8 プロポーズ
それはちょうど僕が読書の息抜きにコーラを口に含んだ時だった。
「ちょっとぉ! あなたたち一体いつの間にそういうことになってたのよぉぉぉ!?」
ティファレトが突進するように甲高い声で部屋に怒鳴りこんできた。
僕はコーラを気管に入れてしまってむせた。
「……って、何こんな時にコーラなんて呑気に飲んでるわけ!?」
咳き込みながら、恨みがましくティファレトを見やる。
彼女の方がこちらを非難する様子なのは心外だった。
好きなんだから、どんな時に飲んだっていいじゃないか。
彼女がここにいる、ということは、会議は終わったのだろう。
僕の今後を――生死をどうするのか、その結論を出すための会議は。
今日という日は、あまりにも「いつも通りに」過ぎていた。
いつものようにダアトに起こされ朝食をとり。
彼が部屋を出て行った後は、ゲームや読書をしたりテレビを観て過ごす。
ティファレトが部屋に突入してくるのも、いつもと言えばいつものことだ。
けれど、僕の人生は今日という日で終わるのかどうかが決まるのだった。
できればめんどくさいので終えたいのだが。
それを自分でどうこうできないのが面倒なところだ。
咳き込む僕を、ティファレトは容赦なく揺さぶった。
「結婚って……、結婚なんて、そんなの私聞いてないわよ……!」
何より先にメールの送り主が僕だったと、それを言わなかったことを詰られるかと思っていたのだが、何だかよく分からないいちゃもんをつけられた。
一体何なんだ。
結婚って……なんだっけか。確か、想い合う男女が契約を交わしたり儀式を行ったりしてから一緒に暮らしたり子どもを育てたりするようなものだったような……。
……というか苦しい。このまま死ねるかもしれない。ティファレトは会議で死刑執行役になったのか。
「……はい、ティファ、その辺で止めてくれるかな」
ティファレトは背後からかけられた声にぴたりと動作を止めた。
そして勢いよく振り向く。
リビングの入り口に、いつの間にかダアトが立っていた。
「ダー! まだ仕事残ってるんじゃなかったの! ……っていうか、そう、ちょっと説明しなさいよ! 私全然何にも聞いてなかったわよ、さっきのこと!」
「やだな、だからさっきの会議で分かりやすくちゃんと言ってあげたじゃないか。それより、君の方こそ、まだ仕事が終わってないだろう。早く戻りなよ」
と、ダアトはティファレトの襟首を掴んでずるずると引っ張った。
「え、ちょっと、まだ私何にも聞いてないのよ……!」
「うん。先に仕事を終わらせてからね」
「ダーの馬鹿! ああもう、アイン、後でちゃんと全部白状させてやるんだからねー!」
何で僕が……、と思っているうちに、ぽいっとダアトはティファレトを部屋の外に放り出した。
部屋の外にはティファレトの護衛が待っていて、放り出されたティファレトを受け止めて、仕事場に連行していったようだ。
嵐のようにやって来て去っていったティファレトを見送る間に、僕の咳はおさまっていた。
「全く彼女は、まだまだ子どもで困る」
嘆息するダアトは、けれど嫌そうな表情ではない。
彼は部屋の扉が閉まったことを確認すると、僕に向かって微笑んだ。
「ただいま」
「……おかえり」
こうした挨拶は、ダアトに教えられてからするようになった。
指揮官や仲間たちの間で行われるべきやりとりと似たようなものが、こちらの世界でも同じようにあることをめんどくさいと思う。
だが指揮官と違って、ダアトは言葉を返すと嬉しそうだ。
「長い時間会議で疲れたな。お茶淹れるけど、君も飲む?」
「……いい」
コーラ飲むから、と示すとダアトは頷いた。
彼は律儀にもガラスのコップに氷を入れて、僕の手からコーラの瓶をとるとそれに注いだ。
