第六十話:ルナの過去
ドォォォォォン!!
一瞬前まで混血の少女がいた場所が、熱溶解によってドロドロの黒い液体へと書き換えられた。
その光景を横目に、はじめの脳内では「生存優先プロトコル」が最大音量でアラートを鳴らしている。
(……無理無理無理……。……あいつ、会話通じない。……。……全消去……しか、……頭にねぇ……!!)
土煙の中から、ハンマーを肩に担いだトールが、ひょいと首を傾げてこちらを見た。
「あれ? 外しちゃったか。……君たち、誰? ……ま、いいや。どのみち、ここ、更地にするし。まとめて、『掃除』させてくれるかな?」
男が、屈託のない笑顔で一歩を踏み出す。
その瞬間、はじめの背筋に、物理的な「死のログ」が走った。
「……琥珀!! ……その子を、離すな。……全力で、逃げるぞ……!!」
「わかった! はじめ様!」
琥珀が少女の手をぎゅっと握りしめる。
少女は、見知らぬ男性の怒鳴り声に肩を震わせ、過呼吸気味に「……っ、……あ……」と声を漏らしたが、琥珀の温かい手の感触に、辛うじて意識を繋ぎ止めた。
「りりおねえちゃん! ……はじめ様を、お守りして! ……」
「わかってるよっ!琥珀ちゃん!!」
りりがはじめの脇を抱えるようにして、四人の逃走が始まった。
背後からは、のんびりとした、けれど確実に背中を刺すようなトールの声が響いてくる。
「あーあ。……まだ、片付いて……ないのに……困るなぁ。……。……」
――ズゥゥゥゥゥン!!
逃げる背後で、再び森の地形が書き換えられる重低音が響く。
はじめたちは、肺が焼けるような思いで、炭化した森の迷宮をがむしゃらに駆け抜けた。
どれくらい走っただろうか。
爆音が遠ざかり、ようやく見通しのきく、少し開けたエリアまで辿り着いたところで、はじめは膝をついた。
「……はぁはぁはぁ、……58歳に、……全力疾走は。……。……つらい。……。……あいつ、……『不具合』……そのものじゃねぇか……!!」
はじめが荒い息を吐きながら天を仰ぐ。
その傍らで、少女は琥珀の陰に隠れるようにして、未だに激しく震えていた。
はじめが、膝をついたまま、琥珀の背後に隠れている少女へと手を伸ばそうとした。
「……っ!! ……来ないでっ!!」
鋭い、氷のような拒絶の声が響いた。
少女は琥珀の腕を振り払わんばかりにのけぞり、はじめの手を汚物でも見るかのような、深い怯えの籠もった瞳で睨みつける。
「……触らないで……!! ……殺すなら、好きにして!…………男なんか……みんな、……死んじゃえば……いいのに……!!」
少女の呼吸が、再び激しく乱れる。
過呼吸と、過去のトラウマからくるパニック。
その小さな体は、トールのハンマーを向けられた時よりも、目の前の「人間(男)」に対して激しく震えていた。
「……あー。……。……。……そう、だよな。……。……」
はじめは、伸ばしかけた手を静かに下ろした。
彼女の目に宿る、単なる「恐怖」を超えた「嫌悪」。
エンジニアとして、いや、一人の人間として、彼女の心に走っている「修復不可能なレベルの亀裂」を、はじめは瞬時に察してしまった。
「……りり。琥珀。……その子任せた……。……。……俺は、あっちにいるから……。……。……。……なんかあれば、声かけてくれ……」
はじめは、少女に刺激を与えないよう、数メートル距離をとって切り株に腰を下ろした。
りりが、おそるおそる、けれど柔らかな手つきでルナの傍らに膝をつく。
「……怖くないですよ。……。……痛いの、向こうへ、……。……飛ばしてあげますからね……。……」
りりの手から、淡い琥珀色の光が溢れ出し、少女の擦り傷を優しく包み込む。
少女は、りりが「女性」であることに安堵したのか、荒かった呼吸を少しずつ落ち着かせていった。
そんな様子をじっと見ていた琥珀が、屈託のない笑顔で顔を覗き込む。
「おねえちゃん、おなまえは?」
少女は、琥珀の真っ直ぐな瞳に毒気を抜かれたように、小さく唇を震わせた。
「……私は、ルナ。……見ての、通り……。……混血……。……汚れもの、だから。……。……。……」
自嘲気味に吐き捨てられた言葉。
ルナの、冷たく乾いた声が森の静寂に響く。
けれど、琥珀にはそんなことなんて関係なかった。
「ルナっていうんだ! 綺麗なお名前だね!
……もう大丈夫だよ! 琥珀たちが、お家まで送ってあげる!
……ルナの村、どっちにあるの?」
琥珀が、安心させるようにルナの手を握ろうとした、その時だった。
「……いやっ!! ……帰りたくないっ!!」
ルナが、悲鳴に近い声を上げて琥珀の手を振り払った。
その瞳から、大粒の涙が溢れ出し、煤と泥に汚れた頬を濡らす。
「……帰りたくない……!! ……あんなところ、……私の居場所なんて、……。……。
……最初から、どこにも、……。……なかったのに……!!」
ルナは顔を覆い、赤ん坊のように声を上げて泣き崩れた。
はじめは、遠くで上がり続ける黒い煙を見つめながら、静かに目を閉じた。
(……あー。……。……帰る場所、そのものが、……。……。……バグ(地獄)……ってことかよ……。……)
「……うっ……。……ひっく……」
顔を覆って泣きじゃくるルナの隣で、琥珀がそっと、壊れ物に触れるような手つきでその肩に手を置いた。
「ルナ。……。……。……落ち着くまで、琥珀とお話ししよ?
……どうして、帰りたくないの? ……。……お家で、琥珀は、……。……ルナと一緒に……。
……遊びたいな。……」
琥珀の真っ直ぐな、一点の曇りもない「好意」が、ルナの凍りついた心を少しずつ溶かしていく。
ルナは、涙を拭い、掠れた声で重い口を開いた。
「……私の村、……あんなのただの『檻』……。……みんな私のこと『穢れ』……って、呼ぶの……。……。
……お母さんを……。……あんな目に遭わせた……。……エルフたちが……。……。……生まれてきた私を、ゴミみたいに掃き溜めに……。……閉じ込めて。……。……」
ルナの瞳に、深い絶望のログが浮かび上がる。
それは、トールの雷撃よりも冷たく、鋭く、彼女の全存在を否定する「社会という名のバグ」だった。
「……だから、……あの、雷の男が……村を壊し始めた時……。……これで、全部終わるんだ……。……やっと、楽になれるんだ、消えれるんだって、……。……思っちゃったの。……」
ルナの、感情が死にかけたような静かな告白。
その言葉を、少し離れた場所で聞いていたはじめは、拳を握りしめた。
(……あー。……生まれた時から……『削除待ち』とか……。……。……そんなの美しくねぇ!!……。……。……。……設計ミス、にも……。……程があるだろ……!!)
はじめは、天を仰いで深く、深いため息をついた。
その目には、いつもの「怠さ」ではなく、不条理な仕様に対する「デバッガーの怒り」が、静かに灯っていた。




