第十六話:やさしいうそ。残酷な真実
はじめたちは、琥珀を中央に挟むような布陣で、教会の重厚な扉を再び押し開けた。
外は相変わらず、腐敗と湿気が混じり合った重苦しい空気が停滞している。徘徊する獣人たちの足音だけが、不気味なリズムを刻んでいた。
「……いいですか。音を立てず、彼らの視界の端を縫うように進みます。余計な干渉は一切禁止です」
はじめの低い指示に、ゼノは無言で頷き、りりは琥珀の小さな手を強く握りしめた。
一行は、肉の削げ落ちたライオンが空の籠を運ぶ横を、息を殺して通り過ぎる。壊れた時計のように同じ場所を往復し続けるヒョウの横を、影のように突き進む。
あと少し。村の境界を示す丸太の柵が見え始めた、その時だった。
「…………っ、おとーさん!」
静寂を切り裂く、琥珀の悲痛な叫びが密林に響き渡った。
はじめの背中に、冷たい戦慄が走る。
「……おとーさーーん!!」
琥珀が足を止め、村の広場で黙々と「何もない地面」を耕し続けている、一頭の大きなトラの死者に向かって叫び続けていた。かつては村一番の戦士だったのだろう、その死体は右腕が欠落し、背骨が露出していてもなお、生前の「農作業」を愚直にトレースし続けている。
瞬間、周囲のアンデッドたちの動きが、ピタリと止まった。
バグを起こしたプログラムがフリーズするように、首を不自然な角度に傾け、音の源である琥珀へと「空ろな眼窩」が一斉に向けられる。
「……しまっ……!」
ゼノが剣の柄に手をかける。はじめは最悪の「全アクティブ化」を覚悟し、奥歯を噛み締めた。
だが。
数秒の静止の後、彼らは再び、何事もなかったかのように元のルーチンへと戻っていった。叫び声という「イレギュラーな入力」を、死した脳が処理しきれず、ノイズとして切り捨てたかのように。
「……琥珀ちゃん、ダメだよ……今は、行かなきゃ……っ」
りりが、溢れ出す涙を拭いもせず、琥珀の肩を抱き寄せた。
父親だったはずの「モノ」が、娘の声にさえ反応せず、虚空を耕し続ける光景。その残酷な真実を説明する言葉を、りりは持たなかった。ただ、痛いほど強くその手を引き、前へと進む。
「はやくいこう。……立ち止まっちゃ、ダメなの……っ」
りりの震える声に押されるように、琥珀は何度も後ろを振り返りながら、引きずられるように村の外へと歩みを進めた。
はじめは、その光景を直視できず、ただ前方の「出口」だけを見つめていた。
感情を優先すれば、全員がここでシステムダウンする。その冷徹な演算結果だけを、必死に胸に刻み込みながら。
一行は、一歩、また一歩と、死者のパレードが続く村を後にした――。
村の境界を抜け、アンデッドたちの足音が密林の奥へと消えた頃、一行はようやく巨木の根元に腰を下ろした。
琥珀は、まだ時折後ろを振り返り、震える手で自分の服を握りしめている。
「……さて。小娘、いいか。……お前の村の連中は、もう死んでいる」
沈黙を破ったのは、ゼノだった。彼は剣の手入れをしながら、至極当然の事実を突きつける。
「あれはもう、お前の父でも隣人でもない。動く死体だ。情けをかければ、次は我々が――」
「ゼノ様、ストップだ!」
はじめが慌てて制止する。琥珀の顔は、見る間に真っ青に染まっていた。
「……あー、ごめんね琥珀ちゃん。ゼノ様は言葉が足りないんだ。ええと、論理的に説明するとだね……」
はじめは膝をつき、必死に「子供向けの用語」を脳内で検索した。
「つまり……村のシステム全体が、修復不可能な致命的エラーを起こしているんだ。お父さんたちのデータ……じゃなくて、意識のログは、もう別のサーバーに移っていて、今はただの自動実行プログラムがループしている状態で……」
