第五十八話:セーブですか?出来てません
謁見の間を支配していたのは、琥珀が噛み砕くお菓子の音と、はじめの、押し殺したような、けれど確かな絶望の吐息だけだった。
辺境伯の右腕、デリート。
その残酷な「仕様変更」を告げたアルトの手が、はじめの震える肩を、無言で、けれど強く圧えつけていた。
はじめが、消え入るような声でボヤいた、その時だった。
「……あー。……。……。……。……俺は、……何も……。……。……」
――ピリッ、と。
はじめの奥歯のあたりに、嫌な静電気のような刺激が走った。
同時に、重厚な扉を蹴破るような勢いで、一人の伝令兵が転がり込んできた。
「へ、陛下ぁっ! 緊急報告です!! 西の国境、……精霊国にある……『翠緑の森』にて、……同時多発的な火災が発生しております!!」
「……火災だと? ……。……この湿り気の多い季節にか……? ……。……」
ヴェスパが銀色の羽を鋭く逆立て、玉座から身を乗り出した。
伝令兵は、額の汗を拭う余裕もなく、必死に報告を続ける。
「……はい! 監視塔からの報告によれば、……。……火の手は一箇所ではありません。……。……十数箇所から同時に煙が上がっております! ……。……。……。原因は不明ですが、……。……。……まるで、……。……」
伝令が言葉を濁した瞬間、西の空にたなびく、不吉な数の煙。
はじめは自分の奥歯がガタガタと震えるのを感じながら、震える声で……けれど、誰に届くでもない罵声を心の中でぶちまけた。
(……あー。……。……これ、……。……嫌な予感……。……しかしないんですけどぉ。……。……いつもの……。……フラグ成立……。……ですよねぇ…………。
……馬鹿やろぉっ……!!)
「陛下! すぐに近衛兵を! わたくしも、わたくしも参りますわ!」
ベアトが、今にも特攻服に着替えかねないほどの勢いで身を乗り出す。その瞳は、いつもの我儘を通り越して、喧嘩上等と言わんばかりの輝きを放っていた。
「はじめ様、わたくしも! 今度こそ……あの男たちを、呪い尽くして……っ!」
りりの細い肩が怒りで震える。その少女の可愛らしい声には、隠しきれない怨念のレイヤーが重なっていた。
その熱を冷ますように、はじめの隣で、アルトが静かに、けれど有無を言わさないトーンで眼鏡のブリッジを押し上げた。
「……ベアト様。落ち着いてください。貴女の領地の整合性は、今どうなっていますか? 代理領主に任せきりにして、ここで私情を優先させる……。それが領主の定義だと仰るなら、私は……」
アルトが言葉を切り、スッと玉座の方へ視線を流した。
それを受けたヴェスパが、低い、凛とした声で玉座から告げる。
「……正論だ、アルト。ベアトよ、まずは己の管轄を立て直せ。……それができぬ者に、わらわの隣で『女王の右腕』を語る資格はない」
「っ……! ……分かったわよ! 行けばいいんでしょおぉぉ!!」
ベアトが悔しそうに地団駄を踏み、スカートを翻して退場していく。
「ヴェスパ陛下。貴女もです」
アルトの声は、どこまでも透き通るように冷徹だった。
「女王というメインシステムが、出所の知れない火災ごときで玉座を空けるリスク……ご理解されていますね? ここは、不規則なエラーへの耐性が最も高い『外部ユニット』を派遣すべきです」
アルトの涼やかな視線が、ガクガクと震えているはじめに固定された。
「……あー。……。……。……アルトさん。……。……今、……。……『コストが低い』的な意味の、……『外部ユニット』って……。……言った……? ……。……」
(……。……。……あー。……。……なんで、……。……これだけで。……。……いけと……。……。……私……りり、……琥珀、……。……。なんの……。……。特攻隊仕様ですか!……。……。……。……。……いや、待てよ……? ……。……こんな時こそ、……墨花さんが、……。……墨花さんさえ、……いれば……! ……。)
「……いや、待てよ……? ……。……こんな時こそ、……墨花さんが、……。……墨花さんさえ、……いれば……! ……。……あの、聖母のような……癒やしの塊……。……。……あの方が、……一緒に……来てくれれば……。……。……」
はじめは、すがるような思いで、さっきまで彼女が控えていたはずの控室へと走り出した。
西の空の不気味な煙も、アルトの冷徹な正論も、今はどうでもいい。ただ、あの穏やかな微笑みと、美味しいお茶(と、たまに見せる得体の知れない頼もしさ)が欲しかった。
「墨花さん……! 墨花さーん!! い……いますかぁっ!? ……。……。……助けてくださいよぉ、……。……。……。また、……。……。……ろくでもない……。……。……デスマーチが……。……。……」
