第六十四話:はじめ vs エルシーア
静寂が、謁見の間を支配していた。
磨き抜かれた大理石と高い天井の光が、謁見の間に逃げ場のない圧迫感を作っていた。
その光の頂点。玉座に座るエルシーアは、慈悲深い女神のような微笑みを湛えたまま、眼下の「不純物」を見下ろしていた。
はじめは、膝が軋むほどの深々とした一礼を捧げた。その動作は、宮廷の作法としては完璧すぎるほどに卑屈で、それゆえに毒々しい。
「本日は、謁見、誠にありがとうございます」
「このような『辺境の埃』を、その清廉な御目に触れさせるという不敬。どうか、寛大な慈悲にてお見逃しいただければ……と」
はじめの言葉は、最上級の敬語で塗り固められながらも、嘲笑が澱のように混ざっていた。
エルシーアは、動かない。
その瞳には、はじめも、その背後で拳を握りしめているレイラも、映っていないかのようだった。
「特使様。そのようなご挨拶はもう結構ですわ」
エルシーアの声は、透き通り、だが「死体」を検品する学者のように無機質だった。
「わたくしが知りたいのは、あなたの背後にある『不都合な汚れ』の始末について、だけですもの」
エルシーアの視線が、レイラ、怯えるように身を縮めているルナを捉えた。
まるで、真っ白なキャンバスに付いた、消えない「シミ」を指摘するかのような、残酷な慈悲。
「特使様。わたくし、あまり時間がないんですの。これでも、忙しいのよ」
「不浄の血を継ぐ、その『私生児』を……いつまで、わたくしの視界に置いておくおつもりかしら?」
エルシーアの声は、冷え切った大理石に吸い込まれるように響いた。
彼女は、はじめの卑屈な一礼すら、当然受けるべき「清掃」の一部としてしか見ていない。
「その『不浄の芽』を、今ここで、聖域の守護騎士たちに引き渡してくださらない? ……救済を与えて差し上げますわ」
はじめの喉が、わずかに震えた。
それは恐怖ではなく、喉元まで出かかった「笑い」を噛み殺すための震え。
「……巫女様。それは少々、横暴ではございませんか?……わたくしの仲間に、手を出すということでしょうか?」
「あら。埃が付いた『菌』を払うのが、持ち主としての礼儀ではなくて? 連れて行きなさい」
エルシーアが、退屈そうに指を動かした。
その合図とともに、銀鎧を纏った二人の騎士が、機械的な足音を立ててルナへと歩み寄る。
「……あ、ぅ。」
ルナが、震える足でレイラの影に隠れようとした、その時だ。
騎士の、冷たく光る金属の籠手が、少女の細い肩を掴もうと宙を舞う。
「触るな!!」
低く、押し殺した声。
だが、その警告を無視して騎士の手がルナに届きかけた瞬間――。
「お前ぇッ!!……よくも……よくもあたしの娘を『菌』扱いしやがったなッ!!」
静寂は、レイラの咆哮によって粉々に砕け散った。
彼女の腰から引き抜かれた短剣が、光を切り裂き、騎士の籠手を弾き飛ばす。
「貴様ぁッ!!」
レイラは、ルナを背中に庇いながら、玉座の頂点に座る姉を、血の滲むような目で見上げた。
その瞳には、もはや「巫女」への敬意など、一欠片も残っていない。
「あんたなんか!姉じゃない!!」
レイラの絶叫が、高い天井を震わせる。
エルシーアの慈悲深い微笑みが、一瞬で「不純物への嫌悪」へと凍りついた。
彼女の薄い唇が、静かに開く、その刹那。
――パチィィィィィィィィンッッ!!
はじめの平手が、彼女の頬を打った。
エルシーアの宣告よりも、銀鎧の騎士が剣を抜くよりも、速く。
「巫女様。……とんだ不手際を、お見せしましたッ!!」
耳鳴りだけが残る広間に、はじめの荒い息遣いが混じる。
はじめは、赤く腫れ上がった自分の右手を、忌々しそうに一瞥すると、エルシーアが「宣告」を失った呆然とした表情を浮かべているうちに、再び深く、深く頭を下げた。
「こちらで、再教育いたします。……お忙しい、巫女様のお手を煩わせませんので」
はじめが床に這いつくばったまま、掠れた声で指示を出す……。
「レイラ。ルナを連れて、下がってろ。……別室で、待機だ」
「りり、琥珀。お前らも、一緒についていけ」
レイラは頬を腫らし、屈辱と怒りで震えながら、ルナの手を引き、退場した。
琥珀たちも、無言で部屋を出て行った。
扉が閉まる音。
広大な謁見の間に残るのは、はじめと、玉座のエルシーア。そして、動揺を隠せない騎士たちだけ。
はじめが、床に這いつくばったまま、誰とも目を合わせずに口ごもる。
(……あー……これでやっと、安心して交渉を始められる……)
はじめは、顔を上げない。
床の冷たさを、腫れた右手の熱がじわじわと中和していくのを感じながら、彼は喉の奥で「あー……」と、重く濁った吐息を漏らした。
「巫女様、お見苦しいところを、お見せしました。では、そろそろ、本題に入りましょう……」
はじめの声は、大理石を這う蛇のように低く、滑らかだった。
エルシーアは、玉座の肘掛けを握りしめたまま、沈黙している。
はじめは、彼女の反応を待つまでもなく、独り言のように言葉を継いだ。
「この、精霊国。実に、素晴らしい国ですな」
「ただ……あちこちの山々が、燃えているようですが……あれは、何かの儀式なのでしょうか?」
はじめが、ようやく顔を上げた。
その瞳は、笑っていない。
「特使様!!」
背後の騎士が、無礼を咎めようと一歩踏み出す。
だが、エルシーアがそれを手制した。
「あのままですと、炎が隣国の虫国まで、到達するのでは? と、ヴェスパ女王様が、御心配されまして……で、わたくしめが、『特使』として、まいった次第です」
はじめは、そこで言葉を切り、慈悲深く微笑むエルシーアを見つめた。
「慈悲深き巫女様なら、あのような無作法な炎など、瞬く間に鎮火することが、可能なのでしょう?」
はじめの言葉が、エルシーアの喉元に剃刀を当てる。
(――お前には、あの火を消す力などないのではないか?)
エルシーアの薄い唇が、微かに震える。
「あ、当たり前ですわ。あのような炎、わたくしが『精霊たちの声』を聴けば、瞬時に鎮まりましょう」
「流石でございます。これで、ヴェスパ女王様にも、良いご報告ができます」
はじめは、深々と頭を下げた。その背中で、冷笑が踊っている。
「では。.……その『火種』」
「トールという『無粋な破壊者』については……」
「当然、万全なる『神のご計画』が、おありかと.……」
「……。…….……」
エルシーアは、すぐに答えることができなかった。
トールの力は、今の彼女の「精霊との対話」の範疇を超えている。
「.……それについては、わたくしが、……さらに深く、『精霊の声』を聴いてくる必要がございますわ。.……」
「あー、……左様で」
はじめは、這いつくばったまま、ニヤリと笑った。
「“巫女のみぞ知る福音”……。期待してお待ちしております」
はじめは、もう一度、膝が軋むほどの「完璧な卑屈さ」で、一礼した。




