第六十五話:エルシーアです。性悪です
ドォォォォォォォォォォォン……ッッ!!
大気を、そして地殻そのものを物理的に圧し潰すような重低音が、精霊国全土を震わせた。
豪華な装飾に彩られた聖域の回廊を、エルシーアは優雅さをかなぐり捨てて駆け抜けていた。
地響きが起こるたび、磨き抜かれた白磁の壁に細かな亀裂が走り、天井のシャンデリアが狂ったように鳴り響く。
(早く……! 早く世界樹へ行かなければ……!)
(わたくしの、わたくしのこの『世界』が、あのよそ者に壊されてしまう……!)
乱れた呼吸と、大理石を叩くヒールの音。それらが二度目の地響きにかき消される。
ドォォォォン……ッ!!
震える窓ガラスの音を背後で聞きながら、はじめはテーブルの上に置かれた冷茶のグラスを、赤く腫れ上がった右手で静かに押さえた。
「大丈夫そうだな」
レイラは、りりによって傷が癒えたばかりの頬を一度だけ指先でなぞり、ふんぞり返ったままはじめを睨みつける。
「ああ、何でもねぇよ。……ちと、手加減しすぎじゃなえのか?」
強がりと、僅かながらの毒。
はじめは、レイラの様子をうかがうと、満足げに鼻で笑った。
(――焦っているのは、あっちだけだ)
聖域の奥へと消えていった「巫女」の後ろ姿を思い浮かべた。
窓の外、遠くの森がまた一段と赤く染まる。
「ゆっくりしてる暇は、なさそうだがな」
はじめが、赤く腫れた拳をゆっくりと解いた――その瞬間。
ドドォォォォン……ッ!!
先ほどを凌ぐ、暴力的なまでの振動が宮殿を突き上げた。
その「衝撃」に背中を蹴り飛ばされるようにして、エルシーアは聖域の重い扉に縋り付いた。
「……はぁ、……はぁ、……っ!!」
膝をつき、祈りの姿勢すら保てず、床に這いつくばる。
背後でまた、世界を叩き壊すような地響きが鳴った。
「ユグドラシル様……! なにとぞ、お知恵を……! この精霊国に仇なす、あの『雷』を止める術を……!」
『………………』
やがて、幾千もの木の葉が擦れ合うような声が、頭上から降り注ぐ。
『何事だ、巫女よ。これほど乱れた足音を、我が聖域に響かせるとは』
(――知っているくせに!)
喉元まで出かかった叫びを、エルシーアは必死に飲み込んだ。
目の前の神木は、外でトールが森を焼き、大地を穿っていることを、誰よりも正確に感知しているはずなのだ。
「……トールと名乗る化け物が、森を滅ぼそうとしております!」
『ああ、あれか。物理と雷を司る、単なる破壊の化身だな』
「なにとぞ……、あれを排除する方法を……!」
『無理だな。……お前の持つ水の精霊で弱らせることはできるが、お前の力だけでは、あれを追い払うことは叶わぬ』
つっぱねるような神の声に、エルシーアは絶望の淵で床を掻いた。
「そこを……! そこをなにとぞ……! 巫女である私に、救いの道を!」
世界樹は、エルシーアを眺めながら、毒の混じった蜜のような提案を口にする。
『……お前一人では無理だが。……外から来た者に、助力をもとめてはどうだ?』
「……っ!!」
エルシーアの背筋に、氷柱を叩き込まれたような戦慄が走った。
外から来たあの男。慇懃無礼で、底の知れない、毒のような存在。
その隣には、自分がこの手で「消去」すべきはずの、忌まわしき妹がいる。
「……嫌です……! 無理です……! 私には……、私は、あんな不浄なものたちに、助けなど……!」
『ほう。……先代の巫女ならば、精霊国を守るためなら泥でも啜ったものだがな』
無機質な神の声が、エルシーアのプライドを容赦なく抉る。
『お前はまだ、巫女になりたて。……この国を、己の誇りよりも優先させる覚悟など、持ち合わせていないのだな?』
「……っ、……ぁ……!!」
エルシーアは震える唇を噛み切り、血の味を喉に流し込んだ。
「……いえ。……やります。……やれます」
絞り出すような、掠れた決意。
その瞬間、世界樹の葉が、満足げにザワリと鳴った。
聖域から引き返してきたエルシーアの足音が、控室の扉の前で止まる。
一呼吸。
自らの乱れた呼吸を殺し、「巫女」としての矜持をかろうじて繋ぎ合わせた彼女が、乱暴に扉を押し開けた。
「…………っ、……はぁ、……」
額に浮いた汗が、彼女の焦燥を語っていた。
はじめは、椅子に深く腰掛けたまま、ピクリとも動かなかった。
ただ、その冷めた視線だけをゆっくりとエルシーアに向け、唇の端に、毒のような笑みを浮かべる。
「おや……。存外、お早いお戻りで」
はじめの声は、耳障りなほどに丁寧で、そして冷たかった。
「そんなに慌ててお戻りにならずとも……。私は逃げたりいたしませんよ。……巫女様ともあろうお方が、少々……おいたわしいお姿ですね」
「……っ、……な……!!」
(この……憐れむつもり……!?)
エルシーアの頬が、屈辱で赤く染まる。
自分が命懸けで神に泥を啜る覚悟を決めてきたというのに、この男は、その「必死さ」を、まるではしたないものでも見るかのように嘲笑っているのだ。
「で。何のご用ですか? まさか、忘れ物でもしたわけじゃないでしょうし」
エルシーアは鼻で笑い、優雅に椅子に手をかけた。
聖域から戻り、屈辱に震えながらも「巫女」の仮面を貼り付けたエルシーアは、はじめを見据えていた。
「ふふ、特使様。先ほどは、我が妹……レイラが、この謁見の間でとんだ不祥事を起こしてくれましたわね。……貴方に『再教育』の手間をかけさせたこと、姉として、実に、忍びない思いですわ」
はじめが「お気遣いなく」と受け流そうとするのを、エルシーアは冷酷な一瞥で封じ込めた。
「いいえ。落とし前をつけていただきますわ。レイラ、前へ出なさい」
影から這い出してきたレイラに、エルシーアは氷のような声を浴びせる。
「レイラ。貴女は、特使様の『盾』となりなさい。……先ほどの無礼の償いとして、その身を粉にして、あの雷の化け物の正体を調査する特使様を、命懸けで守るのです。……いいわね?」
「なっ! ……冗談じゃねえぞ、エル!」
レイラが奥歯を噛み締める。
だが、エルシーアは慈愛に満ちた笑みを崩さないまま、レイラの耳元へ顔を寄せた。
「……あら? 嫌だなんて言える身分かしら? 貴女の『大事なルナ』の処遇を決めるのは、わたくしなのですよ……?」
「……っ!!」
レイラが絶句し、肩を震わせる。
エルシーアは満足げに身を離すと、再びはじめに語り掛けた。
「特使様。貴方は『調査員』なのでしょう? ならば、この状況を調べずに、帰るわけには参りませんわよね?」
「レイラを貴方の『駒』として貸し与えますわ。……存分に、使い潰して、あの化け物の情報を持ち帰りなさいな」
「これは『依頼』ではありません。貴方への『調査許可』と、レイラへの『罰』です。……ふふ、素晴らしい報告書を期待しておりますわね?」
はじめは、腫れた右手をゆっくりとポケットにしまい、薄く笑った。
「ええ。お望み通り、特等席でご覧ください」
はじめ達は、トールの調査に向かった。




