第二十九話:ベアトです。ヴェスパです。
領主の兄として、ゼノは確かに「最前列の来賓席」に案内された。だが、彼の隣には、不自然なまでに「空席」が目立っていた。
ゼノが座っている席よりもさらに良い、特等席中の特等席には――
【はじめ様】
と、丁寧に金糸で刺繍された名札。
そして、その遥か後方。隙間風が吹き抜けるような、隅っこの居心地の悪そうな席には――
【アラクネの聖女見習い(仮)】
という、あからさまに「ついで」で用意されたような、殴り書きに近い名札の空席が寂しく置かれていた。
(……ベアト。お前、はじめへの愛と、ライバル(りり)への敵意が、座席表のレイアウトに丸出しだぞ……)
ゼノは隣の空席を見つめながら、今頃海の上で「ぐえぇ」と言っているであろう友人に、心の中で深く同情した。
式典の最後。女王の冠を授かったベアトは、凛とした声で宣言した。
「本日をもって、私はこの領を正式に継承いたします。……つきましてはゼノ兄様。明日からの領地経営の『全権』をお渡ししますわ。あ、その書類の山、崩すと死にますから気をつけてくださいね」
「全権……? 待て、それはつまり、俺が全部やるということか!?」
「ええ。私はこれから、大切な『忘れ物』を取りに、魚人国まで『シュッ!』と行って参りますので」
ベアトの瞳には、もはや事務作業の「じ」の字も映っていない。
「おい! 待てベアト! 魚人国へ行くには、虫国を出る許可証がいるはずだぞ!」
「ですから、今からヴェスパ女王陛下に、直接『分捕り』に伺うのですわ」
戴冠式を終えたその足で、ベアトは王都へと全速力で飛んだ。
新領主としての初仕事が、女王への「出国許可」の直談判というのだから、随行した兵たちも生きた心地がしない。
謁見の間の重厚な扉が開くと、そこには相変わらずの威圧感で玉座に君臨する、女王ヴェスパの姿があった。
「……許可? どこの誰に向かって、そんな身勝手なコード(要求)を投げているのか?」
王都、謁見の間。ヴェスパは扇子でベアトを指し、冷徹な声を響かせた。だが、その瞳の奥には、隠しきれない動揺が走っていた。
(……はじめの元へ行くだと!? この私が、業務過多と気まずさで一歩も動けないというのに、この小娘は……っ!)
「はじめは現在、魚人国の『異常』を調査中だ。あそこの女どもは、外の男と見れば誰彼構わず捕らえて孕ませようとする野蛮な種族。子爵如きが行けば、足手まといになるのは明白だ。おとなしく領地を耕していればよいものを!」
ヴェスパは、あることないこと「魚人国の危険性」を並べ立て、全力でブロックにかかる。
「いいか、今の虫国は多忙を極めているのだ。新領主のお前が国を空けるなど、全システムを強制終了させるに等しい暴挙。断じて許可は出せぬ!」
「女王様、それは誤解ですわ」
ベアトは不敵な笑みを浮かべ、一歩前へ出た。
「領地の管理なら問題ありません。兄のゼノに、私の『全権』をデリゲート(委任)して参りましたから。あ、全権ですから、女王様への報告業務も全て兄が代行いたしますわ」
「なっ……あのアホな兄に丸投げしたというのか!? 認めん! 承認せんぞ!」
「いいえ、女王様。これは『国家の危機管理』なのです。魚人国は女尊男卑の国。あの方々が、もしはじめ様の『希少な男性としての価値』に気づき、国を挙げて囲い込みにかかったら? はじめ様は押しに弱い。……このままでは、はじめ様は魚人国の『資産』になってしまいますわよ?」
「……っ!」
ヴェスパの喉が鳴る。その「もしも」は、彼女が最も恐れていたバッドエンドだ。