僕は別にラッパ飲みでいいんだけど……。いやむしろ、瓶で飲むのが結構好きなんだけど……。彼はあまりそれはお気に召さないらしい。
ちょっと唇を尖らせて僕はコップを受け取り、コーラを飲み干す。
ダアトは丁寧にお茶を淹れると、その言葉の通り疲れた様子でソファに深く腰掛けた。
ダアトはテレビに背を向けるように座り、僕はテレビの方を向くように車椅子に座っていたから、僕たちは背中合わせのようになる。
後ろで小さくダアトは溜め息をついた。
先日の事件の後処理もまだまだ残っていて大変なのだろう。トップに立つ人間は大変だ。
しばらく黙ったまま、ダアトはゆっくりとお茶を飲んでいた。
僕の手の中にあるコップの中身は、氷も溶けてただの水になっている。
コップの外についた水滴が、僕の手を濡らし、指先を冷やしていた。
「……君のことは殺さない、ということで幹部の意見は一致した」
静寂の中で、おもむろにダアトは口にする。
「……そう」
僕を殺したくないとダアトは言った。だからこうなる可能性が高いことは分かっていた。
それでも、指先から、すっと胸が冷えていくような感覚がする。
やはりここに来たのは間違いだったのか。
いや、だけどあの時の僕にはここを選ぶしか道はなかった。
「『生命の樹』が、ずっと僕をこうして飼い続けてくれるというわけ?」
「人聞きが悪いなぁ……。完全に否定はできないけど。会議でもね、それが問題だったよ。君を生かすならばここにいてもらわなければ意味がない。他の子どもたちのように自由を与えては、君の言うとおり『危険』だからね。とはいえ、武力を用いて紛争を解決するようにはいかない。君は『危険な存在』だけれど、『生命の樹』の恩人でもあるし、ここにいてもらった間も特に問題は起こさなかった。それをずっと閉じ込めておくのは倫理的にも、我々の存在意義の観点からもやりたくない。敵と同じということになってしまう」
ダアトは一息吐いて、少しだけ僕を振りかえった。そしてまた前を向いて続ける。
「社会で生きていくための最低限のことを教える間は、そういうきちんとした理由で君にここにいてもらえるんだけど、それは永遠というわけにいかないし。君の意思でここに所属することを選んでもらえるなら、それが一番良かったんだけど。どう?」
誰がそんなめんどくさいこと。うんざりして僕は首を振った。
ダアトはちょっと笑って、
「きっとそうだろうと思った。だから、会議でも皆困ったんだけどね。君を殺すべきだという輩も諦めずに、世界平和のために危険分子は取り除いておくべきだっていつまでも主張するし。結局は、自分たちもいつ衛星兵器なんかに攻撃されるか分からないとかいうのが怖かったんだろうね……。まぁ、君を生かしたい連中も結局は自分たちの利ばかり考えているわけだし、僕も人のことは言えないけど」
ダアトは自嘲するように笑ったようだった。
「それで?」
僕はただ続きを促す。
「……会議は堂々巡りだった。誰か斬新な提案をしてくれないかと期待していたんだけどね。……だから、僕から提案させてもらったよ。僕が君と結婚するって」
提案なのか? 決定ではなく?
いや、それよりもダアトの言葉の意味がよく分からない。
ダアトの言葉をもう一度頭の中で反芻した。
結婚の曖昧な定義が頭をよぎった。
僕は思わずコップを取り落とした。
床に落ちたがガラスのコップは割れなかった。ただ水がフローリングを濡らしていた。
「大丈夫? 雑巾雑巾」
ダアトは急いで立ち上がると、雑巾を持って戻ってくる。
僕が濡れておらずコップも割れていないのを確認して、彼はせっせと床を拭き始めた。
ティファレトが興奮していた理由が今更分かって頭痛を覚える。
一体どうしてこんなめんどくさい展開になっているんだろう?
