第二十話:ヴェスパです。乙女です
「……死んだな」
ゼノが、蚊の鳴くような声で漏らした。はじめも、激しく同意するように何度も頷く。
目の前で、柱に激突し、ピクリとも動かなくなった大臣・虚海。あの一撃は、どう見てもエンジニアが解析するまでもなく「全損」の数値を示していた。
だが、王の間を支配したのは、血生臭い処刑の空気ではなかった。
「……虚海よ」
森羅万象が、ドカドカと重い足音を立てて近づく。
一同が息を呑み、唾を飲み込む音が、静寂の中で不自然に大きく響いた。……追撃か? 止めを刺すのか?
しかし、王の巨大な手が触れたのは、虚海の喉元ではなく、その泥まみれの肩だった。
森羅万象は、壊れ物を扱うかのような手つきで、ぐったりとした大臣をそっと抱き起こしたのだ。
「……陛下……、……ぁ……っ」
虚海が、腫れ上がった顔で辛うじて目を開ける。
「……余のためを思ってやったことなのは、分かっておる。……だが、余に断りもなく他国へ救助を求め、独断で事を運ぼうとするなど、言語道断よ」
森羅万象の声は、先程の怒号が嘘のように、深く、優しい。
はじめは、そのあまりの落差に脳の処理が追いつかず、口をパクパクとさせるばかりだ。
「……よって、死罪! ……と言いたいところだが、お主の長年の忠義に免じ、この一撃を以て不問とする。……大義であった。……これからも、余に尽くせ」
「……は、……ははっ……! 勿体なき幸せ……っ!!」
顔面を陥没させられながら、虚海は感動の涙を流して王の胸に縋り付いた。
(……いや、不問って言っても、もうボコボコに殴った後だよね!? 治療費とか労災とかどうなるんだ!?)
はじめの「現代人の常識」は、もはや塵となって吹き飛んでいた。
だが、ここでさらに事態を悪化……いや、加速させる者がいた。
「——きゃあぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!! カッコいいーーーっ!! 森羅万象様、抱いてーーーっ!!」
「こ、琥珀……っ!?」
はじめが振り返ると、そこには不敬どころか、理性のリミッターを完全にぶち壊した琥珀がいた。猫耳をこれ以上ないほど激しくピンと立て、尻尾をプロペラのように回転させて飛び跳ねている。
「何その愛! 何そのバイオレンスな慈悲! もう最高です! 私、一生ついていきますぅぅっ!!」
「(……終わった……。今度こそ、全員死んだ……)」
はじめは、静かに天を仰いだ。王の私生活を、ましてや裁きの場を、ライブ会場か何かと勘違いしている仲間の蛮行。ゼノとりりも、既に観念したように目を閉じている。
だが。
「——はーっはっはっは!! よい、よい!! ういやつよな!!」
森羅万象が、腹を抱えて高笑いした。その声は、驚くほど晴れやかで、誇らしげですらあった。
「……これぞ獣国の民よ! 己の魂の叫びに、一切の嘘がない! ……はじめと申したか。お主、良い部下を持ったな!」
「……は、はぁ……。恐縮……です……(いいのか、これで!?)」
はじめ、ゼノ、りり。
三人の「異邦人」は、肩を寄せ合い、ただ困惑の海に溺れていた。
この国の「普通」が、自分たちの知る「システム」のどこにも存在しないことを、彼らはようやく理解し始めたのである。
「……ははっ、……あ、……ありがとうございました……(本当にこれでいいのか?)」
虚海が、2人の兵士に肩を抱えられながら(半分引きずられながら)深々と一礼し、腫れ上がった顔で奥へと消えていった。
静寂が戻った王の間。森羅万象が再び玉座にどっかと腰を下ろし、口を開こうとしたその刹那。
「伝令にございますッ!!」
重厚な扉をこじ開けるようにして、一人の兵士が駆け込んできた。その手には、見覚えのある「ヴェスパの封蝋」が施された正式な親書が握られている。
「……ふむ。……虫国の小娘からか。……よこせ」
森羅万象が大きな指でそれを開き、一瞥する。
数秒後。王の間を揺るがしたのは、怒号ではなく、腹の底から湧き上がるような「爆笑」だった。