「女王様が激務で動けないのであれば、せめて私が。はじめ様が『魚人国の女にバグらされる』前に、こちら側の仕様を再インストールして参ります。これは虫国の利益を守るための、至極全うな『保守点検』ですわ。……まさか、女王様。個人的な理由で、国の損失を見逃すわけではありませんわよね?」
「ぐ、……ぬぅ……」
正論(という名の詭弁)で外堀を埋められ、ヴェスパは扇子を握りしめた。
行きたい。でも顔を合わせる勇気がない。けれど、ベアトだけを行かせて「はじめの隣」を独占されるのは、死んでも嫌だ。
「……フン、分かったわ。そこまで言うなら、許可してあげなくもないわ」
ヴェスパは、ギリ……と奥歯を噛み締めながら、ついに「禁断のパッチ」を当てた。
「ただし! お前一人では不安だわ。……幸い、この私にしかできない『高度な外交案件』を思い出したところよ。私も行く。……あくまで、公務のついでよ! 勘違いしないでちょうだい!」
「ふふ、さすが女王様。ご理解が早くて助かりますわ」
こうして、激務という名の「書類の山」をゼノ一人に残し、二人の乙女による「魚人国・緊急パッチ配布ツアー」が結成されたのである。
「……いいわ、許可してあげる! ただし私も『公務』で行くと言っているのよ! 今すぐ馬車の準備を――」
ヴェスパが玉座から立ち上がり、鼻息荒く宣言したその時。
背後の影から、音もなく一人の男が歩み出た。
「……ヴェスパ様。その『公務』という言葉。現在山積みとなっている政務の現状と照らし合わせても、あまりに無理があるとは思いませんか?」
すっとした長身に、眼鏡の奥で知的な瞳を光らせる青年。アシナガバチ族の執事、**アルト(25)**である。彼は手にした分厚い書状の束をパサリと開き、冷徹な現実を突きつけた。
「現在、王宮に届いている未決済の書類は三千四百二通。そのうち、本日中に貴女様の印が必要なものが、全体の六割を占めております。……この状況で『外交』などという名目を掲げ、お忍びで他国へ走るなど、王としての自覚が欠けていると言わざるを得ません」
「ア、アルト!? お前、いつの間にそこに……ッ。ええい、うるさいわ! それは全部ゼノに――」
「ゼノ様は現在、みつばち領で膨大な実務の波に飲まれており、もはや限界です。これ以上の負担を強いるのは、彼の忠義を仇で返すも同然。……よって、ヴェスパ様」
アルトは一歩前に出ると、完璧な所作で一礼し、そして――物理的な「書類の束」でヴェスパの行く手を塞いだ。
「女王として、まずはこの責務を果たしてください。あの方への募る想い……失礼、急ぎの御用に関しては、すべての執務を終えた後に再検討いたしましょう」
「なっ、……想い……ッ!? 誰が、そんな、アホなことを! どきなさいアルト! 私は女王よ、命令しているのよ!」
「はい、女王様。ですので、女王としての『責任』を全うしてください。さあ、ペンをお持ちに。一通につき三秒で署名すれば、明日の朝には終わりますよ」
「あ、明日の朝ぁ!? ふざけないで! それじゃあ、あの小娘だけがはじめの元へ……っ!」
ヴェスパは泣きそうな顔でベアトを睨むが、アルトの「鉄壁の正論」に完全に動きを封じられてしまった。
「ふふ……。それではヴェスパ様、お仕事頑張ってくださいませ」
ベアトは勝者の余裕を浮かべ、スカートの裾を軽く持ち上げて優雅に一礼した。
「はじめ様には、女王様が『お仕事があまりにも溜まっていて、一歩も動けないほど不甲斐ない様子でした』と、ありのままをお伝えしておきますわ。……それでは、お先に失礼いたします!」
「待ちなさいベアト! 嘘を吹き込むな! 誰が不甲斐ないですって!? 戻れ! 戻りなさいアルト、そこをどけええぇぇッ!!」