「結婚……って、男女が契約を交わして……」
「そうそう。よく知ってたね」
床を拭き終えたダアトは、雑巾を片付けて、手を洗って僕の前で笑った。
「……僕は別に君のこと好きじゃないんだけど」
「そう? 僕は君のこと結構好きなんだけど」
……言葉の通じない何かと会話しているような気分だ。
「戸籍とかもないと思うんだけど……」
「その辺はこっちでどうとでもなるから」
にこにことダアトは言う。
「結婚すれば、君に『生命の樹』に入ってもらわなくても、夫が協力してって頼んでちょっと妻に手を貸してもらったって全然問題ないし、このまま僕と君が暮らしていても構わないわけだから、なかなか良い案だろう?」
「……」
良い案どころか、以前は敵の組織で兵士をしていた人間を妻にするなんて、正気の沙汰じゃないと思うんだけど。
でも、幹部はそれで納得してしまったわけか。
まぁ、確かに僕をここにずっと置いておくのに都合の良い理由にはなる、か――。
……結婚、なんてめんどくさいことやってられないと思うけど、「生命の樹」の油断を誘うには頷くのもありかもしれない。
まだ僕にもいくつか手は残されている。
めんどくさいけど――、これからずっと生きていく煩わしさを考えれば、まだ少しくらい動いてもいい。
「……何を考えてるんだい」
ダアトは僕の顎に触れて、俯いていた顔を上げさせた。
「君はさ、いつもだるそうにしながら、物騒なことを考えていたり言ったりするよね。……『生命の樹』が殺してくれないとなったら、今度はどうすのかな、君は。死ぬことを諦めてはくれないんだろう?」
僕は黙ってダアトを見上げた。
「僕が思いつく限りでも、結構あるからね。ここにいながらでも、誰かに殺してもらうことはできる。そう、例えば、誰かの知られたくない情報をネット上で入手してそれで脅したりだとか……」
ダアトは物騒なことを笑顔で言う。
「でも、そんなことは、僕がさせないよ。君を死なせることは――させない」
冷ややかにダアトは言い切った。
その様子に僕はふと思いつく。
「……そういうのを何て言うのか、知ってる」
「え?」
ダアトはきょとんとした。
「亭主関白」
ダアトは一瞬言葉を失い、それから笑い出した。
「は、ははっ。そんな言葉どこで覚えたの?」
「ティファレトにそういう曲を聴かせられた」
「あー、なるほどね。亭主関白か、そうか……」
しばらくダアトはおかしそうに笑っていたが、少しおさまってきて、口を開いた。
「僕は良い主夫になると思うんだけどね。亭主関白と言われないように、君にもちゃんと選ぶ権利をあげるよ」
そう言ってダアトが取り出してきたのは、久しぶりに見る……拳銃だった。
彼は黒く鈍く光るそれを、僕に差し出した。
「君が生きるなら、僕は君を手放さない。でも君がどうしても死ぬと言うなら、今ここで僕を殺すといい。そうすれば『生命の樹』は君を許すわけにはいかなくなる。望むとおり、処刑してくれるだろう」
穏やかに彼は言って、僕に拳銃をとるように促した。
一体何を考えているのか……、疑問を覚えながらも僕は拳銃を受け取る。
ずしりと手に重い。回転式拳銃だ。確認すると弾倉に弾薬は六発、ちゃんと詰まっていた。
僕は無造作に銃口をダアトに向けて構え、撃鉄を起こす。
ダアトはそれでも表情を動かさない。むしろ、静かな瞳でこちらを見ていた。
まるで。
まるで、死にたいのは、僕じゃなくて、ダアトみたいだ。
そう、彼は、僕と同じ、生きていたくないと、思っている。
「どうして、死んでも構わないと思ってるの?」
「……あの方がいないから、かな」
ダアトは寂しいと言うように微笑んでいた。
