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第二十八話:ベアトです。マジ(真剣)です

「ほな、出発するでー! 海宝市かいほうしに向けて、出航やぁー!」

 

タイラの威勢のいい号令が港に響き渡る。

海竜に引かれた快速船は、滑るように蒼凪あおなぎの港を離れた。最初は穏やかだった波も、沖に出るにつれてその高さを増していく。


数時間後。船上には、この世の終わりを詰め込んだような「絶望のログ」が漂っていた。


「船……初めて乗るんですが……。こんな、視界の水平線(UI)が、ガタガタに崩れるとは……ッ」


はじめは、手すりに指が白くなるほどしじがみつき、青ざめた顔で絶叫した。

いや、絶叫しようとした瞬間、胃の中の「仕様外データ」が逆流し、

「ぐえーーッ!!」

盛大に、魚人国の海へと強制デリート(嘔吐)が実行された。


「……はじめさん……大丈夫……ですか……っ」


その隣で、アラクネのりりもまた、今にもシステムダウンしそうな顔で、震える指を自分に向けていた。


「ヒール……。……あ、少し……マシ……に。……ヒール……ッ!」


彼女の使えるのは初級ヒールのみ。完全に「船酔い」というデバフを消し去ることはできず、数分おきにパッチ(回復)を当て続けなければ、意識を保てない状態だ。


一方、そんな地獄絵図をどこ吹く風で楽しんでいるのが、白虎の幼女・琥珀だった。


「わー! 海だー! はじめ様、見てください! おっきな水たまりが、ずっと続いてます! 琥珀、はじめて見ました!」


船べりから身を乗り出し、元気いっぱいに尻尾を振る琥珀。獣人ゆえの三半規管は、海竜の不規則な揺れすら「アトラクション」として処理しているらしい。


「難儀なことやなぁ、はじめはん! 陸の上では救世主様やいうても、波の上じゃあただの『撒き餌製造機』ですわ! ギャハハ!」


タイラがはじめの背中をバシバシと叩く。その衝撃ですら、今のはじめにとっては致命的な攻撃(物理)だ。


「……タイラ、さん……。揺れを、揺れをせめて、等速直線運動に……っ、ぐえぇぇ!」


「何言うてますの、これでも海竜のハッちゃんに、一番静かなモードで頼んどるんやで? 魚人国の海は、もっと『ドーン!』ときて『バーッ!』やからな。覚悟しときや!」


はじめは返事をする余裕もなく、ただただ、異世界の海の洗礼を全身で受け止めていた。


――この時、はじめたちはまだ知らない。


船が東へと進むその裏で。

北西の街道を、一人の男が泥にまみれ、純粋な「兄としての意地」だけで激走していることを。


「(……あと三日……ッ! 五日以内に戻れば、ベアトもきっと笑って迎えてくれるはずだ。待ってろよ、ベアト! 兄さんは間に合わせてみせるぞ……っ!)」


ゼノは馬の腹を蹴り、愛する妹の笑顔(という名の幻想)を思い浮かべながら、一陣の風となって駆け抜けていた。

自分の帰還を待っているのが、温かい抱擁ではなく、自分を「永久欠番(内政担当)」として固定するための分厚い書類の束だとは、露ほども疑わずに。


航海に出て四日目。

ようやくはじめの三半規管が、異世界の「揺れ」という名のイレギュラーな入力に耐性を持ち始めた頃だった。


「……ふぅ。どうやら、脳内の言語パッチが平衡感覚まで最適化したようです。なんとか、立っていられますよ」


ゲッソリと頬はこけているが、はじめの瞳にはSEらしい冷静な光が戻っていた。だが、手すり越しに覗き込んだ海面を見て、彼は小さく眉をひそめた。


「タイラさん。……潮の匂いが変わりましたね。それに、海の色が……」


「……せやろ。はじめはんも気づいたか」


いつも陽気なタイラが、一瞬だけ真面目な顔で水平線を見つめた。

海の青みが、まるでインクを薄くこぼしたように、淀んだ紫混じりの色に変わっている。派手な変化ではない。だが、確実に「生命」の輝きを失わせるような、静かな侵食。


ふと見ると、海面に腹を白くした魚が数匹、プカプカと浮いていた。


「わあぁ……! はじめ様、見てください! おっきなお魚が、あんなにたくさん落ちてます!」


