9 一歩を踏み出す世界
カチャリ、と音を立てながら、僕は歩いていた。
戦場でない、外の世界を、僕は初めて、歩いていた。
「生命の樹」によって生かされることになった僕は、先日ダアトとの婚約を正式に結んだ。
結婚もそのうちするらしいが、めんどくさいのでそれはもうどうでもいい。
婚約が決まると、僕の自由度はいっきに上がった。
「生命の樹」の建物内であれば自由に動き回れるし、ダアトに新しいコンピュータももらった。全て監視付きではあるけれど。
とはいえ、めんどくさいので今までの生活とそう変わらない日々を過ごしている。
一番変わったのは、新しい義足をもらえたことだろう。
ダアトに車椅子に乗せられて、ある部屋に連れて行かれた時、僕はとても驚いたものだ。
『おじさん』
そこには、コンピュータに囲まれるように、部屋の主である、義肢装具士のおじさんがいた。昔とあまり変わらない、機械で埋め尽くされた部屋を、少しだけ懐かしく感じた。
『おう、おまえさん、髪伸びて女らしくなったな。玉の輿に乗るってのは本当か?』
『玉の輿?』
『金持ちの男に嫁ぐことよ』
『ああ……。ダーは、料理は美味しいし家事全般やってくれるけど、ここはいつも赤字経営だから玉の輿とは……』
事実を言ったのだがダアトは咳払いで遮り、おじさんに言った。
『彼女にまた義足をお願いしたいんです』
その言葉に僕はまた驚かされた。義足をもらえることは、その時初めて聞いたのだ。
『そりゃいいが。どんなのでもいいのか?』
『ええ、爆弾さえつけなければ』
『分かった。一から作り直すから少しかかるが』
『ええ、時間は気にしません。では、僕は仕事に戻りますが、よろしくお願いします』
ダアトはそう言って出て行ってしまい、僕は昔のようにおじさんと二人になった。
仕事というのは本当だろうけど、もしかしたら気を遣ったのかもしれない。
『ここで働いてたんだ』
『ああ。あそこにいた子らの義肢を整備してやれる人材がここにはそうおらんかったからな。おまえさんはもうそんなこと知っとるかと思っとったが』
『無事だったことは調べたけど、あんまりコンピュータに触れなかったから』
答えてもらえるか分からなかったから、ダアトにも聞かなかったし。
それに、さすがにないとは思うけど、おじさん経由でメールの犯人が僕だったってばれる可能性も考えてしまって、口にできなかったのだ。まあ、結局こんなことになってしまったけど。
『そうか……。まぁ、良くは知らんが色々やらかしたらしいな。らしくもなく』
僕は肩を竦めた。
話す間にも、おじさんは僕の身体のサイズを測ったり、手際良く作業を進めている。
『ここはあそこよりずっといい。わざわざ爆弾積んで壊すための義肢を作らんでよくなった。人のくせに人形みたいな子ばっかりで気持ちが悪かったがな、今は皆「人」になった。おまえさんも――』
わしわし、とおじさんは僕の頭を撫でた。
『まぁ、とにかく無事で幸せそうで良かった』
おじさんも少し変わったな、と思った。
こんな風に触れ合ったり、ちょっとでも笑った顔を見せる人ではなかったのに。
だけど、そうか、おじさんの目には僕が「幸せ」に見えるのか。
それは、奇妙な感覚だった。
久々におじさんとそうして色々なことを話せたのは、楽しかった。
少し意外だったのは、おじさんのもとに、ティファレトがちょくちょく助手として顔を見せているということだ。
彼女は幹部でありながら、自分以上の腕を持つおじさんに目を留めて弟子入り志願したらしい。おじさんは弟子などいらないと言ったようだけれど、ティファレトは諦めずおじさんのところに通ってその技術に日々唸っているようだ。
僕の義足を作る間にも彼女は何度か訪れていて、ティファレトも手伝って義足は思ったより早く出来上がり、僕はしばらくリハビリに勤しむことになった。おじさんの義足はやっぱりすごくて、僕の足としてすぐになじんだ。
そして、僕は今、青空の下にいる。
果てしなく続く、青い空。
そこに、白い雲が浮かんでいる。
太陽が眩しくて、仰ぐのを止めて前を見ると、見えるのは地平線だ。
遠くに並ぶ家並。
青々とした緑の草原と、こんもりと茂った森林。
手前には小さな湖が、太陽の光を受けてきらきらと輝いている。
鳥の鳴き声が響いて、飛んでいく姿が見えた。
これが、世界なのか――。
僕は息をのんで、初めて目にする景色を前に茫然と佇んでいた。
それは、インターネットで見た風景とはまったく違っていて。
戦場の、土ぼこりと血で汚された光景とはあまりにもかけ離れていて。
美しかった。
僕は綺麗だとか、そんな概念も知らないはずだった。
それなのに、こんなにも圧倒されている。
緑の香りに、澄んだ空気の温度に。
ここを、本当の自分の足で踏みしめることができたら……。
そんなことを、初めて思った。
戦場でも触れたことのあるような草に手で触れてみる。
それは少しちくちくとして、けれど、柔らかく、温かだった。
僕の手に驚いたように、小さな虫たちが顔を出しては去っていく。
僕はそれを見送って、また立ち上がり顔を上げた。
「どうだい?」
ずっと隣にいたダアトが、穏やかな表情で問いかけてくる。
義足をつけても、ダアトは僕よりも少し身長が高くて、見上げる形になった。
「綺麗」
端的に返すと、彼は微笑みを深くした。
今日は、久しぶりの彼の休日ということで、初めて彼が僕を外に連れて出かけたのだ。
めんどくさいと思いつつも、腕を引っ張るダアトに逆らうのも面倒で、ここまで来た。
ティファレトも行きたそうにしていたが、仕事が溜まっているらしい。出かける前の彼女の拗ね具合を思い出すと、ダアトを殺していたらきっと彼女は泣きわめいてひどかっただろうと予想ができ、ほんの少しだが自分の判断を誉めたくもある。
「ここは数年前まで戦争をしていたんだよ。この景色を見たら信じられないだろうけどね」
僕は改めて、今立っている丘の上から世界を眺めた。
遠くに見える家並は、平和そのものに見えるのに。
「先代のダアトが戦争をおさめたんだ。そしてここまでになった。……僕の生まれた国だ」
少し誇らしげな顔を見せて、彼は告げた。
故郷、か。
僕は僕の故郷を知らないけれど、もしあるとしたら、一体どんなところだろうか……。
……めんどくさいから、考えずにこの景色を堪能することにしよう。
「でも何だかいつもと違う気がするな……、何か……」
ダアトは言いかけたが、ふと口を噤んで、
「……いや、気のせい、かな」
と、何故か少し照れたように呟いた。
「アイン、それじゃ、そろそろ行こうか」
彼はそして、手を差し出す。
僕は頷いて、その手を取った。
ほんのわずか、知らない感情を覚え、僕は知らず唇の端を持ち上げる。
何故かダアトが目を見張って、今までに見たことのないような、笑顔を見せた。
ダアトが僕の手を包んで、引いた。
めんどくささを束の間、忘れて――。
僕は、世界に一歩を踏み出す。