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第一話:幸せからの強制終了

私の名前は、はやし はじめ、しがない、システムエンジニアだ。


これまでの五十八年間、私の人生は常に「他人の尻拭い」で構成されていた。  職業、システムエンジニア。と言えば聞こえはいいが、実態は零細IT企業の万年係長であり、社内唯一の「火消し専門員」だ。他人が書き散らしたバグだらけのコードを、徹夜と胃薬で強引に鎮火する。それが私の日常だった。


 だが、神様というのは、たまには粋なバグを仕込んでくれるらしい。


「林君。次の新プロジェクト、君にリーダーを任せようと思っている」


 部長の言葉を思い出し、私は湯船の中で、ふふっ、と鼻を鳴らした。  ついに、火消しではなく、家を建てる側。ゼロからシステムを構築する側に回れるのだ。五十八歳にして、ようやく私の「本稼働」が始まる。


「あぁ……最高だ」


 手に持った冷えたカップ酒をぐいと煽る。  安い酒のはずなのに、今日ばかりは大吟醸のような芳醇な味がした。  月曜日。先方との打ち合わせ。これまでの経験を全てぶつけてやろう。  私は幸せの絶頂に浸りながら、ゆっくりと目を閉じた。湯気の中に、未来の設計図が浮かぶ。


 ……窓の外で、一瞬だけ赤い光が走った気がしたが、私はそれを「疲れ目か、あるいは吉兆の光か何か」程度にしか思わなかった。


 そのまま、心地よい微睡みに身を任せ――。


 不意に、鼻腔を突く匂いが変わった。  安っぽい入浴剤の森の香りではない。  もっと湿った、土と、生命の、圧倒的な「緑」の臭気。


「……ん?」


 目を開けた。  そこにあるはずの、カビの生えたタイル壁はなかった。  色あせたシャワーカーテンもない。


「……は?」


 視界を埋め尽くしたのは、天を衝くほどに巨大な樹木。  隙間から差し込む陽光は、見たこともないほどに白く、強い。  何よりおかしいのは。


「…………寒い」


 私は、全裸だった。  手に持っていたカップ酒はどこかへ消え、代わりに使い古したバスタオルが、情けなく腰に巻き付いているだけだ。


 見上げた空は、物理法則を無視したかのように高く、見たこともない極彩色の鳥が、悠然と横切っていった。


 混乱する脳が、職業病的に現状をパースし始める。    一、場所:不明。ただし、日本の植生ではない。  二、状況:全裸。タオル一枚。  三、原因:心当たりなし。  四、問題:月曜日の打ち合わせに、間に合わない。


「…………いやいや、落ち着け、林はじめ。これはあれだ、脳梗塞の予兆か、あるいは新プロジェクトへのプレッシャーが見せた、極めて解像度の高い幻覚に違いない。よし、再起動(再起動)だ」


 私はギュッと目を閉じ、五秒数えてから、勢いよく開いた。


 目の前には、さっきよりも大きなトカゲ(羽が生えている)が、こちらの股間を不思議そうに眺めていた。


「………………」


 認めたくない。  異世界アニメは好きだ。だが、それは「画面の向こう」で起きるからいいのだ。  五十八歳の痛風持ちが、裸一貫で、仕様書もない世界に放り出されて、一体何をデバッグしろと言うのか。


 私は、震える唇で、誰にともなく問いかけた。


「……あの、すみません。ここ、どこですか? 異世界なんて、仕様書に書いてなかったんですけど……!」


 巨木の森に、五十八歳の悲鳴にも似た敬語が、空虚に響き渡った。



 深い森だった。  街灯もなければ、空に月も見えない。SEとして言わせてもらえば、バックライトが完全に死んでいる状態だ。  なのに、不思議と辺りがうっすらと見える。まるで、世界そのものがかすかに発光しているような……。


「……まずは、安全の確保セキュリティチェックだ」


 はじめは震える肩を抱きながら、辺りを見回した。  地面には見たこともない奇妙な植物がうねっている。何かが這い出してきそうで不気味だ。ふと見ると、すぐ側に太くて、いかにも「登ってください」と言わんばかりの枝ぶりの良い木があった。


「よし、あの上なら寝床サーバーラックとしては安全だろう」


 はじめは気合を入れた。五十八歳、最近は駅の階段でも息が切れるが、背に腹は代えられない。   「ぬんっ……! ぐ、ぎぎぎ……っ」


 木にしがみつく。だが、足が上がらない。  バスタオルがずり落ちそうになるのを必死に膝で抑えながら、ミミズのように這い上がろうとするが、重力という名の「仕様」が非情にも彼を地面へと引き戻す。