「——はーっはっはっは!! ……なるほど、……そういうことか!!」
「え……? あ、あの、陛下……?」
はじめが困惑する中、森羅万象は親書を放り投げ、獲物を見つけた猛獣のような笑みを浮かべてはじめを見据えた。
「……あやつ、……お主に惚れておるな? ……このはじめという男は、我国の危機を救った真の強者である。……丁重にもてなせ、……とな。……『強者』……か。……くっ、……あのプライドの高い蜂が、男をここまで持ち上げるとは……っ!!」
「……は……? ……えっ……!?(ヴェスパ様、なんて書いたんだ!?)」
はじめは、耳まで真っ赤にして硬直した。
弱肉強食が絶対の理である獣国において、「強者」という言葉は最高の賛辞であり、同時に「伴侶として認める」という意味も含んでいることを、はじめはまだ知らない。
ヴェスパは、はじめが獣国で侮られないよう、彼女なりの「愛の後押し」を贈ったのである。
「……お主も隅に置けぬ男よのう、はじめ。……あの女王を、骨抜きにしたか!」
「は……、……はぁ……(何の話だ……?)」
訳が分からず、曖昧な返事しかできないはじめ。エンジニアの論理回路は、今や完全にフリーズしていた。
だが、その横で。
「……っ…………!!」
りりが、生まれたての小鹿のように小刻みに震えていた。
彼女には、親書の内容は分からない。だが、王の言葉と、はじめの困惑した横顔、そして何より——空気を通じて伝わってくる「強力な雌の存在感」を、本能で察知していた。
(……この……「いいようのない……胸……の……ザワザワ……」……は……何……!? ……はじめ……様……、……また……知らない……ところで……「お嫁さん……候補……」……を……増やして……きたん……ですか……っ!?)
りりの「女の勘」が、かつてないレベルのシステム警告を発令する。
戦場よりも恐ろしい「恋の包囲網」が、はじめの知らないところで着々と築かれつつあった。
「——冗談は、ここまでだッ!!」
森羅万象の咆哮が、王の間に漂っていた甘い空気を一瞬で消し飛ばした。
その双眸に宿るのは、先程までの豪快な笑いではなく、国を背負う王としての、鋭く冷徹な「眼差し」だ。
「……して、強者はじめよ。……我国の現状、そちはどう見る?」
森羅万象は、玉座に置いた大型の斧を愛しそうに撫でながら、静かに語り出した。
西の白虎、南の朱雀の陥落。四聖のうち二つを失い、死の病はついに中央の獣王領まで侵食を開始している。
最悪と言っていい戦況。だが、それを語る森羅万象の存在感は、微塵も揺らいでいなかった。
はじめは、乾いた喉を一度鳴らし、重い口を開いた。
「……恐れながら、上様に申し上げます」
(……あ、まだそれで行くんだ)というゼノのツッコミ待ちのような空気すら、今は今の重圧が許さない。
「私が虫国で得た情報、そしてこの国での出来事を総合的に判断するに……。これは単なる幽霊国による宣戦布告ではありません。その裏には、『謎のネクロマンサー』と呼ばれる、強大なシステム干渉を行う影が見えます」
はじめの声は、エンジニアがバグの原因を特定した時のような、確信に満ちた冷たさを帯びていた。
「……そして、ある筋からの情報によれば……。そのネクロマンサーは、我々と同じ……『異世界人』である可能性があります」
「「「…………ッ!?」」」
王の間を固める兵士たちが、目を見開いて絶句した。
異世界人。それは、はじめのように稀に現れる、世界の理を塗り替える特異点。
「……異世界人、……だと……?」
あの、不敵な笑みを絶やさなかった森羅万象の顔から、余裕が消えた。
三世紀もの間、この国を統べ、あらゆる強敵を斧一本で粉砕してきた絶対王が、初めて「未知の脅威」を前に驚愕の色を浮かべたのだ。
「……はじめよ。……お主、それは真か? ……この惨状を招いた『死の王』が、……お主と同じ、……あの彼方より来たりし者だと申すか……?」
王の間の温度が、数度下がったかのように感じられた。




