第六十一話:家の後ですか?絶望です
「……帰りたくない、あんなところ、お母さんも、私も、ゴミみたいに……」
ルナが泥だらけの地面に顔を伏せて泣きじゃくる中、はじめは口を開きかけ、そして静かに閉じた。代わりに向かったのは、琥珀だった。
「ルナ。琥珀もね、お父さんと、お母さん、いないんだよ……」
琥珀の静かな、けれど凛とした声に、ルナがハッとして顔を上げた。
琥珀は、自分の小さなしっぽを抱きしめるようにして、ルナの隣に座り込む。
「トールだっけ?あいつが、ルナのお家をめちゃくちゃに、してるんでしょ? ……琥珀、分かるよ。
……『もしかしたら』って考えちゃうと、怖くて、足が、動かなくなっちゃうんだよね……」
琥珀の瞳から、一粒の涙がこぼれ落ちる。
それは「同情」ではなく、同じ地獄を見てきた「同志」としての、純粋な共感のログ。
「あんたたちに、何がわかるっていうのよ!」
「あんたたちは、わかってない。私とおかあさんが、どんな思いで過ごしてたか……」
「無責任なこと、言わないでよ!!」
「もし。……お母さんがいなくなったら、私、わたし……」
「……私も、……同じですよ、ルナさん……」
りりもまた、ルナの震える肩を優しく、慈しむように抱き寄せた。
「……私も、家族を、守れなかった……だから、分かるんです……『もし、お母さんが……』って。
……最悪の結末を、想像して、逃げ出したくなる気持ち.……」
りりの腕の温もりが、ルナの「拒絶」を少しずつ溶かしていく。
「……でもね。あとで、『あの時、行っていれば』って……後悔する痛みは、一生、消えないんです……」
りりが、少し離れた場所に立つはじめへと、真っ直ぐな視線を向けた。
「はじめ様なら、なんとかしてくれます。……理不尽な世界を、『修正』してくれる。……私たちの、最高に『残念』で……最高に優しい、……主様なんですから……」
ルナは、泣き腫らした目で、琥珀とりり、そして不器用そうに頭を掻いている「58歳のデバッガー」を見つめた。
「……信じろ、って?」
「こんな男のどこを信じろと?」
「おい、お前!!もし、もし、お母さんに何かあれば……」
「あんたを殺して、私も、死ぬ!!」
ルナが、血が滲むほどに拳を握りしめ、地面を叩いた。
「……お母さんを、あいつに、あのゴミ掃除に、殺されるのだけは、いやだ!!」
それは「助けて」という純粋な願いではない。
自分の命を差し出してでも、最悪のバグ(トール)から母を遠ざけたいという、悲痛な「等価交換」の要求。
はじめは、その「不信感に塗りつぶされた決意」を真っ向から受け止め、深いため息をついた。
「……あー……殺ささねぇよ。……面倒くせぇ……。『取引(契約)成立』だ。……」
はじめはルナを見ず、森の奥へと歩き出す。
「おい。……さっさと、案内しろよ。.………『ゴミ』じゃねぇ……『消しちゃいけないデータ』が、そこにあるなら……全部、救出してやるから!! .……」
炭化した樹木が道を塞ぎ、逃げ遅れた精霊たちが悲鳴を上げながら横をすり抜けていく。
ルナがその喧騒と熱気に足をすくませ、再び過呼吸になりかけたその時。
はじめの声が、氷の楔のように彼女の耳に届いた。
「……おい。家、どれだ。……指差せ。……それだけでいい。」
ルナは、隣に立つ男を見上げた。
そこには、慰めの色も、同情の光もない。ただ、燃える村を「バグった現場」として冷徹に観察する、一人の技術者の目があるだけだった。
「あれ!」
「わかった。……琥珀、りり。……行くぞ」
はじめはルナを振り返ることなく、最短ルートを計算し、歩き出す。
「ちょっと! あんた、なんでそんな奴、連れてきたの!?」
逃げ惑うエルフの一人が、ルナを見て憎々しげに吐き捨てた。
「その汚れた子が戻ってきたから、森が怒ったんだ! お前のせいだ、この呪われ……っ!」
エルフが、怒りをぶつける先を探すように、持っていた杖をルナに振り上げた。
ルナが反射的に身を竦め、目を閉じた、その時。
「うるせぇよ!黙ってろ!!」
低く、地這うようなはじめの声が、火の粉の舞う空気を切り裂いた。
はじめはルナを庇うように一歩前に出ると、杖を構えたエルフを、心底ゴミを見るような冷めた目で見据えた。
「世間体。ばっかの、汚ねぇ口。耳障りだ!」
エルフははじめの放つ圧倒的な威圧感に、喉を鳴らして数歩後退った。
はじめは、震えるルナに視線を合わせることも、声をかけることもしない。
ただ、彼女を中傷する「ノイズ」を黙らせた。それだけで十分だった。
「……おい。……行くぞ」
はじめは再び、ルナが指差した突き当たりの家へと、迷いのない歩みを再開した。
突き当たりの、森の静寂に守られていたはずの場所。
そこにあったはずの、質素だけれど温かかった「家」は、もう存在しなかった。
ただ、黒く焦げた土と、天を突く火柱。
屋根も壁も、ルナが背を測った柱も、お母さんががさつに料理をしていた竈も。
すべてがトールの「掃除」という名の暴力によって、均一な灰へと書き換えられていた。
「……うそ。……。……」
ルナの膝が、力なく崩れる。
指差した「目標地点」にあるのは、命の気配を完全に失った、無慈悲な空洞だけだった。
「……お母さん……? ……おかあ……さーーんっ!!」
叫びは、燃える木の爆ぜる音にかき消される。
絶望が、冷たいノイズとなってルナの視界を白く塗り潰していく。
膝をつき、灰を握りしめるルナの肩が、激しく震え出す。
込み上げてきたのは、悲しみを超えた、燃えるような「憎悪」だった。
「……信じたのに。……。……。……」
ルナが、幽鬼のような動きで顔を上げる。
その瞳には、事務的に周囲を確認するはじめの背中が、あまりに冷酷に映っていた。
「……お前の……。……お前の言葉を、……。……信じた私が……。……馬鹿だった……っ!!」
「……救い出すって……! ……全部、救い出すって言ったじゃない!! ……何もない……! ……お母さん、どこにもいない……!! ……あんたのせいで、看取ることさえ……ッ!!」
拳がはじめの背中を打つ。
けれど、はじめは微動だにしない。避けることも、言い訳をすることもなく、ただその「慟哭」を物理的な衝撃として受け止め続けていた。
「……殺してやる……! ……あんたを殺して、私も……!!」
「……あー。……叩き終わったか。……」
はじめの声は、驚くほど平坦だった。
はじめの、あの低くて少し掠れた、それでいて揺るぎない声。
「現場のうわべだけ見て、……。……決め付けるのは、素人の仕事だ……。みろ、あそこ……」
はじめの指す方向には、かすかだが、確かに何かが、そこにいた。形跡があった。




