第二話:アラクネですか?そうですか
(……落ち着け、林はじめ。郷に入っては郷に従えだ。クライアントがどんな外見でも、まずは対話から始めるのが社会人の基本だろ?)
はじめは、はち切れそうな心臓をプログラマ根性で抑え込み、努めて穏やかな声を絞り出した。
「あ、あの……私が何を言っているか、わかりますか?」
「はい、わかりますよ。少し不思議な喋り方ですけど」
少女は小首をかしげた。その動作は、腰から下の禍々しい蜘蛛の脚とは対照的に、驚くほど可憐だ。
「……そうですか。よかった……。あんなに腫れていた足も、すっかり治していただいて。それに、言葉まで通じるようにしてくださるなんて。あなたは、私の命の恩人……いや、恩蜘蛛様です!」
はじめは藁の上で、再び深々と頭を下げた。 (きっと、彼女が高度な魔法か何かを使って、私の脳に**言語パッチ(翻訳データ)**を当ててくれたんだ。異世界の医療技術、恐るべし……!)
実際には、彼の血管を駆け巡った「巨大ムカデの猛毒」が、脳内の言語中枢を無理やり異世界仕様に書き換えた副作用なのだが、今の彼にそれを知る術はない。
「恩蜘蛛様だなんて、そんな……。私はアラクネの『リリ』。森の入り口で倒れていたあなたを見つけたのは、うちのお父さんなんです」
「リリさん……。お父様にも、ぜひお礼を申し上げたい」
「あ、お父さんは今、狩りに出ちゃってます。……それより、おじさん。その……」
リリは少し顔を赤らめて、視線を泳がせた。
「……いつまで、その『布切れ一枚』でいるつもりですか?」
「あ……」
はじめは、自分の姿を再認識した。 そこには、異世界の美少女アラクネを前に、泥だらけのバスタオルを腰に巻いただけの、五十八歳の半裸のおっさんが鎮座していた。
「……すみません。至急、**衣類**を……いえ、服を調達したいのですが、この村に、ユニクロ……的なものはありますか?」
「ユ、ユニ……? よくわかりませんが、おじさん、そんなに丁寧に頭を下げないでください。治したのは私じゃなくて、村の薬師の『ババ様』なんですから」
リリは慌てて手を振った。その拍子に、背後の蜘蛛脚がワサワサと揺れる。
「ババ様が?」
「はい。おじさんが担ぎ込まれた時、もう真っ青で、足なんて見たこともない色に腫れてて……。私、初級のヒーリングしか使えないから、毒の解毒(デバフ解除)は無理だったんです」
リリの話によれば、村で一番の知識を持つ薬師の老婆が、とりあえず「一番よく効く汎用毒消し」を、祈るような気持ちで流し込んだのだという。
「……そうですか。そのババ様という方にも、サーバー維持費を肩代わりしたいくらい感謝しなければ。あの激痛が、その薬一つで消えるなんて」
「本当ですよ! ババ様も『あんな毒、見たことないけど、この万能薬ならいけるはずだ』って、ちょっと……いえ、かなり不安そうに飲ませてましたから。効いてよかったです!」
はじめは深く頷いた。 (やはり、プロの仕事だ。原因不明のバグ(毒)に対し、まずは汎用的なパッチを当てる。それで治ったということは、あの薬師は相当な手練れに違いない)
だが、現実は違った。 あのアラクネの村にもめったに現れない特殊個体「トランスレート・センチピード」。 そのムカデが注入したのは、致死性の毒ではなく、異世界の理を脳に定着させるための「劇薬としての言語データ」だったのだ。 はじめの細胞が必死にデータを読み込み、翻訳エンジンをインストールし終えたタイミングと、おばあちゃんが適当な薬を飲ませたタイミングが、奇跡的に重なっただけ。
つまり、おばあちゃんの薬は、はじめにとっては「ちょっと苦いだけの液体」でしかなかったのだが――。
「ええ、命の恩人です。おかげで、こうしてリリさんとお話しできている」
「えへへ。おじさんが元気になって、ババ様もきっと鼻高々ですよ!」
無邪気に喜ぶリリを見て、はじめは「異世界の住人はなんて温かいんだ」と、勝手に目頭を熱くした。この世界の「仕様」が、実はムカデの気まぐれによって書き換えられただけだとも知らずに。
「さて、リリさん。まずはそのババ様にお礼を……の前に、やはりこの『セキュリティ脆弱性丸出し』な姿をなんとかしたいのですが」
はじめは、腰のバスタオルをギュッと握り直した。
「……ふむ。まずは衣服の調達、ですね」
リリは六本の脚を器用に動かし、はじめを家の外へと促した。 はじめはおっかなびっくり、バスタオルが脱げないよう腰を落としながら、一歩外へ踏み出した。
