第三十話:暗殺ですか?不可能です
「ほな、うちはここまでや! 魚人国、楽しんでいきやー! ギャハハハ!」
タイラが去り、ガイドライン(保護者)がログアウトした瞬間。
はじめの周囲の空気が、一気に「捕食者の檻」へと変貌した。
「……え、ちょっと、何ですかこの、高負荷時のファンみたいな熱気は……っ」
はじめが後ずさりする間もなく、港の女たちが獲物を囲むようにジリジリと距離を詰めてくる。その呟きは、もはや囁きではなく、剥き出しの欲望となってはじめに降り注いだ。
「おい、見たかよ。ありゃあ新入りだろ? 随分と細いじゃねぇか……」
「いいじゃない、あの頼りなげな腰つき。夜の『保守点検』のやり甲斐がありそうねぇ!」
「おいそこのひょろ男! うちに来るなら、一生働かずに済むように『飼って』やるよ!」
「ふん、あんたみたいな無骨な女にゃあ勿体ないよ。おーい、いい男! こっちを見てよぉ!」
「……っ、ちょ、待っ……! 僕はシステム監査の人間で、その、誘拐とか身売りの仕様は想定してないんです……っ!」
はじめが「物理的なデリート(連行)」を覚悟し、りりも「は、はじめさんは、渡しません……っ!」と足元をフラつかせながらも蜘蛛の糸を構えようとした、その時。
「――おやおや。騒がしいですねぇ。……皆さん、そこまでですよぉ」
ガヤガヤと湧き立っていた喧騒を、のんびりとした、けれど鋭い刃のように澄んだ声が切り裂いた。
人混みを割って現れたのは、中華風の桃色の羽織を纏ったイカの魚人。
その触手がゆったりと動くだけで、あれほど吠えていた女たちが「チッ……墨花の姐さんかよ」「翠玉楼の先客か、運がねぇな……」と、毒気を抜かれたように道を開ける。
墨花は、はじめの前で優雅に一礼した。
「はじめ様ですねぇ? 宿屋『翠玉楼』の主、墨花と申しますぅ。……遊び人のしんさんから、お話は伺っておりますよぉ」
「えっ……しんさん? ……あ、あの、上様のことですか?」
はじめは、脳内で暴れん坊将軍のテーマ曲を勝手に再生しながら、自称・神様の顔を思い浮かべた。
「はいぃ。しんさんとは、昔、この大陸を放浪されていた頃からの仲でしてぇ……。宿の準備は整っておりますから、どうぞこちらへぇ。のんびり、ゆったり、ご案内しますねぇ」
墨花は、吸盤のある指先で、はじめの手を優しく(そして逃げられない強さで)取った。
「……助かった。地獄に仏、というか、港に墨花さん。あの上様、普段は『余』とか言って暴れまわってますけど、こういうバックアップ体制だけは完璧なんだな……」
墨花の案内で港を離れ、はじめたちは中華情緒溢れる海宝市のメインストリートへと足を踏み入れた。
極彩色の看板がひしめき合い、屋台からは湯気と共に、八角や山椒の食欲をそそる香りが漂ってくる。
「……すごいな。まるでお祭りの実行環境の中に放り込まれたみたいだ」
「はじめ様、見てください! あっちの屋台、お魚が串刺しになって焼かれてます! こっちには、おっきな蒸し器がありますよ!」
琥珀が元気いっぱいに尻尾を振り、あちこちの匂いを嗅ぎまわっている。
そしてふと、彼女の鼻が、前を歩く墨花の背中で止まった。
「くんくん……。クンクン……。……はじめ様! 墨花お姉さん、すっごくいい匂いがします! なんだか、甘くて、少ししょっぱくて……とっても美味しそうな匂いです!」
「ちょ、琥珀さん! ダメですよ、初対面の人を食材チェックするみたいに嗅いじゃ! 失礼ですよ!」
慌ててはじめが琥珀の襟首を掴んで引き剥がす。だが、墨花は気にする様子もなく、のんびりと振り返って微笑んだ。
