第二十五話:宴会です。酒乱です(後半)
ヴェスパの足元が、ふわりと浮いたように揺れた。
本来、彼女は社交界の華。酒の嗜みも、その強さも一級品だ。だが、今は条件が悪すぎた。全速力による肉体の高揚、そして空腹への一気飲み。そこへ畳み掛けられた『初恋殺し』の猛毒のような甘さが、女王の鉄壁の理性を一瞬で溶かしたのだ。
「……おや。ヴェスパ様、顔が真っ赤ですよ? 移動でお疲れなんでしょう。さあ、こちらに座ってください。水を貰ってきますから」
「……は、はじめ……?」
はじめは、隣にいた獣人たちを丁重に(というか必死に)かき分け、自分のすぐ隣の空席をポンポンと叩いた。
彼にすれば、ただの親切心。疲れ果てた友人を気遣う、58歳の「お父さん的」な配慮だったのだが……。
「……フ、フン。……お前がそこまで言うなら、座らぬこともない。……仕方ない、お前の顔を立てて、座って……」
ヴェスパは、まるで恋する少女のように頬を染め、デレデレと崩れそうな表情を必死に「高飛車なマスク」で隠しながら、吸い寄せられるように座った。
その刹那。
「——あぁぁぁーーーーっ!! い、いけないんだぁぁぁーーーーっ!!!」
会場の喧騒を突き破る、悲痛な叫び声が上がった。
りりだ。
「おい、りり!! シッ! 声が大きい、不敬だぞ!!」
ゼノが慌ててりりの口を塞ごうとするが、泥酔した「泣き蜘蛛」の勢いは止まらない。
「だっ、だめですぅぅ!! はじめさんの隣は、りりの、りりの特等席なんですぅぅ!! ヴェスパ様、ずるい! 職権乱用ですぅぅぅ!!」
「なっ……!? な、何を言っているのだ、この小娘はッ!! 私はたまたま、偶然、はじめが座れと言うから……っ!!」
ヴェスパの触角が、怒りと羞恥でピンピンと跳ね回る。
その中央で、はじめだけが、何が起きたのか、何が悪いのかさえ分からず、ただ呆然と「え、えぇ……?」と、水の入ったコップを手に立ち尽くしていた。
上座の森羅万象は、もはや笑いすぎて椅子から転げ落ちんばかりに震えている。
「よい。本日は無礼講よの? 森羅万象殿。わらわも、この程度のことでは何も思わぬ。……フン、寛大な女王の心を見せてやろうではないか」
ヴェスパは、まるで千鳥足のような危うい手つきで扇を広げ、余裕たっぷりの表情を作ってみせた。
だが、その瞳は完全に座っており、頬の赤みはもはや「茹で上がったカニ」のよう。
普段の彼女なら、りりの「職権乱用」などという不敬な言葉を耳にした瞬間、城を半分消し飛ばすほどの怒りを見せていたはずだ。しかし、今は『初恋殺し』が彼女の理性を心地よい雲の中に閉じ込めていた。
「——なら、ヴェスパ様!! 酔った勢いで言わせていただきますっ!!」
りりが、ゼノの腕を振りほどき、テーブルをバンッ!! と叩いて身を乗り出した。
「ヴェスパ様は、はじめ様をどう思ってるんですか!? 私は、私は、はじめ様を愛してますよ!! 誰にも渡しませんからぁぁぁーーーっ!!」
会場が、一瞬で静まり返った。
カラスの司会者も、思わず実況を忘れてマイクを落とす。
「……ほう。……愛し……て、おるだと……?」
ヴェスパの眉がピクリと動く。
普段なら「小娘が、身の程を知れ」と一蹴するところ。だが、泥酔した女王の負けず嫌い(本音)が、最悪の形で火を噴いた。
「……フフン、笑わせるな。お前のようなひよっこと、はじめでは釣り合わん。……わらわのような、格も、美貌も、包容力もある女なら……別だがな……っ!!」
「なんですってぇぇーっ!! ヴェスパ様だって、はじめさんのこと……!!」
「う、うるさいっ!! 私は、偶然だと言っているだろうがぁっ!!」
「偶然でそんなに顔赤くなりませんーーーっ!!」
ギャーギャーと掴み合いの喧嘩(という名の、泥酔した女子の言い争い)を始めた二人。
「落ち着け! りり、お前は聖女だろ! ヴェスパ様も、女王の威厳を思い出してください!!」と、ゼノが死に物狂いで間に入るが、もう誰も止まらない。
そんな嵐の真ん中で、はじめだけが、ふにゃりと頬を緩めていた。
「(……あぁ、よかった。最初はヴェスパ様もりりちゃんもピリピリしてたから心配したけど……。あんなに本音をぶつけ合って、言い合えるなんて……。やっぱり、二人は仲良くなれたんだなぁ……)」
大いなる勘違い。
絶望的なまでの、天然。
「ガハハハハ!! 愉快、愉快!! 飲め、はじめ! 良い肴ではないか!!」