琥珀は、はじめの難しい言葉に戸惑い、さらに瞳に涙を溜めていく。
「プログラム……? ループ……? おとーさん、……おばかさんになっちゃったの……?」
「あ、いや、そうじゃなくて……!」
はじめが冷や汗を流した、その時。
「はじめさんも、おじさんも、もういいから。……下がってて」
りりが、静かに、しかし毅然とした声で二人を押し留めた。
彼女は琥珀の正面に座ると、その小さな両手を自分の手で包み込んだ。
「琥珀ちゃん。……あのね、あそこにいた人たちはね、今、とっても深い『夢』を見てるの」
りりの声は、羽毛のように柔らかかった。
「とっても、とっても大事な夢。だから、誰が呼んでも、琥珀ちゃんが呼んでも、今は聞こえないの」
「ゆめ……? おとーさん、ずっと寝てるの……?」
「そう。……でもね、その夢は、琥珀ちゃんが近くにいると、壊れちゃうかもしれないの。だから、お父さんたちは琥珀ちゃんに『先に行ってて』ってお願いしたんだよ。……夢が終わるまで、安全な場所で待っててほしいって」
はじめは息を呑んだ。それは、何の解決にもならない嘘だ。だが、今の琥珀にとって、それ以上の「真実」など必要ないことも分かっていた。
「……りりちゃん。……いつ、おきるの……?」
「……それはね。この世界の『悪い病気』が治った時だよ。だから、私たちはその薬を探しに行こうとしてるの」
りりは、琥珀の頬を伝う涙を指でそっと拭った。
彼女自身の父親もまた、謎のネクロマンサーの手によってアンデッドにされ、もう二度と戻らない。その絶望を誰よりも知っているからこそ、りりは琥珀の心に「希望という名のクッション」を敷いてあげたのだ。
「琥珀ちゃん、私と約束して。……お父さんたちが夢から覚めた時に、琥珀ちゃんが悲しい顔をしてたら、お父さんたち、もっと悲しくなっちゃうでしょ? だから、今は私たちと一緒に、少しだけ遠足に行こう?」
「……うん。……わたし、がんばる……っ」
琥珀が、小さく、けれど確かな足取りで立ち上がった。
その様子を後ろで見ていたはじめは、自分が差し出そうとした「論理的な正解」がいかに無力だったかを痛感していた。
「……バッファ(心の余裕)を確保するっていうのは、こういうことだったんですね、りり……」
はじめは自嘲気味に呟き、りりの背中を見つめた。
かつて守られるだけだった少女は、今、自分よりも小さな命を守るために、最も優しく、最も悲しい嘘をつけるようになっていた。
はじめたちが村を離れ、中央の四聖門へと続く街道を進むにつれ、周囲の景色は「生命の拒絶」を露骨に示し始めた。
かつては瑞々しかったであろう巨木は、葉を落とす暇さえなくそのまま白く乾き、まるで巨大な肋骨のように天を突いている。地面に転がるのは、朽ち果てた果実ではなく、獣たちの乾燥した骨だ。
「……ひどい。一年前から、もうこんなことになってたなんて……」
りりが、白骨化した樹皮に触れ、その冷たさに肩を震わせる。
「……ええ。親書が届いた時点で、この国の『OS(根幹)』はすでに書き換えられ始めていたんでしょうね」
はじめは、足元で砂のように崩れる白い土を見つめた。
「辺境の村にバグが届くのに一年。……つまり、中心部に近づけば近づくほど、そこには『一年間熟成された絶望』が待っているということです」
「……おとーさんたちの、ゆめ……、……なおるの……?」
琥珀が、白骨化した森の異様さに怯え、はじめの服をぎゅっと掴む。
「……パッチ(特効薬)を当てれば、あるいは。……そのためにも、まずはこの『死のデッドライン』を突破しなきゃなりません」
はじめ達は、死のにおいが濃くなっていく、森の奥深くに進みだした……