そこには、彼が予想していた「おぞましい怪物の巣窟」とは180度違う、活気に満ちた「村」の光景が広がっていた。
「い、活気がすごいな……」
空を飛び交っているのは、大きな羽根を持った蜂の羽衣を纏う商人。 重そうな荷物を軽々と運んでいるのは、頑丈そうな角を持つカブトムシの戦士。 日向ぼっこをしているのは、極彩色の翅を美しく畳んだ蝶の淑女たち。
はじめは目を見開いた。 アラクネのリリは決して「異形」ではない。ここでは、何らかの虫の特性を持つ「虫人間」こそが、この世界の標準なのだ。
(そうか、多様性の極致か……。私の勤めていた会社も、これくらい多様な人材がいれば、あんなデスマーチにはならなかったかもしれない)
妙なところで感心するはじめをよそに、リリが広場の向こうで薬草を干している小柄な老婆に声をかけた。
「ババ様! 崖から落ちたおじさん、目が覚めたよ!」
老婆――ババ様が振り返る。 彼女はカマキリのような鋭い鎌を腕に持っていたが、その表情は慈愛に満ちていた。
「おお、目が覚めたかい。あの毒消しが効いたんだねぇ。ありゃあ、わしの特製、どんな毒でも『とりあえず黙らせる』自信作さね!」
「あ、あなたがババ様ですか! 感謝いたします、この林はじめ、一生の恩義を感じております!」
はじめは地面に膝をつき、完璧な土下座を披露した。 ババ様は「っはっは、律儀な男だねぇ」と笑っているが、はじめは知らない。 遠くの木陰から、一匹の、やけに気品のあるムカデがその様子をじっと見守っていることを。
(……フム。無事にインストールは完了したようだな。あの薬師の婆の「ただの苦い水」を、我が秘奥義の功績にすり替えられるのは癪だが……。今はまだ、この男に正体を明かすわけにはいかん)
ムカデ辺境伯は、チロリと触角を動かし、音もなく茂みへと消えていった。
「……あ、あの。その脚がたくましいお洋服は、リリさんのお父様のものですか?」
はじめは、リリから手渡された「お父さんのお下がり」に袖を通した。 アラクネ用なので、腰から下が妙に広くて脚を通す穴がいくつも空いているが、58歳の短い脚なら、そのうちの二つを使えばなんとかズボン代わりになった。……余った六つの穴から冷気が入り込むのは、この際、仕様するしかない。
その時だ。村の入り口から土煙が上がった。 引いているのは巨大な黒アリ。その後ろには、豪華な装飾が施された馬車――ならぬ「アリ車」が繋がれている。
「ヒーラーはどこだ! 領主様の御子息、ゼノ様のお通りである!」
アリ車から降りてきたのは、鋭い針のような剣を腰に下げた、羽の生えた蜂の男だった。 その横柄な態度は、かつて無理難題を押し付けてきた元請けの担当者そっくりだ。
「わ、私です……」 「リリ! 戻れ、危ない!」
リリが前に出ると、蜂の男は問答無用で彼女の腕を掴んだ。 「来い! 領主様がお呼びだ。拒否権などない!」 「きゃっ! 離してください!」
リリはそのまま、強引にアリ車へと押し込められ、走り去ってしまった。
「……何だ、今の。強引な割り込み処理だな」 呆然とするはじめの横で、老いたバッタの姿をした村長が深くため息をついた。 「あれは領主様の息子さんだよ。最近、城で何かあったらしくてね……。あんな横暴、本来なら許されないが、我ら村人に逆らう術はない」
そこへ、大きな蜘蛛の姿をしたリリの父親が、狩りの獲物を背負って帰ってきた。 状況を聞いた父親は、大きな脚を震わせ、地面を叩いて泣き崩れた。 「リリ……! 無事でいてくれ……。だが、領主様に楯突けば、この村が潰されてしまう……っ!」
その悲痛な叫びを聞いて、はじめの中で「火消し」のスイッチが入った。
「……村長。お父さん。ちょっと事情を聞いてきましょうか?」 「えっ? おじさん、何を言って……」
はじめは、ダボダボのアラクネ用ズボンの裾を捲り上げ、不敵に笑った。 「私、この国の人間じゃないので。領主様との契約関係(雇用契約)もなければ、接待の必要もない。いわば、完全な外部コンサルタントです。失うもの(データ)もありませんしね」
「おお、なんという慈悲深いお方だ……! よろしくお願いします、どうかリリを!」
泣いて縋り付くお父さんに拝まれ、はじめは確信した。 (異世界に来て最初の仕事が、不当な拉致問題のデバッグか。よし、仕様書をひっくり返しに行ってやろうじゃないか。……とりあえず、靴、貸してもらえます?)
こうして、バスタオルおじさんは「アラクネのお下がり」を纏い、領主の城へと乗り込むことになった。




