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第三十二話:タイラさんですか?ブチギレです

水晶宮の冷たい静寂が、はじめの肌に突き刺さる。女王・黒耀の冷徹な視線は、はじめの心拍数までも見透かしているようだった。


「こ、これを……上様より、預かっております」


はじめは震える手で、懐から古びた、しかし重厚な気品を放つ巻物を取り出した。


「……『上』だと?」


黒耀が、低く、愉悦を孕んだ声で繰り返す。


「我が海に、私より『上』など存在せぬ。人族の男よ、貴様が言うその『上』とは、どこの誰のことだ? 言ってみろ」


分かっていて言わせようとしている。その傲慢な微笑みは、はじめに「格の違い」を分からせ、精神的なマウント(権限剥奪)を狙っているのだ。はじめは唾を飲み込み、上様の豪快な笑い顔を脳内にロードして、必死に声を絞り出した。


「……じ、獣国の王、森羅万象閣下です」


その名が出た瞬間、傍らに控えていたタイラの体がピクリと跳ね、墨花の瞳が鋭く細められた。だが、黒耀だけは鼻で笑い、玉座の背もたれに深く体を預ける。


「ふん……。あの、図体ばかりデカい『地上の象』か。私への献上物なら、そこに置いて失せろ。内容次第では、命だけは助けてやってもいい」


「いえ、これは献上物ではなく……貴殿への『親書』です」


「命令か。男のくせに、私に物を差し出す作戦とはいい度胸だ。……タイラ、持ってこい。毒見スキャンも忘れずにな」


タイラが仰々しくはじめから巻物を受け取り、女王へと捧げ持つ。

黒耀は、長い爪で乱暴に封を弾き飛ばすと、不機嫌そうにその中身へ視線を落とした。


——はじめは、端末を握る手にじっとりと汗が滲むのを感じていた。

(……上様。頼みますよ。本当に。僕を『デバッグ』する前に、僕の命が『消去』されたら元も子もないんですから……)


黒耀は、長い爪で乱暴に封を弾き飛ばすと、不機嫌そうにその中身へ視線を落とした。

はじめは、端末を握る手にじっとりと汗が滲むのを感じていた。


黒耀の瞳が、巻物に躍る剛毅な筆跡をなぞる。

その瞬間、彼女の脳内に、聞きたくもない「地上の王」の野太い声が直接響き渡った。


『……久しいな、海を統べる女王よ。

此度、貴国へ向かわせた「はじめ」なる男。こやつは、この余が直々に「友」と認め、獣国の危機を救った唯一無二の理の修正者である。

女尊男卑を謳う貴国の法は関知せぬが、こやつをただの「男」として侮ることは、この余を侮ることと同義と心得よ』


「……ッ、あの象が……何を……!」


黒耀の眉が険しく跳ね上がる。だが、読み進める指は止まらない。さらに過激な一文が、彼女の古傷を抉る。


『かつて、余の地響きひとつで、貴殿の誇り高き宮殿を震え上がらせたことを忘れてはおるまいな?

今の海に漂う「澱み」……その修正は、我が友はじめに一任してある。

もし、こやつに無礼を働き、余の顔に泥を塗るようなことがあれば……次は書状ではなく、余自ら大斧を携え、その水晶宮を文字通り踏み潰しに赴く所存。

……賢明な判断を期待する。 森羅万象』


「…………ッ!!」


最後の一行を読み終えた瞬間、水晶宮を支配していた「捕食者の余裕」が、急速に凍りついていく。

巻物を握りしめる黒耀の指先が、微かに震えていた。

それは怒りか、あるいは――かつて圧倒的な質量と暴力で、この深海の牢獄ごと自分を圧殺しようとした「動かざる山」への、抗いようのない恐怖か。


「女王……陛下……?」


タイラが戸惑ったように声をかける。

だが、黒耀はそれを無視し、剥き出しの敵意と隠しきれない焦燥が混ざり合った視線を、はじめへと叩きつけた。


「……お前……。……貴様……あの象に、どんなコードを盛った……。何を唆して、これほどまでの文を書かせたッ!」


黒耀の鋭い声が響く。だが、はじめの脳内では既に「エスケープ(Esc)」キーが連打されていた。

(だめだ。これ以上ここにいたら、確実に消去デリートされる……!)