「あの方が亡くなって、僕はあの方の目指した世界を少しでも実現できれば喜んでもらえるんじゃないかとあの方の後を継いだ。だけどだんだん虚しくなって……僕は、気づいてしまった。あの方が生きて幸せに笑ってくれることが僕の本当の望みだと。あの方のいない世界なんて、本当はどうでもいいんだ。でも、あの方は僕たちが幸せに生きることを望んでくれていた。あの方のところにいきたいと思うけど、でも彼はそれを悲しむだろう……。僕はどうしたらいいのか分からないんだ、アイン。だから君が選んでくれないか。二人で生きるか、二人で死ぬか。二つに一つだ」
そういうめんどくさいことをしたくないから死にたい、と言っているのに。
「他力本願だ」
「君もそうじゃないか」
僕の場合は仕方ないだろう、他力本願にならざるを得ないんだから。
僕が引き金を引かないでいると、今度はダアトが質問してきた。
「それじゃあ最後に、もうひとつ。君は、生きているのが面倒臭いと言うけど、本当のところ、どうしてそんなに死にたいと思うんだい? 一体君は、何がそんなに面倒臭いと思う?」
その問いかけに、たくさんの記憶がよみがえった。
殺して殺されて。
怒号と悲鳴が耳から離れなくて。
悲しくて、悲しくて。
涙が胸に詰まって。
憎くて胸が熱くて。
辛くて、痛くて、理不尽で、苦しくて、みじめで。
ほんの少しの希望が、永遠にも等しい絶望に変わって、僕は――。
「……めんどくさいことがたくさんありすぎて思い出すのがめんどくさい。とにかくそういうめんどくさいのに、僕はもううんざりなんだ」
僕が正直なところを言うと、楽しそうにダアトは笑った。
「全く君は……。分かったよ、そんなに面倒臭いのが嫌なら、最後にその引き金を引くっていう面倒臭い作業をやって、全てを終わりにしたらいい。この距離なら、外すことはないだろう?」
ダアトは微笑んで口を閉じる。
僕は照準を合わせ、引き金に指をかけた。
僕が、ダアトを、殺すのか――。
殺してもらうことばかり考えていたから何だかそれは不思議な気がした。
でも、とにかく彼を殺せば僕の望みは叶うんだ。
彼を殺せば――。
引き金を引こう、と思った。
それなのに、指先が揺れることに、僕は動揺した。
まるで、暗示をかけられて自殺できない時みたいだ。
暗示? いや、今ダアトを殺すのを止めさせるようなものはないはず。知らないうちに「生命の樹」に何かされていたのだろうか。それにしてはダアトはまるで請うようにそこに立っている。
これは。
何だ。
僕は。
僕は、こういうめんどくさいことから解放されるんだ。
解放されたいんだ。
引き金を引いた。
一発、大きな音。火薬の匂い。戦場を思い出させる。血の色と死の香りを。
続けて、二発、三発、四発、五発、六発、もう弾はない。
ああ、これで、僕は――。
「アイン――」
驚いたように、ダアトが僕を見ていた。
僕は疲れて、拳銃を放る。
「やっぱりしばらく訓練してないと駄目だね」
「いや、そんな、素人でも外さない距離だったはず、なんだけど…」
ダアトは自分の後ろを振り返った。
天井や壁や家具に見事に穴があいてしまっている。
しかしダアトは無傷だった。
僕は深く溜め息を吐く。
ああ、何てめんどくさいことになってしまったんだろう――。
「……もうめんどくさいから、死ぬなら自分で死んでくれる?」
「それは、チャンスの棄権ということになるけど、それでもいいのかい」
良くはない。良くはないけど――。
無言でいると、ダアトは膝をついて僕と目の高さを合わせた。
「必然的に、プロポーズの返事も肯定ということになるわけだけど」
「プロポーズって?」
「結婚してくださいって頼むこと」
「……頼まれた覚えはないんだけど」
「じゃあ、結婚してください」
「……この場合、拒否権はあるの?」
「ない」
ダアトは笑顔できっぱり言った。
僕は肩を落とす。
とにかくめんどくさい、めんどくさくてしょうがない。
「……なるべく君が面倒臭くないようにするよ」
ダアトは僕の体を自分の方に引き寄せて、囁いた。
そうでなければやっていられない。
僕はダアトに凭れかかった。
そのうちまた死ねる機会があるだろうことを、期待して。