お隣の犬塚さんは猫舌だ
インターホンから聞こえる低い声。
開いたドアの向こうにいたのは――
「――猫おぉぉぅ!?」
叫んだ声は、微睡の間に居た私を眠りの縁から突き飛ばした。
一気に眠気が飛び、ぱっちり開いた目に移るのは見覚えのない天井だ。
何だ今の『猫』って寝言。
何か変な夢を見た気がしてならない。
猫がどうしたんだ、私。
…ていうか、ここどこだ。
慌てて起き上がれば、そこは段ボール箱があちこちに積まれて散らかっている十畳ほどの部屋だった。見覚えのある花柄のカーテンの隙間から朝の光が入ってきて、室内はぼんやりと薄暗い。
寝ぼけた頭が、ようやく新しい住居であることを認識する。
「そっか…引越ししたんだった…」
昨日越してきたばかりだ。どうりで天井に見覚えがない。
あははー、と一人で苦笑しながら、ベッドの縁に腰掛けて床に降りる。
昨日の内に家電製品は動く状態にしていたので、とりあえずテレビを点けた。立ち上がって、散らかった床の上のものを避けながらカーテンに近づく。朝のニュースが流れるのを聞きながら、しゃっとカーテンを開ければ日光が部屋の中を照らした。
いい天気だ、とベランダに通じる窓の鍵を開ける。からからと音を立ててサッシ窓を開ければ、秋の涼しい空気が入ってきて心地良い。
ビルの多い街中と違って、郊外の小さな町に吹く風には緑の匂いが多く混じっている。眺める景色の中にも緑が多く、高い建物が少ないこともあり遠くには山の稜線が見えた。何だか地元の田舎に帰ったようで懐かしい。
本当に引っ越したんだなー、と改めて実感しながら、昨日のことを思い出す。
夜は結局、片付けの途中で寝てしまったようだ。疲れていたのだろう。ご飯も碌に食べずに寝たせいか、お腹が極限に減っている。
米を今から研ぐのも面倒だな。
…あ、これ昨日も思ったっけ。
なんで買い物行かなかったんだろ。
そういえば、何か重大な事を忘れているような…。
うーん、とベランダの手すりに肘をついて考えていたとき、ふと鼻に煙草の匂いが掠めた。
風に乗って流れてきた煙を辿り、左隣を見てみれば。
ベランダで同じように手摺に肘をついて煙草をふかす男の姿がある。
第二ボタンまで開いたワイシャツにスラックス。出勤前のサラリーマンといった態だ。
背が高くて、細身の割にはがっしりしている。体格は好みのタイプだ。
だが――
「……猫…?」
「ああ。おはようございます、鳥野さん」
黒い猫の口から、普通に私の名前が出た。
なんで知っているのだろうと思いながらも、挨拶を返す。
「あ、おはようございます。……ええと、猫、ですか?」
「いいえ、ヒョウです。黒豹」
「……本物ですか?」
「本物ですよ。昨日も言ったじゃありませんか」
覚えてないですか?と、人の身体の上に黒い猫のような頭部を乗っけた男は首を傾げる。
黒い艶々した毛並みの中、黄金の色の目とその中できゅっと細くなった黒い瞳孔が私を見てくる。
「……あ」
思い出した。今思い出した。
そうだ昨日挨拶に行ったお隣さんだ。
二〇一号室の犬塚さん。猫なのに犬塚さんな人だ。
変な夢じゃなかった。現実だ。
昨日は実感が湧かなかったものの、今頃になって驚きががつんと脳にくる。
猫顔。本物の猫の顔。
被り物じゃない。嘘だろ。
ぽかーんと口を開ける私に、猫顔の犬塚さんがははっと笑う。
「昨日は反応が薄かったけど、今朝は普通に驚いていますね」
「お、驚きますよっ、そりゃあ…」
もごもごと言いながらも、叫んだり取り乱したり卒倒したりするほど驚いていない自分がいる。昨日一回見たせいだろうか。
あまり覚えていないので、ちゃんと犬塚さんを見てみようとじっと目線をやれば、気付いた彼が煙草を持った手を遠ざけた。
「すみません、煙かったですか?」
「あ、いいえ。その…煙草吸われるんですね」