「い、いえ! 滅相もございません! 僕はただ、上様からのお預かりものを届けただけで……! ご、ご覧いただいた通りですので、僕はこれで失礼させていただきます! あとは皆様でゆっくりデバッグ……じゃなくて、ご相談ください!」


はじめは一気に捲し立てると、一刻も早くこの場からログアウトしようと、踵を返して出口へ向かおうとした。

だが。


「……待ちさら晒せ、ド阿呆が」


背筋が凍るような、低い声がした。

振り返ると、そこには今までの「軽いノリ」を完全に消し去ったタイラが立っていた。


「自分……。黒耀はんに、何読ませた……? 自分、自分が何したか分かってんのか……ッ!!」


タイラの目が、見たこともない血走った光を帯びる。その手は腰の剣にかけられ、殺気が物理的な圧力となってはじめを押し潰そうとする。


「自分みたいな得体の知れん男が、女王を……この国を……上様の名前を使って脅して、タダで帰れる思うてんのかボケェッ!! 女王の屈辱は、ウチら魚人国の恥や!! ここでその腐った根性叩き直したるわ!!」


「タ、タイラさん!? 目が、目がマジですって! 僕はただ……!」


はじめが後ずさった瞬間、タイラが剣を抜き放とうとした——その時だ。


「——よせッ!! タイラ!!」


鋭い制止の声。放ったのは、他でもない黒耀だった。

彼女は玉座から身を乗り出し、タイラの腕を掴まんばかりの勢いで叫んだ。


「その男に触れるな!! 剣を収めろと言っているッ!!」


「し、しかし女王陛下! こいつは貴女様を侮辱して……!」


「……分かっていないのか!?」


黒耀の額には、隠しきれない冷や汗が流れていた。彼女の視線はタイラではなく、はじめが持ってきた「巻物」に釘付けになっている。


「いいから、その男を行かせろ……! 調査でもデバッグでも、好きにさせればいい! ……おい、お前! さっさと行け! 私の視界から今すぐ消えろッ!!」


「え、あ、はいっ!! 喜んで消えますッ!! 失礼しましたぁぁぁぁっ!!」


はじめは、脱兎のごとく謁見の間を飛び出した。

背後でタイラが「納得いかへん! 離してください黒耀はん!!」と叫ぶ声が聞こえたが、振り返る余裕など1ビットもない。


(……上様、怖すぎでしょ……。女王をあんなパニックにさせるなんて、昔、一体何をしたんですか……!)


はじめは、心臓のバクバクを抑えながら、逃げるように城の門をくぐり抜けた。

深海の闇へと逃げ込んだ彼の背中には、冷たい海水よりもさらに冷たい「権力者の恐怖」の余韻が、べったりと張り付いていた。


水晶宮の重苦しい空気から逃れるように飛び出したはじめは、冷たい海水の中で激しく肩を上下させていた。


「……死ぬ。マジでデリートされるかと思った……。あのタイラって人、完全に『キル・コマンド』打つ寸前でしたよ……」


「おやおやぁ……。随分と派手なログアウトでしたねぇ」


不意に、真横から柔らかく、けれど耳の奥にねっとりと絡みつくような声が響いた。

見れば、墨花がゆったりと、まるではじめの歩調に合わせるように隣を泳いでいた。彼女は焦る様子もなく、桃色の羽織の袖を揺らして、優雅に深海の水を捉えている。


「す、墨花さん……! 見てたんですか? あの女王様のパニック……」


「ええ、少しだけぇ。しんさんの書状なんて見せたら、そうなっちゃうに決まっているじゃないですかぁ。……ふふ、しんさんも相変わらず、人使いが荒いというか、無茶なことをされますねぇ」


墨花は「うふふぅ」とのんびり微笑みながら、扇子で口元を隠した。その瞳には、かつて「しんさん」と呼ばれた男と共に過ごした日々を懐かしむような、深い色が宿っている。


「女王様のヒステリーは、まあ、放っておけばいいですよぉ。それより、はじめ様ぁ。少し、海の色が変わってきたと思いませんかぁ?」


墨花が指差した先――北の深海へと続く道は、不気味なほどに「静か」だった。

はじめが端末を開き、環境データをスキャンすると、エラーログが静かに流れ出す。


「……これ、グラフィックがバグってる? 魚やサンゴの色が……真っ白だ」


翠玉楼うちの常連さんたちが、怖がって寄り付かなくなってしまったんですよぉ。なんでも、あっちの海溝の奥から、冷たくて空っぽな『何か』が、海の命――あなたの言うデータの欠片でも吸い取っているんじゃないかしら、なんてぇ」


墨花はのんびりとした口調を崩さないが、その瞳には夜の暗殺者を始末した時のような、冷徹な「掃除屋」の鋭さが微かに混ざった。


「案内してあげますよぉ、はじめ様ぁ。お城の退屈な会議よりは、面白いものが見られるはずですからぁ。……もっとも、少しばかり本格的な『お掃除』が必要な状況かもしれませんけれどねぇ」


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