第五十七話:アルトの究極判断
アルトが「ゼロの虚無」という、誰にも理解されない深刻なバグ報告を続けていた、その時。
謁見の間の重厚な扉が、遠慮がちに、けれど緊急性を帯びた音を立てて開いた。
「へ、陛下! ご報告申し上げます! 救護班の筆頭魔導師です!」
飛び込んできたのは、この国で最も高度な治癒ログを扱えるはずの老魔導師だった。彼は場のカオスな空気に怯む余裕すらない様子で、真っ青な顔で跪いた。
「……辺境伯様のことなのですが。我ら救護班が総力を挙げ、国宝級の魔力触媒を用いた『上級ヒール』を……文字通り、限界を超えて幾度も上書きいたしました。……。……ですが、どうしても……どうしても、患部の一部がログを受け付けぬのです! 会議中なのは重々承知しておりますが、我らの理論を超えた事態……一度、陛下にご覧いただきたく!」
その報告を聞いた瞬間、ヴェスパの眉が鋭く跳ね上がった。
「……何だと? この国最強の治癒魔導師が、フルパワーでパッチを当てて修復できぬというのか。……。アルト! 貴様が先に行って見てまいれ。現地の状況を最も把握しているのは貴様だ」
「御意」
アルトが淀みのない動作で立ち上がる。その瞬間、はじめの脳内では「脱出シミュレーション」が高速で演算された。
(……あー。……。キタ。……。
……これ、……千載一遇の……ログアウト・チャンス……!! ……。このままここにいたら、……女王様の熱視線と、……ベアトさんの肘打ちと、……りりちゃんの呪詛で、……僕のOSが……物理的に粉砕される……!!)
「あー……! そうですね! アルトさん一人じゃ、技術的な補足が必要かもしれませんし、僕も……僕も一緒に行って、現場のデバッグを手伝ってきますよぉぉ!!」
はじめは、生まれたての小鹿のような足取りで、アルトの後を追おうと勢いよく立ち上がった。……が。
「――待て。はじめ」
「――どこへ行くつもりですの?」
右からはヴェスパの、白銀の羽が放つ圧倒的な圧。
左からはベアトの、殺気すら感じる細い指。
二人の「物理的なファイアウォール」によって、はじめの襟首と腕が、ガッチリとホールドされた。
「……陛下……。……ベアトさん……。……あの、……現場百回、……という……言葉が……」
「貴様は、わらわの隣で詳細を語る義務がある。……。アルトが行けば十分だ」
「そうよ! はじめ様、わたくしを置いて、またアルトと二人っきりでコソコソするつもり!? 許しませんわよ!」
逃亡ルート、完全封鎖。
はじめが絶望の淵で震えていると、背後から、さらに一段と低い、冷え切った声が届いた。
「……なんで。……。……私、……。……。……あんなに……。……頑張ったのに。……。……。……。
……はじめさん、……。……。……私じゃなくて、……。……また、……アルトさんに、……ついていくんですか……。……。……。……。……。……呪……」
「……。……あー、。……りりちゃん。……。
……最後の一文字、……今、……『呪』って……言いましたよね!? ……。……語尾が、……怨念のカタマリ……なんですけどぉぉぉ!!」
アルトが一人、「……お先に失礼します」と、羨ましいほど涼やかな顔で退出していく。
残されたはじめは、三人の女性からの「逃がさないログ」にガッチリとロックオンされ、琥珀がサクサクとお菓子を食べる音をBGMに、ただただ白目を剥いて天を仰ぐのだった。
謁見の間の喧騒を背に、アルトは救護班の兵士と共に、白く塗り固められた医務室へと足を踏み入れた。
そこには、かつて「ムカデの英雄」と謳われた男が、シーツの白さよりも青ざめた顔で横たわっていた。
「……アルトか。……。……すまないな、……手間をかける……」
福山ボイスの低く掠れた声。だが、その瞳だけは、押し寄せる激痛を強靭な精神力で抑え込み、異常なほど澄んでいた。
「……状況を確認します」
アルトが辺境伯の右腕を覆う布を剥いだ瞬間、同行していた兵士が短く息を呑んだ。
そこには「傷」などなかった。
ただ、指先から肘にかけて、この世の光をすべて吸い込むような、不気味な「無の色」が侵食していた。
「……。……これは。……。……。
……『上級ヒール』の……修正パッチが、……。……完全に、……拒絶されている。……。……」
アルトの眼鏡の奥で、瞳が激しく動く。
ゼロの毒。それは組織を壊死させるのではない。その部位が存在する「定義」そのものを、世界から消去し続けているのだ。侵食は、今この瞬間も、一ピクセルずつ確実に肩へと這い上がっている。
