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第二十六話:旅立ちですか?東に向かいます

宴の終わりを告げるように、森羅万象の荘厳な声が、夜の静寂を震わせた。 

 

「皆のもの、本日はごくろうであった。……余が最高の寝所を用意させたゆえ、ゆるりと休むがよい。小娘ヴェスパも、その羽を休めるがよかろう。今宵は泊まっていくがよいぞ」


「……だれが、泊まるか……っ! わらわは、帰る……!」


ヴェスパは椅子の背を掴み、立ち上がろうとした。だが、その足取りは生まれたての小鹿のように覚束ない。彼女が煽った「悪魔の酒」は、その小さな体に、抗いようのない熱と倦怠感を刻み込んでいたのだ。


「陛下……本日はお言葉に甘えましょう。……不甲斐なきかな、我らも……もう、飛べませぬ……」


護衛の蜂たちが、力なく触角を垂らして懇願する。主君を守るべき彼らもまた、酒精の深淵に沈んでいた。


「くっ……。ならば……。はじめ、貴様……わらわと……『とぎ』でもするか?」


赤く染まった頬。潤んだ瞳。

精一杯の強がりの中に、ヴェスパの抑えきれない「本音」が、蜜のように溢れ出していた。



だが、はじめはといえば。


「おっ、いいですね! ぜひ、やりましょう!」


満面の笑みで、快諾したのだ。

そのあまりに屈託のない反応に、ヴェスパは一瞬、心臓が跳ね上がるのを感じた。


「……っ!! ……た、たわけめ! 冗談に決まっておろうが! 痴れ者がっ!」


ヴェスパは耳まで真っ赤に染め上げると、スカートを翻し、護衛に抱えられるようにして用意された寝室へと逃げ込んでいった。


その頃、幼いりりは、すでに深い眠りの中。ゼノが愛おしそうに彼女を抱え上げ、静かに寝室へと運んでいく。


宴のあとの、少し寂しくて、温かい静寂。

はじめは、夜空に浮かぶ月を見上げながら、ポツリと独り言を漏らした。


「……ところで。『伽』って、なんだろう。トランプか何かかな?」


その声は、誰に届くこともなく、夜風の中に溶けて消えていった。


まだ星が瞬く未明。

ゼノは、森羅万象から託された馬の鞍に、一通の羊皮紙を慎重に収めた。

それは、遠く離れた地で待つベアトからの親書だった。

『私の戴冠式、……絶対に来てね』

揺れる文字で綴られたその言葉が、ゼノの背中を押した。

(遅れるわけにはいかない……。あの小さな少女が、女王として立つ瞬間を見届けるまでは)

ゼノは、まだ夢の中にあるはじめやりりの部屋を一瞥し、砂塵を巻き上げて森から駆け出していった。


一方、城の中。

昨夜、あれほど賑やかだった宴の熱気はどこへやら、ヴェスパとりりは、ひどい頭痛と戦っていた。

「……ん……。わらわは、何を……」

隣の部屋から聞こえるヴェスパのうめき声を背に、はじめはまず、りりの部屋を訪ねた。


コンコン、と控えめに扉を叩く。

「りりさん、体調はどうですか? 大丈夫ですか?」


扉が少しだけ開き、中から顔を出したりりは、顔を赤らめながら俯いていた。

「……あ、あの……。おはようございます、はじめさん……」

りりは、寝癖のついた髪を恥ずかしそうに押さえながら、一歩外へ出た。


「あの……私、昨日の宴の途中から、全く覚えていないんです……。本当にごめんなさい! 私、何か……変なこと言ったり、ご迷惑をかけたりしませんでしたか……?」


上目遣いで不安そうに見つめてくるりり。

システムエンジニアとして論理的に状況を分析するなら、「泥酔による一時的な記憶障害」だと説明できるが、はじめはただ優しく微笑んだ。


「いえ、何も……。ただ、静かに寝ていただけですよ。あぁ、それより、ヴェスパさんも起きたようですけど、彼女も昨夜のことは……」


はじめがそう言いかけると、廊下の向こうから「ぎゃあああ!」という絶叫が聞こえてきた。どうやら女王も、自分の「失態」を断片的に思い出したのかもしれない。胸を撫で下ろすりり。だが、その平穏はすぐに破られる。