森羅万象は、自分の描いたシナリオ(地獄)が、一分一秒の狂いもなく完璧に進行していることに、震えるほど感動していた。
これぞ、獣王の楽しみ。
これぞ、策士の極み。
「おぬしも悪よのぉ……」という誰かの声が聞こえてきそうな、邪悪で楽しげな笑い声が、修羅場の会場に響き渡っていた。
宴の開始から二時間。
「赤い閃風」となって消えた主を追い、ようやく息を切らせて到着したヴェスパの護衛たちが、ボロボロになりながら会場へなだれ込んできた。
「じょ、女王様ぁ……っ!! ひどいです、我々を置いて先にいかれるなんて……ハァ、ハァ……っ!!」
「フン、遅いお前たちが悪い。わらわは『偶然』隙間ができたから、速やかに移動したまでだ。……ほら、飲め。獣国の酒は格別だぞ」
頬を赤く染め、完全に「無敵(泥酔)モード」のヴェスパは、護衛たちの苦労などどこ吹く風。
そんなカオスな一角で、一人の護衛が、りりをなだめ疲れ果てていたゼノの元へ歩み寄った。
「……ゼノ様。蜜蜂領主、ベアト様より、貴方様へ親書をお預かりしております」
「ベアトから……? なんだ、あいつ、また何か文句でも……」
ゼノは嫌な予感を覚えながら、封を切った。
そこには、丁寧な筆致で、だが読む者の心臓を握りつぶさんばかりの「トゲ」が、これでもかと敷き詰められていた。
『前略。お兄様。ごきげんよう。
今頃はわたくしの苦労も気にせず、殿方同士、あるいは不潔なメス蜘蛛と楽しんでいらっしゃることと思います。
さて、お兄様。この度、わたくしの戴冠式を正式に行う運びとなりました。当然、先日の葬儀のように「欠席」……などという、わたくしの誇りを踏みにじるような真似はなさいませんわよね?
式は今から五日後に行います。くれぐれも、一分一秒たりとも、遅れないようにお願い致しますわ。
ベアト。草々』
読み進めるうちに、ゼノの顔面から急速に血の気が引いていく。
酒の酔いなど、一瞬で彼方の彼方へ吹き飛んだ。
「……は、はじめ!! すまん、はじめ!!」
「えっ、ゼノさん? 急にどうしたの、そんなに真っ青になって……」
「すぐに、ここを立たねばならなくなった!! 猶予は五日……。この獣国から蜜蜂領まで、不眠不休で飛ばねば間に合わんッ!!」
「えぇぇーーーっ!!? 今から!? 宴会始まったばかりだよ!?」
ゼノの悲鳴のような絶叫に、はじめはコップを持ったまま固まった。
隣では、ヴェスパが「行かせぬぞ、わらわが……はじめを……」と、はじめの腕に抱きつき始め、逆サイドでは、りりが「あぁぁ、お兄様が、はじめさんを連れ去ろうとしてるぅぅ……っ!!」と泣き喚く。
まさに、地獄の上塗り。
この絶望的なまでの「板挟み」を肴に、森羅万象はついに、笑いすぎて喉を詰まらせ、「ブフッ!!」と豪快にお酒を吹き出した
「——王様に申し上げますッ!! 緊急事態ですッ!!」
会場がゼノの悲鳴と女子たちの痴話喧嘩で混乱を極める中、血相を変えた一人の伝令兵が、土足で宴会場へ飛び込んできた。
その殺気立った空気に、上座で笑っていた森羅万象の瞳が、一瞬で鋭い「王の目」へと戻る。
「……申してみよ」
「はっ!! 同盟国である魚人国、黒耀様より親書が届きました! 『突然、一部の海の色が変化し、毒に変わったようだ。被害は少ないが、生命の循環が止まりつつある。用心されたし』……とのことです!!」
「……何だと……ッ!?」
森羅万象が椅子を蹴って立ち上がった。
つい数秒前まで「おぬしも悪よのぉ」と笑っていた男の顔が、怒りと警戒で黒く曇る。
白虎と玄武を失った獣国にとって、海を預かる魚人国の異変は、まさに「詰み」の一手になりかねない。
「……すまぬが、宴会はここまでだ。ゼノ、そしてはじめ。……もはや、笑っているどころではなくなったぞ」
森羅万象の重厚な声が会場に響き渡ると、賑やかだった音楽も、獣人たちの喧騒も、潮が引くように静まり返った。
はじめの腕に抱きついていたヴェスパも、泣きじゃくっていたりりも、その「毒」という不穏な言葉に、酔いが急速に冷めていくのを感じていた。
ランウェイの華やかさは消え、会場には刺すような冷たい空気が漂い始める。
「海が……毒に……?」
はじめは、自分の着ている派手な「獣服」を見つめ、言いようのない不安に襲われた。
謎のネクロマンサー・しゅう。
彼の影が、ついにこの世界の「命の源」である海にまで伸びようとしているのか——。
楽しいはずの夜は、音を立てて崩れ去り、一行は再び「滅びの予感」の中へと叩き落とされた。