「……。……理解しました。……。
……なぜ、……。……あの『ゼロ』という個体が、……。……止めも刺さず、……。……。……。消えたのか。……。……」
アルトが、震える手で眼鏡のブリッジを押し上げた。その声は、かつてないほどに冷え切っている。
「……ヤツは、……。……確信していたのですね。……。……わざわざ手を下すまでもない。……。……。……この『ゼロの毒』を……。……打ち込んだ時点で、……。……辺境伯という……。……存在が、……。……。……確実に死に至ることを……。……。……。……ヤツにとっては、……。……既に、……デリート済みの……データに過ぎなかった……というわけですか……!!」
辺境伯は、自嘲気味に口角を上げた。
「……ふ。……。……見くびられたものだな……。……。……だが、……。……事実だ。……。……。……。……これ以上は、……心臓まで、……持っていかれるな……? ……。……。ふっ……」
辺境伯は、震える左手でアルトの袖を掴んだ。
「……。……。……アルト。……。……。……はじめには、……。……。……いうなよ。……。……。……あいつは、……。……優しすぎる。……。……。……。……やれ。……アルト。……。……お前の、……。……冷徹な判断……。……信じているぞ……」
「……。……。……。……。……了解しました。……。……。
……対象物、……右腕。……。……。
……これより、……。……。……生命維持のため、……。……強制的な……『隔離』を……執行します……!」
鋭い金属音が、静まり返った医務室に響く。
それは、傲慢な「無」の確信を打ち破り、命を繋ぎ止めるための、あまりにも残酷で、泥臭い抵抗だった。
謁見の間に、アルトが戻ってきた。
その足取りは、いつものように正確。けれど、彼が纏う空気だけが、先ほどよりも数度、低く凍りついていた。
「……ヴェスパ陛下。はじめ様。辺境伯の処置が、終了いたしました」
はじめは、ヴェスパとベアトのホールドをすり抜け、這うようにしてアルトに駆け寄った。
「……あー。……。アルトさん。……。……。どうでした? ……。この国最強の魔導師さんの……フルパワーの上級ヒールで、……。サクッと、全快しちゃいましたかぁ……!?」
はじめの縋るような問いに、アルトは一瞬だけ、視線を床へと落とした。
だが、すぐに真っ直ぐはじめを見据える。その瞳には、誤魔化しという名のバグは一片もなかった。
「……命のログは、完全に安定しました。……。ですが」
アルトは言葉を選び、一音一音、慎重にログを吐き出す。
「……ゼロの残滓による侵食は、……。既存の回復魔法の『定義』を、根底から書き換えておりました。……。ヤツは、辺境伯を『既にデリート済みのデータ』として放置したのです。……。これ以上の侵食を……全身のプログラムへと波及させないため、……『物理的な隔離』を行いました」
「……。……隔離……? ……。それって、……」
「……はい。……。右腕という名の……一部機能を、……システムから切り離し……。物理的なデリート(切断)という形で、……本体(命)を守りきりました。……。現在、……辺境伯は……『片腕』という新しい仕様で、……眠っておられます」
はじめの顔から、一気に血の気が引いた。
アルトの言葉は、冷酷なまでに「事実」だった。けれど、そこには「これ以外の道はなかった」という、彼なりの必死な祈りにも似た重みが込められていた。
「……あー。……。……。……。
……。……。俺が、……。……もっと早く、……連れ出せていれば……。……向こうの世界でも、こっちの世界でも……。……俺は、何も……。……。……」
膝をつき、震える手で顔を覆うはじめ。
その横で、ヴェスパは組んでいた足を解き、沈痛な面持ちで目を伏せた。女王としての威厳を保ちつつも、その白銀の羽が微かに悲鳴のように震える。
ベアトは嫌味を言うのも忘れ、その小さな手で口元を覆い、
りりは、自分の魔法が届かなかった無力感に、ボロボロと大粒の涙をこぼし始めた。
「……はじめ様。……。……。
……。……顔を、……上げなさい。……。視界を、……。……。……涙で、……。……。……。曇らせてはいけません」
アルトはそれ以上、何も言わなかった。
ただ、一歩だけはじめに歩み寄り、崩れ落ちそうな彼の肩を、無言で支えるように立ち尽くしていた。
琥珀が食べていたお菓子の甘い匂いだけが、場違いなほど優しく、この残酷な「仕様変更」の場を満たしていた。