「ぎゃああああ! は、恥に死ぬ! わらわは恥に死ぬぞぉぉぉ!」


ヴェスパの部屋から響いた絶叫は、二人の会話を完全に遮断した。

バタン!と勢いよく扉が開き、顔を火傷でもしたかのように真っ赤にした女王が、千鳥足で飛び出してきた。

「き、貴様ぁ! はじめ! 昨夜のことは……昨夜のことは、一切合切、きれいさっぱり、デリートしろ! よいな!?」


「デリート? ああ、忘れるってことですね。了解です。でも、ヴェスパさんが言ってた『伽』っていうのは、結局何のゲームだったんですか?」


はじめが首を傾げて問い返すと、ヴェスパは声にならない叫びを上げ、その場に力なく崩れ落ちた。

SEであるはじめにとって、分からない単語は「仕様確認」の対象でしかないのだが、それが乙女心にどれだけのダメージを与えるか、彼はまだ知らない。


「――はじめ様。王がお呼びです」

廊下で立ち尽くすはじめたちの前に、音もなく現れたのは、ピンと立った耳が愛らしい猫耳メイドだった。


メイドに案内され、重厚な扉の向こう……『王の間』へと足を踏み入れたのは、はじめ、りり、そして琥珀の三人だ。


玉座に座る森羅万象は、昨夜の豪快な酔いどれ姿が嘘のように、険しい表情を浮かべていた。

「昨夜は楽しめたようだな。……だが、早速で済まぬが、昨晩『魚人国』から届いた親書の件を話さねばならぬ」


森羅万象は、珍しくはぎれの悪そうな口調で言葉を継いだ。

「……魚人国の海域で、謎の毒による汚染が始まっておるらしい。原因は不明……。余が自ら動ければよいのだが、まだアンデッドとの戦後処理が済んでおらず、ここを動けぬのだ。そこで……」


「わかりました。調査に行きましょう」


はじめの即答に、森羅万象は目を見開いた。以前なら「自分はただのSEですから」と長々と交渉ごねてしていただろうに。はじめの瞳には、迷いのない光が宿っていた。


「い、行ってくれるか! 恩に着るぞ、はじめ! ならば、青龍領の最東端にある貿易の町**『蒼凪あおなぎ』**へ向かうがよい。そこから魚人国へ渡るための最速の船を用意させよう」


「わかりました。では、すぐにでも出発いたします!」


はじめが力強く頷き、りりと琥珀も覚悟を決めた表情を見せる。だが、はじめはそこで一度言葉を切り、少しだけ声を落として続けた。


はじめは、隣に立つ小さな背中を見つめ、意を決したように森羅万象へ告げた。


「……ですが、琥珀は連れていけません。彼女はまだ七歳の子供です。海を越えた先の毒の調査など、危険すぎます」


はじめの言葉は、かつてシステムを保守してきた彼らしい、リスクを最小限に抑えようとする判断だった。だが、森羅万象は玉座に深く腰掛け、琥珀を見つめて問いかける。


「はじめはこう申しておるが……どうする、琥珀よ。お主自身の心を聞かせよ」


森羅万象の問いが終わるか終わらないかのうちに、琥珀は一歩前へ踏み出した。


「私は行きます! はじめ様の力に、必ずなります! 七歳とはいえ、これでも誇り高き『白虎の戦士』です! 守られるだけの子供ではありません!」


その瞳に宿る烈火のような決意に、はじめは言葉を詰まらせた。


「……それでも、私は反対です。戦士だなんて、そんな……」


頑なにはじめが反対し続けたその時、ずっと黙っていたりりが、そっとはじめの袖を引いた。


「はじめさん……。琥珀ちゃんは、私が責任を持って面倒をみます。それに……」


りりの声が、少しだけ悲しげに揺れる。


「……琥珀ちゃんが今、一人で村に戻ったとしても……」


その言葉に、はじめは息を呑んだ。アンデッドに襲われ、変わり果ててしまった白虎村。琥珀にとって、帰るべき場所はもう、はじめたちの隣にしかなかったのだ。


「……。……そう、だったな……。……分かった。仕方ない……」


はじめがしぶしぶと、しかしどこか諦めたように頷くと、琥珀とりりは顔を見合わせた。


「やったぁー!」


無邪気に喜ぶ琥珀の笑顔を見て、はじめは「やれやれ」と肩を落とす。しかし、その表情はどこか、家族を守る決意を新たにした父親のようにも見えた。


はじめたちが王の間で旅の決意を固めていた、ちょうどその頃。


城の裏門では、羽を激しく震わせる一人の女性の姿があった。

虫国の女王、ヴェスパである。


「(……思い出した……。わらわは……昨夜……あやつに……『トギ』がどうのと……。しかも……あんなに近くで……っ!!)」


記憶の断片がパズルのようにつながるたび、彼女の顔面は沸騰したかのように赤く染まっていく。

昨夜の自分を、今の自分自身の針で刺してやりたい。そんな衝動に駆られながら、彼女は誰にも見つからないよう、抜き足差し足で城門をくぐり抜けた。


「……さらばだっ! はじめ、そして森羅万象! 今日この日のことは、わらわの記憶からも永久に抹消デリートしてくれるわぁぁぁ!!」


誰にともなく叫ぶと、彼女は女王の威厳もどこへやら、凄まじい速度で虫国の方角へと飛び去っていった。

それはまさに、一陣の赤い突風。


後に残されたのは、彼女が巻き上げた砂埃と、あまりの速さに呆然と立ち尽くす門番の兵士たちだけであった。


一方、そんなこととは露知らず、はじめは王の間で旅の支度を終えようとしていた。

「……そういえば、ヴェスパさんは? 挨拶くらいしておきたかったんですけど」


「……あの様子では、今頃は虫国の国境まで飛んでおるだろうよ」

森羅万象が苦笑いしながら答える。


こうして、賑やかだった獣王の城に、ひとときの静寂(と、はじめの困惑)が訪れたのであった。


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