「うふふぅ、いいんですよぉ。私はイカの魚人ですからぁ、体から自然と『墨の旨味』が滲み出ちゃうのかも知れませんねぇ。……食べてみますぅ?」
「食べません! 琥珀、ダメですからね! 捕食モードのスイッチを入れるんじゃない!」
「ちぇー……。はじめ様、一口だけならバレないですよ?」
「バレるし、事件になるから! すみません墨花さん、うちの野生児が……」
はじめが胃を押さえながら謝ると、墨花は「うふふ、元気なのは良いことですよぉ」と、ゆったり触手を揺らして再び歩き出した。
魚人国の月は、どこか青白く、海底を照らす光のように冷たい。
宿屋『翠玉楼』の一室。はじめは、魚人国特有の「ふかふかの海綿布団」に身を沈め、ようやく安堵の吐息を漏らしていた。
「……ふぅ。波の音も聞こえないし、この布団、安定性が抜群(高可用性)だ。……これなら、やっと深いスリープモードに入れそうだよ」
「はじめ様、おやすみなさい! 明日は女王様に会うんですよね。……むにゃ、お魚、いっぱい食べられるかなぁ……」
隣の部屋では、琥珀が早々に夢の世界へ旅立っている。
扉のすぐ外で「私が……はじめさんのセキュリティを守りますから……」と、座ったままうつらうつらしているりりの寝息も聞こえてきた。
――その、静寂を切り裂く「影」が動いたのは、深夜二時のことだった。
建物の外壁を、音もなく這い上がる数人の女たち。
魚人国反王派組織**『紅鮫党』**の暗殺部隊。彼女たちの狙いは、女王の「お気に入り」になる可能性が高い、外来の男の暗殺。
「……野郎の首を獲って、女王の鼻をあかしてやるよ。いくよ、野郎ども」
抜き放たれた短刀が、月の光を反射する。
彼女たちが、はじめの寝室の窓枠に手をかけた、その瞬間。
「――おやおや。夜更かしは、お肌に悪いですよぉ?」
のんびりとした、けれど、鼓膜を直接撫でるような湿った声。
女たちが振り向く暇もなかった。
暗闇から伸びた、しなやかで強靭な「十本の触手」。
それが、まるで精密なプログラムのように、暗殺者たちの首、手首、足首を同時にロックした。
「が、あ……っ!? 貴様、翠玉楼の……っ!」
「静かにぃ。お客様は、やっとお休みになられたばかりなんですからぁ」
墨花は、いつもの桃色の羽織を脱ぎ捨て、黒い戦闘装束に身を包んでいた。
その瞳には、昼間の温和な光など微塵もない。ただ、上様の預かりものを守るという、冷徹な「命令実行」のみが宿っている。
触手の吸盤が、暗殺者の肌に吸い付く。
次の瞬間、墨花の指先から注入されたのは、神経を一瞬で焼き切る「深海麻痺毒」。
「あ……が、…………」
断末魔すら許されない。
墨花は、動かなくなった女たちの体を、触手で丁寧に、まるでお盆を運ぶような所作で回収していく。床に血の一滴すら落とさない。それは、清掃業者のような手際の良さだった。
「……ふぅ。これで、お掃除完了ですねぇ」
墨花は、乱れた髪を一撫ですると、再びのんびりとした女主人の顔に戻った。
窓の外には、何事もなかったかのように静かな海宝市の夜が広がっている。
翌朝。
はじめは、清々しい顔で目を覚ました。
「おはよう、琥珀さん、りりさん。……いやぁ、よく眠れた。この宿、セキュリティも防音も完璧だね。何のノイズも聞こえなかったよ」
「はいぃ、はじめ様ぁ。よくお休みになれたようで、何よりですぅ」
墨花が運んできた朝食のお盆には、昨夜の惨劇を感じさせるものは何一つなかった。
ただ、彼女の指先が、ほんの少しだけ……海の匂い(潮の香り)を強く纏っていたこと以外は。