勢いよく控室の扉を開ける。
……が、そこには、丁寧に畳まれた予備の毛布と、まだ微かに残るお香の香りがあるだけだった。
「……。……あれ? ……。……。……。……。……いない。……。……。……あー。……。……そうか。……。……準備だ。……。……。……旅の準備で、……。……客室(部屋)に……戻ったんだな。……。……そうだ、……。……。……。そうに決まってる……!!」
自分に言い聞かせるように頷くと、はじめは縋るような足取りで、ゲスト用の客室へと向かった。廊下を走るたびに、膝の古傷が「無理だぞ」とアラートを出している気がしたが、今は無視だ。
客室の前に着き、荒い息を整えてから、慎重にノックする。
「……墨花さん? ……。……はじめです。……。……。……ちょっと……。……。……相談というか、……。……。……救済措置……が、……。……」
返事はない。
嫌な予感が、サーバーのバグ報告のように次々と脳内を埋め尽くしていく。
はじめは意を決して、ドアノブに手をかけた。鍵はかかっていない。
静かに開かれた部屋の中は、驚くほど綺麗に整頓されていた。
主の気配は、もう、ない。
ただ、窓際の小さなテーブルの上に、一枚の紙が置かれていた。
はじめは、生まれたての小鹿のように震える手で、その紙を手に取った。
『はじめ様。
急で申し訳ありませんが、お店(翠玉楼)の様子がどうしても心配なので、一度帰ります。
今度また、お店に顔を出してくださいね。
夜更かしは、お肌に悪いですよ? ――墨花より』
「……。……。……。……。……。……おーい。……。……。……。……無言ログアウト……。……。……。……しちゃったよ……。……。……。……。……帰っちゃったよぉぉぉ!! ……。……。……女神が、……。……。……唯一の……。……。……リソースが、……。……。……セーブ……。……。……。まだなんですけど……。……。……。……帰っちゃったよぉぉぉぉぉぉ!!」
静まり返った客室で、はじめは墨花の手紙を握りしめたまま、膝から崩れ落ちた。
このデスマーチにおける唯一の「癒やし(バックアップ)」、もとい「精神的支柱」が、まさかのオフライン。……物理的な距離という、最も原始的なエラーコードによって、はじめは完全な孤立無援へと叩き落とされた。
「……あー。……。……終わった。……。……。……セーブ前に……。……。……本体蹴飛ばして。……。……。……全消えだ。……。……初期化……。……されたも……。……同然だ……。……」
ブツブツと、まるでバグコードを読み上げるような声で呟きながら、はじめは幽霊のような足取りで部屋を出た。その背中は、人生の全財産をスられたギャンブラーのように丸まっている。
対照的に、廊下で待っていたりりの瞳には、これまでにない「透明感のある輝き」が宿っていた。
「……はじめ様。……。……墨花さんは、……お店が、お忙しいようですから。……。……仕方ありませんよね。……。……」
その声は、どこか弾んでいた。
あの「強力すぎるライバル達」がいなくなった。つまり、この西への旅路において、はじめの隣を独占できるのは自分だけだ。
りりは心の中で(……よし。……!)と、誰にも見えないガッツポーズを決め、その芯の強い美しさをさらに際立たせていた。
「はじめ様、はじめ様! 琥珀、準備できたよっ! ほら、これ!!」
そこへ、大きなリュックを背負った琥珀が、トコトコと駆け寄ってくる。
リュックからは、なぜか箸やスプーンがはみ出していた。
「……琥珀ちゃん。……。……それ、……何……? ……。……遠足……? ……。……これから、……。……死地……。……へ向かう……。……。……特攻隊……。……なんだよ……? ……。……」
「精霊国ってね、お菓子がすっごく美味しいんだって! 精霊さんが作る、キラキラしたハチミツのケーキとか! 琥珀、いっぱい食べるの!!」
七歳の少女は、これから向かう場所が「死地」だとは微塵も思っていない。彼女の脳内ログには、すでに精霊国の絶品スイーツのプレビュー画像が並んでいるようだった。
「……。……あー。……。……。……。……嫉妬全開の……。……蜘蛛娘。……。……食欲魔神の……。……幼女。……。……。……よし。……。……。……これ、……。……なんの冗談……。……。……。……ですかぁー!!」
はじめの魂の叫びを載せて、アリ車は無情にも動き出した。
目指すは西の国境の先、精霊国。
はじめの胃壁が、かつてない悲鳴を上げていた。




