笹木が嘘ついてるとか思わない。」
笹木な目が涙を湛えて大きく揺れた。
「一人じゃないし。何とか頑張ろう。」
再び泣き出した笹木が落ち着くまで、俺はその頭を撫でて宥めた。
笹木の泣き顔を、可愛いと思ったのは秘密にしておく。