「おかしいな、昔はもっと身軽に……あ痛っ!」


 木の皮で腕を擦りむいた。おまけに、踏ん張った拍子に「あいつ」が疼きだした。痛風だ。  結局、三十分格闘して、はじめが到達した最高高度は「地上三十センチ」だった。


「……この木は、私のアクセス権限パーミッションを超えているらしい」


 はじめは早々にその木を諦め、痛む足をひきずって、半べそで歩き出した。  しばらく行くと、大きな岩の影に、今度は地面に対して斜めに倒れかかった大きな木を見つけた。


「これなら……スロープ付きだ」


 四つん這いになり、岩から木へと這い上がる。今度は登れた。  地上三メートル。この高さなら、得体の知れないトカゲに股間を狙われる心配もないだろう。    冷たい夜風が、露出した肌を容赦なく撫でる。   「寒い……明日、目が覚めたら、絶対に家の布団にいてくれよ……頼むから……」


 はじめは、まるで古いOSがシャットダウンするように、安心感と疲労の中で、深い眠りに落ちていった。



 どのくらい眠っただろうか。  意識の底から這い上がってきたのは、爽やかな目覚めではなく、焼火箸を突き立てられたような**「激痛」**だった。


「ぎ、いっ……あ、熱いッ!!」


 反射的に目を開けると、まだ夜の帳は下りたままだった。  だが、視界の端で何かが蠢いている。はじめの右足首――ちょうど、昨夜から疼いていた痛風の核心部に、五十センチはあろうかという漆黒のムカデが食らいついていた。


「うわあああああああ! 出たぁぁぁぁ!!」


 パニックに陥り、はじめは木の上で激しくのたうち回った。  だが、ここは安全なサーバーラックの上ではない。  寝ぼけた頭は忘れていた。この木が「緩やかな崖」の縁に立っていたことを。


「あ、しまっ――」


 身体が宙に浮く。  そのまま、はじめはバスタオルをなびかせながら、崖下へと転げ落ちた。  ゴロゴロと斜面を転がり、木の枝や石に身体を打ち付ける。


「あだだだ! ひ、非効率的だ……こんな落下シーケンス、聞いてない……っ!」


 ようやく斜面の底で止まったとき、空は白々と明け始めていた。  朦朧とする意識の中で右足を見ると、ムカデに噛まれた場所が、元の二倍ほどにパンパンに腫れ上がっている。痛風の腫れと毒の腫れ。いわば、痛みの**「二重ログイン」**状態だ。


「痛い……誰か、救急車……せめて痛み止め(パッチ)を……」


 はじめは泥にまみれ、ズルズルと這いずりながら出口を探した。  視界が毒のせいでチカチカと明滅する。


 その時だった。


「――#&*@%!!」


 どこからか、鋭い声が降ってきた。  人の声のようだが、どの言語のプロトコルにも合致しない。何を言っているのか、さっぱりわからなかった。


(あぁ、やっぱり日本語の通じない現場か……)


 はじめはそんな場違いな感想を抱きながら、急速に遠のく意識を手放した。  最後に見たのは、自分を見下ろす「誰か」の影だった。



 二度目の目覚めは、驚くほど静かだった。  背中には柔らかいわらの感触。天井は高く、木の梁が剥き出しになった素朴な家の中にいるようだった。


(……生きているのか、私。……ん?)


 はじめは真っ先に、あの「二重ログイン」状態だった右足を確認した。  激痛に備えて身構えたが――。


「痛くない……?」


 包帯すら巻かれていない足は、ムカデの毒どころか、長年付き合ってきた痛風の腫れまで綺麗さっぱり消え去っていた。まるでバグが根本から修正フィックスされたような、ツルツルの健康体だ。


(やっぱり、ここは異世界なんだ。……よし、やるか)


 はじめは、これまで見てきたアニメの知識を総動員し、独り言を呟いた。


「ステータス! ……オープン! ……画面表示!」


 沈黙。  空中にウィンドウが出ることも、脳内に電子音が響くこともない。ただ、全裸にバスタオルのおじさんが虚空を指さしているという、極めて「仕様外」な光景があるだけだった。


「……ですよね。そんなに甘くないか」


「あの……大丈夫ですか?」


 背後から、鈴を転がすような、透き通った声がした。  はじめは心臓が止まるかと思った。日本語だ。この世界には、共通プロトコルが存在するらしい!


「あ、はい! おかげさまで! 助けていただいたようで、本当にありがとうございます!」


 はじめはベッド(藁の山)の上で、これまでの社会人人生で培った完璧な角度の「謝罪とお礼の礼」を繰り出した。頭を下げたまま、相手の足元が視界に入る。


(……え?)


 白い、細い少女の足が見えた。……が、その横に、もう一本。さらに横に、もう一本。  視線を横にスライドさせると、左右に三本ずつ。合計六本の、節のある鋭い脚が、少女の腰から生え、地面をしっかりと捉えていた。


「………………」


 はじめがゆっくりと顔を上げると、そこには白銀の髪をなびかせた、吸い込まれるほど美しい少女が、心配そうにこちらを覗き込んでいた。  ただし、腰から下は、巨大な蜘蛛そのものだった。


(アラクネ……! 蜘蛛女だ……! モンスター……だよな、これ。分類的には……!)


 はじめの脳内CPUが、オーバーヒート寸前の音を立て始めた。




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