「はい、時々」
観察していましたとは言えない私だったが、犬塚さんは持っていた煙草を灰皿に押し付けて消した。
気を遣ってくれたのだろう。なんだ、いい人だ。
感心していたら、少し気が緩んだせいか、お腹がぐうと鳴る。
はっとして隣を見やれば、犬塚さんはこちらをばっちり見ていた。彼はそっと金色の目を逸らして反対側を見ながらも、その肩はくつくつと震えている。
恥ずかしいやら情けないやら。
しかも今頃気付いたが、寝起きで寝巻、すっぴんという自分の状態。ぼさぼさの髪を梳いて急いで顔を隠しながら、私はベランダから引っ込もうとした。
しかし仕切り越しに犬塚さんの声が聞こえてくる。
「朝ご飯、まだですか?」
「え?あ、はい。……あのー、スーパーってもう開いてますかね?それかこの辺にコンビニは…」
「いや、十時開店なのでまだですよ。コンビニはここから自転車で十五分ほど行けばあります」
「そうですか…」
何てこったい。自転車はまだ持ってないから徒歩だと四十分以上かかるってことか。それじゃあやっぱりご飯を炊くしかない。
すきっ腹を抱えて、「それじゃ失礼します」と部屋の中に戻ろうとした私に、犬塚さんは再び声を掛けてくる。
「コンビニは遠いですけど、近くにモーニングを出している喫茶店はありますよ。よかったら一緒に行きますか?」
「……はい?」
*****
歩いて五分の喫茶店のモーニングセットは、コーヒーにトマトの入ったサラダと卵サンドがついて三百六十円だった。
卵サンドは、スクランブルエッグをマヨネーズで和えて挟んだものではなく、喫茶店でよく出るタイプのものだ。辛子のきいたマヨネーズを塗った分厚いトーストに、厚い卵焼きとケチャップを挟みこんだ一品で、美味しい上にボリュームがある。
「おいしいです」
「でしょう?」
目の前に座る黒猫もとい黒豹――じゃなくて犬塚さんは、大きな口でぱくりと卵サンドを齧る。
もくもくと噛んで目を細める姿は何となく可愛い。床近くで揺れる、黒く長いしっぽも可愛い。肉食獣だけど和む。
あっという間に卵サンドとサラダをたいらげた犬塚さんは、コーヒーを手に取った。
ふーふーと表面を吹き冷まして、なかなか口をつけない犬塚さん。
「……」
どうしよう、これは聞いていいのだろうか。
とても聞きたいのだが。
「あの、」
「猫舌なんです」
「……ですよねー」
しまった。先に答えられた。
うずうずしているのに気づかれたみたいだ。
犬塚さんはちょっとだけ眉(の位置だと思われるところ)を顰めて、ふうと溜息を付いた。
「何でみんなすぐに猫舌かって聞くんですかね。だいたい、猫だけが猫舌じゃないんですよ?普通、自然界にいる動物は熱い食べ物を食べないから苦手なんです。犬だって馬だってそうなんですから。それに人間にだって猫舌の人はいるんですし、そもそも猫舌というのは――」
懇々と説明を始める犬塚さんに、喫茶店のマスターが声を掛ける。
「犬塚さん、そろそろ行かないと仕事に間に合いませんよ」
「あ」
時計を示したマスターに、犬塚さんははたと腕時計を見やる
時刻を見た犬塚さんは慌てて立ち上がり、椅子に掛けていた背広を羽織った後、急いでコーヒーを飲んだ。
――「あちっ」と小さな声がしたのは聞こえないふりをしておいた。
「すみません、鳥野さん。先に出ますね」
「はい。連れてきてくれて、ありがとうございました」
「いいえ。それじゃ、また」
支払いを済ませて店の外に出やる犬塚さんを見送りながら、私は卵サンドの最後の一切れを手に取る。
もく、と食べていれば、マスターが犬塚さんの分の皿を下げにやってきた。目線を交わせば、双方堪えきれずに吹き出してしまう。
「面白い人でしょう?犬塚さん」
「はい」
ふふっと零れる笑いに、私の空腹も心も満たされたのだった。