琥珀が身を乗り出し、期待に満ちた目でよだれを垂らす。


「あれ、拾って食べてもいいですか? 焼いたら、きっと美味しいですよ……!」


「ダメです、琥珀さん! 絶対に食べちゃいけません!」


はじめは慌てて琥珀の襟首を掴み、父親のような剣幕で制止した。


「いいですか、理由もなく浮いている魚は、システムの『不正データ』と同じです。何が含まれているか分からないんだから、口にしちゃダメだ。分かりましたね?」


「はーい……。……おいしそうなのに、もったいないです……」


しゅんとする琥珀。その背後で、タイラが少しだけ感心したように、はじめを見つめていた。


「……さすが、お兄ちゃん。鼻が利くわ。うちのハッちゃん(海竜)は、頭を海の上に出して進んでるから平気やけど、中の魚らは、なんや『息苦しい』言うて、弱っとるみたいやわ」


不穏な空気が流れる甲板。だが、そんなシリアスな状況に、一人だけ取り残されている者がいた。


「ヒール……っ! ぐえっ……ヒール……!!」


アラクネのりりである。

はじめが「慣れ」によって環境に適応したのに対し、彼女は初級ヒールで中途半端に「酔い」というログを消し、再起動を繰り返していた。その結果、感覚がリセットされるたびに新しい揺れを新鮮な衝撃として受け取ってしまい、状態異常は悪化の一途を辿っていたのだ。


「りりさん、もうヒールを止めて、いっそ寝てしまった方が……」


「い、嫌です……! 私は、はじめさんの隣で……っ! ぐえぇぇ!」


健気(という名の執念)で耐え抜く彼女を乗せ、船はついに五日目の朝を迎えた。

水平線の向こうに、漆黒の岩肌を宝石のように散りばめた、魚人国の玄関口『海宝市』が見えてくる。


「さあ、着いたで! おかの上は、女たちが男を奪い合う『戦場』やさかいな! はじめはん、覚悟しときやー!」


ようやく安定した地面が見えたはじめは、タイラの警告など耳に入らない様子で、「やっと……地面(安定OS)に帰れる……」と、祈るように両手を合わせた。


――一方そのころ。


北西の『みつばち領』では、一頭の馬が、今まさに限界を迎えて崩れ落ちようとしていた。

泥まみれ、埃まみれ、おまけに髪はボサボサ。かつての「白虎の剣士」の面影など微塵もないゼノが、城門の前に立ち尽くしていた。



「……間に……合った……。五日……ぴったりだ……っ!」


彼は、妹の笑顔だけを支えに、門を潜った。

だが、そこで彼を待っていたのは、煌びやかな戴冠式の衣装に身を包み、冷ややかな瞳で自分を見下ろす、実の妹の姿だった。


「あら、お兄様。お帰りなさい。……案外、早かったですね」


ベアトの足元には、見たこともないような「書類の山」が、まるでゼノの墓標のように高く積み上げられていた。


「あら……? はじめ様は、どこにいらっしゃいますの?」


戴冠式の煌びやかな衣装をまといながら、ベアトは開口一番、そう言った。泥だらけで息を切らしている兄のことなど、視界の隅にすら入っていない。


「……はじめ、だと? あいつは今、この国の『異常』を調査するために魚人国へ向かった。今回は来ていないぞ」


ゼノが息を整えながら答えると、一瞬の静寂の後、会場に乾いた音が響いた。


「――っ、チッ」


「……今、舌打ちしたか? 妹よ、実の兄に対して、今、盛大に舌打ちしたよな!?」


「何のことです? それよりお兄様、一人でいらしたんですか? 一体何をしに、わざわざこんな泥まみれの格好でここへ?」


ベアトは扇子で口元を隠しながら、心底不思議そうに首を傾げた。


「何をしにって……お前の戴冠式に出るためだろう! お前が『五日以内に戻れ』と、あんな物騒な手紙で俺を呼びつけたんだろうが!」


「あら、そうでしたかしら。……ふふ、はじめ様がいらっしゃらないのなら、記憶の優先順位キャッシュから消えてしまいましたわ」


「お、お前……!」


ゼノが絶句する中、戴冠式は淡々と進行した。


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